Act8-1ヶ月
一月三〇日。朝八時。駅前ホテル。
俺はいつものように自室で紅茶を楽しみながら、思考だけは遠くの過去へと馳せていた。
「ふぅ……」
この世界にログインしたあの日から、早くも一ヶ月が経過した。
万物が現実と似て非なるこの世界において、誰もが最初に頭を悩ませた点は二つ。
まず一つ目は、例のアプリケーションだ。
黒装束によって全プレイヤーに配布されたそれは、現実世界でいう「SNS」に近いが、機能はまるっきり異なっている。(もちろんメール機能など、SNSに通ずる点もあるにはあるが)
具体的にどんな機能があるかというと、現時点で判明しているのはストレージ管理、フレンド登録、所持金の管理。これにメール機能を加えて四つだ。
ストレージ管理は、武器やアイテムのオブジェクト化をしたり、逆に収納したり。とにかく、服や携帯ストラップさえもこの世界では「アイテム」として扱われ、ストレージを使って出し入れすることができる。
フレンド登録は、普通のメールにフレンド申請機能を付け加えたもの。受け取った相手が承諾すれば成立する。
所持金の管理は、金銭を必要とする売買や飲食をすることで自動的に補充、差し引きされる。これにより、一切の窃盗行為は行うことができなくなった。
メール機能は言わずもがな。強いて特徴をあげるとすれば、知らないプレイヤー――主にフレンド外のプレイヤーを指す――にメールを送る時は、一度運営の文面チェックが行われることくらいだろう。
一ヶ月でわかったのは四つだけだが、まだ色々な機能が増えていくのかもしれない。確実に言えるのは、このアプリケーションが「パラレルコネクト・オンライン」という世界でかなり重要な役回りを担っているということだ。
そして、二つ目の問題は生活の拠点となる住居。
仮想世界と謳ってはいるものの、見た限りでは、あくまで現実の都心をそっくり移したパラレルワールドに過ぎない。どちらかというと、“仮想現実”と呼んだ方が的確かもしれない。
故に被験者である俺たちは、ログイン日のチュートリアルが終わるなり、何の抵抗もなく自宅へと足を向けた。せめて状況を整理する時間が欲しいと考えた俺も、とりあえず端末の近辺地図を開き、自宅へと急いだ。
一心不乱に走り続け、ようやく到着した俺を出迎えたのは、もはや自宅と呼んでいいものなのかすらわからない、ただの“建物”だった。
“仮想現実”なのだから、もちろん形状、材質、おそらく内装も変化してはいないだろう。
問題なのは、家の周りが謎の粒子に包まれていることだ。
青白く光るそれは、さながら「ワープホール」を家の形状に切り取って、そのまま覆っているとでも言うべきだろうか。……さすがにどこかに転送されることはないと思いたいが。
そして、本来「如月」という表札があるはずの玄関先には、【Player Home】の文字。
よく見ると、どこかしこの住居も同じ措置が施されているようで、お金──この世界では「ソル」という──を払って購入しない限り入ることはできないようだった。リアリティを追求したのか、現実とほぼ同価格だ。
アプリケーションと住居。この二つの悩みは解決の目処が立たないまま、結局一ヶ月が経ってしまった。
しかし最近、ある一つの不安に苛まれている。
――この世界に、慣れてきていること。
「悪くはない……んだけどなぁ」
人体実験。人間観察。物騒なイメージばかりが先に立っていた「HM計画」。だが今のところ、害がありそうな事例は全く無い。
数日に一度、駅前の地下ダンジョンに潜り、生活のためのソルを稼ぐ。現在のレベルは29。
アプリケーションによると、地下ダンジョンの難易度は都心に近いほど下がり、郊外に行くほど上昇していく。もちろん、厳しい場所ほど経験値やソルの効率は良いが、HPの全損が死に繋がるこの世界で、そんなリスクをなかなか冒せるはずもない。
そして、今日がその”数日に一度”のダンジョン攻略の日だ。
熱い液体を飲み干すと、一息つく間もなく脱衣所へと向かう。
そこで手早く装備を外してから、隣のシャワールームに入り、壁にかけてあるシャワーを手に取る。
この世界では、わざわざ蛇口を捻るという動作を必要とせず、温度を決めて蛇口の形をしたオブジェクトをタップするだけでシャワーを利用することができる。
とても便利だが、ここまで簡略化されると逆につまらないとさえ思えてくる。
高温のシャワーで一気に思考を覚醒させ、五分程度で脱衣所に戻り、服を着て部屋に戻る。
ちなみに髪を乾かす上でもドライヤー等を使う必要がなく、髪の毛は二、三分経てば水気が取れる仕組みだ。
「さて、行くか……」
他に誰もいない部屋に別れを告げ、俺は今日潜る地下ダンジョンの情報収集を始めながらホテルを後にした。