6:不可解な再遭遇
授業の休憩時間になってから、折倉のところへ出向き、早瀬についてたずねてみた。
女子生徒の評判は、やはり同じ女子に訊くのが常道だろうと思ったのだ。
妙な誤解を抱かれないよう、昨日「八神堂」の店内で偶然遭遇した経緯も、ちゃんと説明する。
ただし、顔を合わせた場所が、わりとマニア向けの漫画本の並んでいた棚の前だったことについては、伏せておいた。
「ああ、早瀬さんね。早瀬唯菜さん――」
折倉は、然程あれこれ勘繰る様子もなく、物珍しげな口調で応じてきた。
しかし、すぐに左手の人差し指を頬に当てて、「う~ん」と考え込むような素振りを取ってみせる。
「正直言うと、私もどういう子なのか、よくわからないわねぇ」
「へぇ、おまえでもか」
折倉は、女子のあいだでも比較的交友関係が広くて、わりと誰にでも顔が利く。多少いやらしい言い方をするなら、クラスカースト上位に属していた。
まだ入学後一ヶ月しか経っていないとはいえ、その折倉でさえ接点皆無だというのは、少し意外な気がする。
「私だって、同級生の誰とでも付き合いがあるわけじゃないわよ。……でも、そうね。図書委員の子から、ちょくちょく図書室に一人で居るのを見掛けたりする、って話は聞いたことがあるわ」
「そうか。読書家なのかな」
出没地点が本屋と図書室。
とすれば、俺の推理は当然のはずだが、折倉はすんなり納得しなかった。
「さあ、そこまではどうかしら。図書室の中でも、早瀬さんが好んで座ってる場所は、自習コーナーの席らしいから」
ふむ、そうなのか。
図書室の自習コーナーは、ただ読書をするためだけに利用する席じゃない。もちろん、だからって、本を読む目的で使っちゃいけないという規則もないはずだが、純粋にそれだけであれば普通席で用は足りる。
自習コーナーは、集中しやすいように衝立で机が仕切られている他、調べ事に便利なPCがネット接続されていて、生徒は自由に使うことができる。
そう考えると、何をやっているのか一概には決め付けられないか。
と、そこへ井山が横から、おもむろに口を出してきた。
どうやら傍で立ち聞きしていたらしい。
「ふうん、早瀬さんねえ。――彼女のことなら、以前に増岡がちょっとだけ話題にしていたけど」
増岡というのは、一年A組の中でも、頭抜けて女子生徒から評判の悪い男子である。
言動の端々にいやらしさの滲み出ているチャラチャラした男で、裏じゃ同級生の女子を、上から目線に評した独自のランキングによって格付けしているというのが、公然の秘密となっていた。
「たしか、『地味で影が薄い女子ランキング』でワースト三位、とか何とか……。鈴木さんと田中さんの次で、苗字だけは少し珍しいからたまに思い出す、なんて勝手なことを言っていた気がする」
相変わらずやってることが下衆だな、増岡。
ていうか、実はそんな格付けをしている本人が、一番女子から嫌われていて、しかも残念なことに気が付いていない――というのは、ある種の高度なギャグと言うべきか。
「増岡がそういうことしてるって噂、本当の話だったのね」
折倉は、うげーっ、と呻いて、まるで汚物にでも触れたような表情になった。
○ ○ ○
六時間目の授業が終了し、SHRが済んで放課後になった。
その後、井山に捉まって、あれこれアニメの話に付き合わされたけど、適当なところで切り上げてから足早に校舎を出た。
停車場を離れようとしていたバスへ、発車直前に急いで乗り込む。何とか間に合った。自慢じゃないけど、足の速さにはちょっとだけ自信があるのだ。
けれども、真っ直ぐ帰宅はしない。通学路の途中でバスを下車し、その後は地下鉄に乗り換える。駅前まで移動すると、目指す「八神堂」のビルは目の前だ。
言うまでもなく、昨日入手できなかった『ロゼリウス戦記』最新巻を求めて、ここに立ち寄ったのである。ラノベコーナーの新刊平台まで直進すると、今日こそ紛れもなく、夢にまで視たそれが並んでいた。
『ロゼリウス戦記』第九巻。
一年半以上も待った続刊だ。
ああ、と感動で声が漏れそうになったのを、ぐっと堪える。
アニメ放映直前だった頃みたいに、特別なフェアが行われたりしているわけじゃない。
既刊はすべて棚差しで、新刊もあくまで同日発売の他作品と同じ扱いだ。それどころか、人気最盛期の頃と比すれば、平台の上でも並べられていた場所は隅の方で、あまり目立たない位置だと言える。
それでも、俺には最新巻が輝いて見えた。
きっと読めば、どんなにか今回も面白い内容なのだろう。表紙だけでわかる。
そして、わからないやつは、永遠にこの輝きそのものに気が付かなければいいのだ。
ちょっと話題になったからって興味本位で覗きに来て、生産性のない否定の言葉だけを振りかざすようなアンチなんぞ、もうアニメ版の放映当時みたいに近寄って来なくてかまわない。
そんなふうに考えるのなら、かえって『ロゼリウス戦記』を取り巻く界隈も、現在では落ち着いて、平和な状況に戻ったとさえ言える。これでいいのだ。
もうずっと、真の愛読者以外には、売れないままでいて欲しい……
平台の上から最新巻を一冊掴むと、店舗特典のショートストーリーが封入されていることを確認し、両手で持ってレジに急いだ。
カウンターの前に並んでいるときも、幸福感でかすかに身体が震える。世の大半の人間は、俺のこんな心情を知れば嘲るかもしれない。たかだかラノベの新刊一冊購入できるぐらいで、過剰な入れ込みが気色悪いと。
でも、一冊の小説や漫画に限らず、誰だって他人にとっては何の価値も持たない事物に対し、個人的に特別な思い出を抱くことはあるんじゃなかろうか。
俺にとっては、その大切な聖域のひとつが、他ならぬ『ロゼリウス戦記』なのだ。
会計を済ませ、カバーの掛けられた新刊を受け取ると、胸はいっそう高鳴った。
レジの前から売り場を横切って、下りエスカレーターのところまで進む。
ステップへ足を踏み出そうとして、しかし直前で思い留まった。
不意に、漫画本のコーナーが視界に入ったからだ。
それで昨日の出来事を思い出した。ここからは少し陰になって見え難いが、向こう側の奥まった位置にある棚の前で、俺は早瀬唯菜と出会った。
あのとき、早瀬はすぐに俺の前から立ち去ったけど、何も本を手に持っていなかったように思う。目的の品がなかったのか、それとも単に冷やかしで店内を眺めていただけだったのか。
――雨の日の連休最終日に、わざわざ駅前の書店まで出向いて?
