蜃気楼
「なんか、好きなの」
彼女を始めてみた時の印象はなんというか、蜃気楼のような人だと感じた。
存在が儚げで透き通っているような気さえする。
「この写真なんかよく撮れてるでしょ?やっぱりフィルムは綺麗なのが撮れるのね」
朱い夕日が窓から彼女のセーラー服を照らしていた。
肩甲骨のあたりまで伸びた髪をかきあげながらそう言って僕に沢山並んだ写真の中から一枚取って見せてくれた。すらりと細く伸びた指と女性らしく少し伸びた爪と血が通ってるのか不安になるくらい白い肌がなんとも対照的で、すこし心拍数が上がった。
「これは?」
海の写真、というのは分かったが少し変に写っている。海の向こう側の建物がなにか浮いているように見えた。
「蜃気楼って知らない?」
彼女は得意そうに言った。白い素肌とは逆に強調されるように赤い唇が色っぽい。
真っ直ぐと伸びた鼻筋と少し高い鼻、大きなその眼が僕を見つめながら話したそうにしていた。
「いや、聞いたことはあるけど何なの?」
僕がそう言うと彼女はなんだか「ふふん」とでも言いたげな表情で話してくれた。
「この町が海で有名なのは知ってるでしょ?冬の寒ブリなんかはニュースになったりもするぐらいだし。でもねそれ以上に蜃気楼も有名なの。夏の暑い日、太陽がこれでもかってぐらい活躍してる時に道路のアスファルトの上がこうもやもやしてる時があるじゃない?あれと同じことが海でも起こるの」
得意げな割には抽象的な説明だなと聞きながら思っていたが、なんとなく分かった。
「陽炎ってやつ?」
「そういう言い方もあるわ。妖怪の名前だと不知火ってのもあるわね」
「ふーん、それで君はこういうのが好きなんだ」
「そうなの、なんとも言いがたいけど綺麗じゃない?」
「確かに綺麗だね」
渡された写真をマジマジと見ながらそう答えた。確かに言葉にしにくい美しさがある。
太陽に照らされてキラキラと光る水面の上に立つ朧気な建築物というミスマッチが面白いとでもいおうか。
二人で写真部の部室で彼女の撮影した写真を見せてもらったのが僕の今の趣味の始まりだった。
太陽が燦々と地面を照らし上からの暑さと地面からの熱放射にやられつつ俺は海沿いを歩いていた。目的地に向かっているのだがいくだけで死にそうにすらなる。
お目当ての場所にはすでに何人か人がいた。
それらの釣り人に混じって年季の入ったフィルムカメラを三脚にセットする。
今日こそは撮れるといいんだが。
途中、自販機で買って鞄の中に入れておいたぬるいスポーツドリンクを飲んで準備をする。
使い慣れていないカメラをいじくり回してレンズを変え、絞りを調節してシャッタースピードを確認する。
ようやくセッティングをしてファインダーを覗いていると、すぐ横の方から声がした。
「どう?撮れそう?」
「どうだろ、天気予報じゃ見れるんじゃないかって言ってたんだけど」
「ふーん」
ファインダーを覗いたままそう軽く返事をした。
ここ数日通ってはいるがなかなか、蜃気楼は撮れなかった。せめて今日撮ることができたら、と祈るように覗く。
準備してから結構な時間が経ったか、いい加減暑い。そろそろ休憩しようか、なんて考えていた矢先にようやく蜃気楼が現れた。
休憩することも忘れ設定を少し変えたりしながら沢山、シャッターを切った。
持ってきたフィルムは全部使い切っちまおう、そう考えてとっていた。
フィルムを使いきった頃には喉が乾いていたことを思い出し大急ぎでスポーツドリンクを飲んだ。
ぬるくてあまったるくてお茶にしておくべきだったと多少の後悔もしつつ、早く現像してみたい、そう思った。
彼女が亡くなった、そう聞いた時は悲しさはそんなに湧いてこなかった。
確かにいつ消えてもおかしくないようなそんな人だった。
ただ少しもうちょっと一緒に居たかったな、とそんな気持ちが浮かんだぐらいだった。
しかし、考えているよりはダメージがあったのかしばらくは何も手につかなかった。
勉強も遊びも、ただ気晴らしに散歩をして安いデジカメで適当にシャッターを切るだけの日々だった。
母親に一度挨拶ぐらいはしといたほうがいいんじゃないか、と提案されて彼女の家に向かった。
遺品の整理などもまだそんなに進んでないらしく、彼女の部屋に上がらせてもらうと、以前来た時とかわりなく、ただ彼女が居ないだけであった。
そこに来てようやく、少しだけ涙が流れた。
帰り際、彼女の母親に良かったら何か貰っていってくれないかと言われたが、男の僕が服や鞄を貰ってもな、と思案していた所彼女が使っていたカメラがテーブルの上にあった。
何故か丁寧に置いてあるそのカメラを手にとってみるとその下にメモが挟んであった。
彼女から僕宛のメモだった。
内容は簡潔で要は「そろそろ使わなくなりそうだから良かったら貰ってね」とだけ書いてあった。
なんともまぁ、不思議な人だ。
彼女のお母さんに了承を得てそのカメラとメモを貰っていった。
ただ使う機会が分からず、とりあえず防湿庫に入れておいた。
「ただいま、ようやく君が好きそうな写真、撮れたよ」
彼女の墓前に向かってそう呟きながら昨日現像した写真のうち、一番彼女が好みそうな写真を選んで持ってきた。
小石を拾って墓前の前に写真と一緒に置いた。せっかく撮ったんだ、風で飛んでいってもらっちゃこまる。
手を合わせて彼女に話かけるようにいろいろと思い返していた。
彼女に一目惚れしたこと、気に入られようとカメラを買って写真を撮り始めたこと、やっていくうちに段々と写真自体好きになったこと、そしてここを出て写真で食っていこうと専門学校に行ったり、有名カメラマンに弟子入りして弟子という名の雑用係になったり、技術を盗んでフリーランスでもなんとか食っていけるぐらいにはなったこと、最近ようやくフィルムカメラの使い方を覚えたこと。
ここまでのことを思い返してふと眼を開けると俺の置いた写真が風に待っていた。飛ばないように小石を置いたんだが、と写真を掴もうとするとスルリと俺の手を抜け、そのまま上に舞っていった
。手の届かないところまで舞っていった写真を見ながら、どうやらようやく俺の撮った写真は彼女のお眼鏡にかなったんだろうなと嬉しく思った。