5:一年A組全員集合
翌日、連休が明けて、久々の日常が戻ってきた。
最寄りの停留所からバスに乗車し、吊り革に掴まって揺られること三〇分。
俺が通う蒼羽台東高等学校は、国道から少し離れた住宅街の真ん中に位置していた。創立の歴史は半世紀以上前に遡り、文武両道を教育理念に掲げている……
というと、いかにもよくある進学校を連想させるけど、まあそういうありふれたイメージで語っても、概ね誤差はありそうにない。
男女共学で、コースの文理選択は二年生から。希望者を対象にした特別講習や補習の類は、早朝と放課後に定期開講されていて、わりと充実していると思う。
モノトーンカラーを基調としたブレザーの制服は、デザインが地元の女子に人気だった。
正門を潜って、昇降口に着いたのは、朝のショートホームルームがはじまる少し前だ。
下駄箱前で上履きに履き替えていると、明るい声で名前を呼ばれた。
「遠野、おっはよー!」
駆け寄ってきたのは、クラスメイトの一人・折倉咲だった。
出身中学も一緒で、おそらく現在までのところ、校内で一番気安く会話できる女子だ。つやつやした髪質のポニーテールが特徴で、現在は軽音楽部に所属している。通学鞄は右手に提げ、左肩にはギターケースを掛けていた。
「おう、今日も朝から元気だな」
「連休明けで、まだ一日はじまったばっかなのに、今から疲れてたらどーすんのよ」
残念ながら、その意見には賛同しかねる。
むしろ休日直後の通勤通学こそ、日常生活において屈指の気だるさを誇る苦行のひとつ。
それは、現代人の共通認識のはずではあるまいか。
と、心の中で密かに抗議したものの、口に出しては何も言わない。
どうせ言っても、呆れ顔でたしなめられるだけだからだ。
二人揃って昇降口を出ると、教室へ向かった。
一年A組は、校舎東棟二階の一番奥にある。
「そういえば、家を出る前にテレビ番組の録画予約してくるの忘れちゃった」
廊下を歩きながら、折倉が不意に無念のつぶやきを漏らした。
「何か面白そうな番組でもあったのか?」
「うん、まあね。午後八時から放映してる近頃話題の動物番組なんだけど。子猫と子犬の特集コーナーがあって、すごく可愛いって評判なのよね」
「今どき子猫と子犬ぐらい、いくらでもネットの動画投稿サイトで視聴できるだろ」
「番組の制作会社が独自に撮影した映像なのよ」
「ふーん。折倉がそんなに子猫や子犬を好きだとは、知らなかった」
「まあ、好きっていうか――もちろん嫌いじゃないんだけど、友達が何人か話題にしてたから、一応チェックしとこうかなってね」
なるほど。コミニュケーションツールの一種として、人気コンテンツを押さえておこうって狙いだったか。
折倉は、さっぱりした前向きな女の子らしく、人生の本質に関わるような重大事以外には、瑣末なこだわりを持ち込まないタイプらしかった。
殊に趣味や娯楽の類に関しては、広く浅く、良くも悪くも世間の潮流を自然と受け入れるような気質を備えている。
それこそある日突然、自分の好きなテレビドラマが打ち切りになったとしても、たぶん「あ、そうなんだ。そういえば、あんまり売れてなさそうだったからねー」なんて、軽く流してお終いにしてしまうだろう。
まあ、だからって、それで薄情な印象を与えないのは、根が明朗なおかげか。
他愛のないやり取りを続けているうち、すぐに一年A組の教室にたどり着いた。
引き戸のドアを開けて入る。すると、先に入室していた同級生たちが、俺と折倉に疎らな挨拶を寄越してきた。
「やあ、遠野」
それに混ざるようにして、男子生徒が一人歩み寄ってくる。
こいつの名前は、井山一平という。ひょろっとした痩身で、黒縁メガネを愛用している。付き合いは折倉よりも古く、小学生の頃にまで遡る。趣味はアニメ鑑賞で、所属している部活はアニメ研究会。……まあ、つまり、そういう男だ。
「一昨日公開された公式PVは、もう視聴したかい?」
何の、とは訊かない。
『天乃河麗華は意識が高い』のそれに決まってる。こいつは、単行本化されて以来、自分があの漫画の大ファンであることを、公言して憚っていない。
「……たしかに、もう見たけどな」
ちょっとだけ声を潜め、周囲の様子を窺いながら答えた。
他のクラスメイトは、俺たちの会話に誰も注意を払っていないようだ。
「あまり大声ではしゃぐなよ。まだ朝のSHR前だぞ」
「ふん、どうやらまだ自分を人前へ曝け出すことに躊躇しているみたいだね」
井山は、なぜか得意げな面持ちで、俺の物腰を嘲笑するように言った。
この場で話題に乗ることを遠回しに断られ、少し機嫌を損ねたのかもしれない。
「遠野も、自分の心にもっと正直になればいいのに。いっそ気楽になれるよ」
「いいんだよ、別に。それに何も、自分を偽っているようなつもりだってないぞ」
俺は、毅然として主張した。少なくとも、自分ではそのつもりだった。
けれど、井山の心には響かなかったみたいだ。「あー、はいはい」と、片手をひらつかせ、ぞんざいな応答を返してきただけだった。
その態度には、多少の不満を抱かないわけにはいかないものの、殊更否定を繰り返す気にもなれない。
――俺は、井山に言わせると、「隠れオタク」に属する人種なのだそうだ。
自分自身では、その評価を甘受することには抵抗感がある。
俺は今も言った通り、決して頑なにアニメや漫画が好きなことを第三者に隠し続けているわけじゃない。
基本的には、「訊かれない相手には黙っているだけ」である。
そして、付け加えるなら、「わざわざ自分から積極的にアピールしたいとも思っていないだけ」でもある。
というか、もう「隠れオタク」なんて、とっくに死語なんじゃないか?
