38 湖を調査しに
村を出たヴェイセルは、ケルベロスの上に寝っ転がっていた。
少し歩いて村から見えなくなったところで、もう歩く必要もない、とこうなったのだ。
しかし、ケルベロスの皮膚は硬い。少しでも毛がふわふわしていればいいのだが、かなり丈夫らしく、寝心地は最悪だ。
「うーん。枕でも持ってくればよかったかなあ」
緊張感のない魔導師はそんなことをぼやく。
それを聞きつけた真っ黒狐耳がピンと立ち上がった。
「ヴェイセルさん! 尻尾です!」
ずいと目の前に差し出された尻尾。
柔らか抱き枕にはちょうどいい。しかし、ヴェイセルにはふと蘇る思い出がある。
この真っ黒尻尾は確か、掴んだら大暴れするはずだ。ただでさえケルベロスは上下に揺れているのに、さらに揺さぶられたら気分が悪くなってしまいそう。
悩むヴェイセルは、試しに尻尾をむぎゅっと掴んでみる。
「きゃっ。掴まれちゃいましたっ!」
可愛い言い分とは裏腹に、尻尾は激しく左右にぶんぶんと暴れ回っている。
ヴェイセルは揺さぶられてケルベロスから落っこちそうになりながら、
(これはだめだなあ。どうしよう)
などと考えるのだった。
◇
湖に着いたときには、ヴェイセルはなんだか疲れていた。
イリナは村を出てからずっと上機嫌で、それ自体は喜ばしいことなのだが、あれやこれやと話しかけたり尻尾を絡ませてきたり、とてもほうっておいてくれるような雰囲気ではなかった。お昼寝したいヴェイセルはそっとしてほしかったのだが……。
そんなわけでいつもより睡眠時間が少ない(といっても常人より遙かに長いのだが)彼は、イマイチやる気がなかった。
「ヴェイセルさん、すごく綺麗ですね! 水が透き通ってます!」
「うん、じゃあ問題ないな。帰って寝よう」
「調査しなくていいんですか!?」
思わずイリナの尻尾がピンと立ち上がった。
まさか、調査に来たのになにもしないで帰ろうと言い出す者がいるなんて、思いも寄らなかっただろう。
ヴェイセルはそのまま帰ってしまおうかなあ、イリナなら止めもしないだろうなあ、などと思っていたのだが、あとでリーシャに怒られそうな気がしたので、渋々働き始めることにした。
まずはヤタガラスの魔法道具を用いて、周囲を探っていく。その間はお昼寝だ。
しかし、絶好のお昼寝スポットが見つからない。昨晩の雨であちこちぬかるんでおり、とてもその上に寝ころがる気にはなれなかった。
困ってしまったヴェイセルだったが、すかさずイリナが彼を呼ぶ。
「ヴェイセルさん、こっちに来てください!」
手を振る彼女は、敷物の上に座っていた。二人くらいなら十分な広さがある。そして荷物の中から、お弁当を取り出している。
完全にピクニック気分の少女であった。
「お昼ご飯? さっき食べたばかりじゃないかな?」
ヴェイセルはそう言うが、そもそも彼の朝ご飯が遅すぎただけである。普通の人が昼食を取るには相応しい時間だった。
そんなことを言うとイリナがしょんぼり。狐耳や尻尾はぺたんと倒れてしまう。
なんだか悪いことをした気分になったヴェイセルは、
「とても美味しそうだ。いただいてもいいかな」
イリナは告げられるなり、尻尾をぶんぶんと振り始めた。
ヴェイセルはそんな姿を見ながら、よっこらせと横になった。ごろごろしながら、軽くつまむだけの予定だったのだ。行儀が悪い。
しかし――
「ヴェイセルさん、あーん」
そうして口に突っ込まれたのは揚げ物。ちょっと胃に優しくない。
「美味しいですか? どうですか?」
瞳を輝かせながら聞かれると、ヴェイセルには選択肢などありゃしなかった。ミティラの料理もうまいが、彼女もなかなかなものである。
「美味しいよ、とても」
「嬉しいです。たくさん食べてくださいね!」
イリナはこれでもかとばかりに、ヴェイセルの口にせっせと料理を詰め込んでいく。
これ以上は入らないと、ヴェイセルはふがふがと言葉を言うのだが、イリナには通じない。
「そんなに気に入っていただけるなんて! どんどん食べてください!」
尻尾をぶんぶん振る彼女は、興奮するとどうやら周りが見えなくなるらしい。ヴェイセルはそう学んだ。
◇
ヤタガラスによる調査が終わると、付近の土地においては、大雨による被害がないことが明らかになった。
目立った異変と言えば、そこらの野生のゴブリンが雨に打たれて風邪を引いていたくらいか。
さて、それから水質の調査だ。
これはレシアのところに持っていけばいいから、すぐに終わるだろう。