たしかに俺と同じような状況だったのなら不思議はないが、それじゃあ早瀬が探していた本とは何だったのか。まあ、あのA5判中心の棚に並べられている漫画の類だった、とは必ずしも限らないわけだが。
俺は、そんなことを考えているうちに、気付くと書店のフロアを引き返していた。
漫画売り場へ踏み入って、昨日の棚の傍まで歩み寄る。
その行為に何の意味があるのかと問われれば、たぶん合理的な意味はない。
昨日、そこに早瀬が居たからって、今日も居るなんて道理はどこにもないのだ。
実際、棚の前までやってきても、そこには誰もいなかった。
厳密には、見知らぬ大学生ぐらいのお客が一人、付近の通路を歩いていたけど、すぐに素通りして他の場所へ行ってしまった。
我ながら、俺はいったい何をしているのだろう。
今日は、こんなことをしている場合じゃないのだ。
鞄の中には、いまさっき購入したばかりの『ロゼリウス戦記』最新巻がある。早く家に帰って、これを読まねばならない……
そう思い直すと、踵を返す。
けれど、今来た通路を戻ろうとして、次の瞬間、驚いた。
背後を振り向いたら、そこに昨日見掛けた女の子が立っていたのだ。
さらさらの黒いロングヘアと、少しだけまなじりの釣り上がった瞳。今日は蒼羽台東のブレザーを着用に及んでいるけど、間違いない。
あの早瀬だ。クラスメイトの、早瀬唯菜だった。
「……珍しいこともあるものね」
俺が戸惑っていると、またしても早瀬が先に口を開いた。
「二日連続で、同じ書店の同じ棚の前で会うなんて」
「あ、ああ。――その、欲しい本があって、それを買った帰りなんだ」
どことなく言い訳めいた説明になってしまったが、早瀬は「そう」と素っ気無く返事し、俺の傍まで近付いてきた。棚の前に向き直って、ちょっとだけ見上げるような姿勢を取る。
視線の先は、棚の中段――
『天乃河麗華は意識が高い』の単行本が、面陳されている辺りだった。
「えっと……それ、好きなのか?」
何となく、知り合いなのに黙ったままで隣に立っているのが、居心地悪く感じられて、俺は試しに声を掛けてみた。
心のなしか、その話題に反応して、早瀬の肩が、ぴくり、と動いたような気がした。
それで、どうやら話が通じたらしいと判断して、俺はもう少し続けた。
「Webで人気を博して、単行本化されたんだよな。それで、今度は近々アニメになるっていう。ビックリしちまうよな、こんなに売れるなんてさ」
学校では、あまり大っぴらにこのテの会話をしたりしない俺だが、今は別段差し障りなかろう。二日連続でこの棚の前に来ていて、『天乃河麗華は意識が高い』の単行本を眺めているのだ。
たった今の反応からしても、早瀬は似たような趣味の持ち主とみて違いあるまい。
だが、このどことなく不思議なクラスメイトが、実は想像以上に一筋縄ではいかない女の子だということを、俺はすぐに思い知ることになった。
「……たしか、遠野くん、だったかしら」
「ん? あ、そうだぞ。遠野であってる」
咄嗟に何を問い掛けられたのか把握し損ねたが、すぐに早瀬も自分と同じだったことに気が付いた。つまり、この子の方も、俺がクラスメイトであることは察していても、名前までは自信を持って記憶していたわけじゃなかったのだ。
俺の肯定にうなずいてから、早瀬は溜め息を吐いてみせる。
「『天乃河麗華は意識が高い』のことね。――そう、私も好きだったわ」
それは、過去形でつぶやきだった。
「人気が出て、単行本化されたりする以前までは、ね」
「……人気が、出るまでは――って、ことか……?」
俺は、早瀬の横顔を覗き込み、息を呑んでたじろいだ。
思い掛けない会話の展開だった。
早瀬の言葉を、そのまま受け取っても誤解はないとするなら。
この子は、かつては『天乃河麗華は意識が高い』のファンだった。
けれど、世間で広く好評を得て、売れてしまったから、好きじゃなくなった――あるいは、もう読者じゃなくなった?
俺の理解を裏付けるように、早瀬は端的に請け合った。
「ええ。そういうことね」
「……それはまた、どうして」
俺が重ねて問い掛けると、早瀬はこちらを振り返って、鋭い目つきで眼差してきた。
「好きな作品が売れるようになって、ファンにとっていいことなんて何かあるの?」