井山ほど大々的に美少女アニメの素晴らしさを語る人間はやや例外的だが、割り合い気軽にオタク系カルチャーと親しんでいる層は、いまやそれほど少なくないだろう。
……当然一方では、相変わらず強い偏見を抱いている層もそれなりに居るけれど。
まあ、何にしろ、そういう諸々の事実を踏まえた上でのことだが、人前で「趣味の話題」を持ち出すのはけっこう面倒臭い。たぶんサブカルチャーに限定した問題じゃないけれど、対人関係上の危険性を常に伴う。
自分が好きなものには、必ずどこかにそれを嫌う人間が居る、と言っていいぐらいだ。作品単体を貶すような狭い意味でのアンチだけじゃなく、「美少女アニメが好きな人間は全員犯罪者予備軍だ!」と決め付けてくるような、広義での差別主義者も含めて。
で、俺がそういう手合いを苦手にしていて、極力関わり合いを持ちたくないと思っている点については、今更語るまでもあるまい。
もっとも、そうした説明をすると、井山は「つまり、消極的な隠れオタクなんだね」などと、わざわざ言い直してくる。もう何とでも好きに言え。
「ねぇ、井山ァ。ちょっといい?」
俺と井山が軽口を叩き合っていると、折倉が横から割って入ってきた。重い荷物を、先に机やロッカーに置いてから、戻ってきたようだ。
すぐ後ろには、もう一人別の男子生徒を伴っている。
折倉と同じ軽音楽部の部員で、クラスメイトの緒形悠だ。あまり身長は高くないが、鼻筋の通ったイケメンで、思いのほか性格は漢らしい。明るく染めた髪を、整髪料でまとめている(本来は校則違反だが)。
「今日の放課後、空いてる? 緒形も例のコラボの件で、少し打ち合わせに混ざりたいって」
「ああ、あの話か。いいよ、もちろんだ」
折倉が取り成すと、井山はにこやかな企み顔で答えた。
その返事を聞くや、緒形の方も「悪いな、よろしく頼むわ」と、笑顔で応じる。
「例のコラボ……って、部活の話か何かか?」
素朴な疑問を抱いてたずねると、折倉が快活に応じる。
「まあ、そういうことね。まだ先の予定だけど、七月上旬になったら文化発表会があるでしょう。それで――」
「軽音楽部で折倉が中心のグループと、アニメ研究会が協力して、ちょっと趣向を凝らした発表ができないかと計画しているんだ」
緒形が、あとを引き取って続けた。
そこへ井山も説明に加わる。
「近年、アニメソングやデスクトップミュージックも、すっかり広義でのJ-POPの一部として認知されつつあるからね。そこで今回は、僕も発表会の出し物に一枚噛もう、って話になってるのさ」
ははあ、なるほど……。
概ね、話は飲み込めた。
我が蒼羽台東高校の文化系クラブには、毎年必ず二回、校内での特別な発表の機会が用意されている。一番大きなイベントは、言うまでもなく十一月の学校祭なのだが、もうひとつが今話題に出た「文化発表会」だ。
つまり、そこで軽音とアニ研が――というか、折倉や井山を中心としたメンバーが、合同の企画を何かしら準備している、と。そういうことなのだろう。
さて、それから数分と経たず、SHRの開始を告げるチェイムが鳴った。
ほとんど同時に、教室のドアを潜って、クラス担任の三崎愛理が姿を現す。国語教師で、たしか年齢は二五、六歳。優しく朗らかだが、少々抜けたところがあって、何となくほわほわしている。大学時代から交際中の彼氏とは、ラブラブだとか。
「えーっとぉ……今日の日直は誰かしら、雨城さん?」
三崎先生に問い掛けられたのは、学級委員長の雨城梨亞だ。
窓際最前列に座る、やたらと美人の女子生徒へ視線が集まった。
「山村くんと、佐渡さんです」
きらきらした長い金髪を波打たせ、雨城は立ち上がって答えた。その仕草の一つひとつが、無駄に優美な雰囲気を伴っている。何でも、祖母が英国人のクォーターだそうで、資産家の御令嬢だと噂だ。入試時の成績も、クラス内ではトップだったとか。
三崎先生は、その返答にうなずくと、SHRの号令役には山村を指名した。
起立、礼、着席、というお約束の合図で、この日のはじまりが告げられる。
と、そのとき。
俺は、何となく思い立って、朝礼の合間に教室を見回した。
昨日、「八神堂」で見掛けた女の子が来ているかを、この目でたしかめようとしたのだ。
教室内の座席は、ちゃんと全部埋まっていた。素早く視線を動かして、室内の全体を満遍なく探す。
果たして、あの子はやっぱり教室の中に居た。
廊下側から二列目、前から四番目という、わりと中途半端で目立たない座席だ。
そこに、見紛うことなき、黒髪の女の子が座っている。
三崎先生は、五十音順で出欠を取りはじめたところだ。
俺の名前が呼ばれ、それに返事したあとに、もちろんその子の名前も呼ばれていた。
「――早瀬さん」
先生の呼び掛けに、彼女は控え目な声で、「はい」と応じた。
……ああ、そうか。
ようやく、そんな名前の女子生徒が、同じクラスに居たことを思い出した。