小瓶をもって湖の水をすくっていると、向こうで湖面が盛り上がっていく。
現れたのは人を形取った水の少女。ウンディーネだ。
「こんにちは。ちょっとお邪魔しているよ。水の調子はどうだい?」
ヴェイセルは会話ができるわけではないが、魔力の変化などからなんとなく言いたいことくらいは漠然と掴むことができる。天才魔導師だからこそなせる業だが、彼としては誇ることもなく、呑気なものである。
そうすると、どうやら水には影響がないようだ。この近くの山は崩れたということもないから、土砂の類もなかったのだろう。
しかし、問題はそれ以外にあるらしい。
「ウンディーネが流されて海に行ってしまった……ということかな?」
それゆえに数が少なくなっているとかなんとか。
できることなら連れ戻してほしいようだが、別に戻る気がないならないで構わないようだ。魔物だからか、いろいろといい加減なのかもしれない。
やがてウンディーネは水の中に消えていくと、今度はヴェイセルのすぐ近くに現れる。間近に来てなにをするのかと思えば、人型の腕の先が千切れるように分裂して水球となり、宙をふわふわと漂った。
それは小さな人型を取りながら、ヴェイセルの肩の辺りにとまる。仲間を説得するためについてくるのだろう。
「どうやら、俺に拒否権はないようだ」
ヴェイセルががっくりと落とした肩の上で、水の少女は小首を傾げた。
◇
川の流れに沿って下流へと向かっていたヴェイセルだったが、途中でウンディーネが見つかることはなかった。
仕方ないので、一旦村へと戻ってきたのだが、早速レシアが出迎えてくれた。
「ヴェルっち。女の子を攫うなんて非道」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。いつの間にかついてくることになったんだ。それより、これの調査よろしく頼むよ」
「うん」
レシアは研究所に戻ると、研究所にいたゴブリンを働かせ、契約している錬金術師の魔物トリスメギストスに任せる。
それからヴェイセルのところに戻ってきた。
「一緒に行く」
「え、今から? 俺は晩飯まで一眠りしたかったんだけど……」
レシアがむすっとすると、ヴェイセルは仕方なく行くことに決めた。
イリナはレシアの表情の変化にほとんど気がつかず、どういうことかとよくわからなそうにしていた。ヴェイセルは長い付き合いだからわかるだけなのだろう。
さて、そういうことになると、海でもなんとか活動できるようにしなければならない。ヴェイセルはエイネのところを訪れた。
すでに屋根の修理を終えた彼女は、工房で魔物の素材を弄んでいた。
「あれ、ヴェルくん随分早いお帰りだね? 成果があったの? その魔物、どうしたの?」
エイネはもしかすると、このウンディーネを素材と見なしかねない。ヴェイセルは説明しておいた。
「海まで行くことになったんだよ。だからさ、水中とかで使えるような魔法道具ないか?」
「それならバッチリだよ。ちょっと待っててね」
エイネは荷物を漁り始める。そんな彼女の赤い尻尾をぼんやりと眺めていると、入り口から別の客がやってきた。
「ヴェイセル。調査に行くそうだな?」
「リーシャ様も一緒に行きたいそうなの」
イリナとレシアはいいのに、二人を断るわけにはいかない。
結局、リーシャとミティラまで、同行することになってしまった。
そんな様子をちらりと眺めたエイネ。うーん、とちょっと考える仕草をしてから、袋の中に魔法道具を突っ込んだ。
「準備はできたよ! 海に出発だー!」
元気よくエイネが飛び出すと、皆がつられて動き出す。
ゴブリンたちがえっさほいさと伐採作業をしている(ただし進んでいない)姿を見ながら、村を出る。
そしてリーシャが天狐を呼び出し、エイネが機神兵に飛び乗り、イリナがケルベロスを従えた。
彼女たちの視線が、一様にヴェイセルに集まる。
「ヴィーくん。どうするの?」
ミティラがからかうが、なかなかに難しい問題だった。これは誰と一緒に行きたいのか、ということなのだから。
その上、レシアまでじっと見てくる。
困ったヴェイセルは――
「なあイリナ。しばらくヤマタノオロチを出していないし、たまには外に出してあげてもいいんじゃないか?」
そうして逃げたのであった。
結局、誰もヴェイセルと一緒に乗ることはなく、たった一人、乗り心地の悪いヤマタノオロチに揺さぶられながらヴェイセルは、やっぱり天狐のふかふか尻尾に掴まっていたほうがよかったかなあ、なんて思うのだった。




