22:かつて売れなかったもの
地平に接近する夕陽が、街並みをオレンジ色に染め上げている。
早瀬が走り去ったあと、俺はとぼとぼと国道付近まで引き返した。いましがたの出来事について、ぼんやりと考えながら歩く。
通学用の定期だってあるし、バスに乗り直す方が早く家に着くのは明らかなのだが、今は自分の足で帰りたかった。
少しだけ、一人になる時間が欲しかったからだ。
……しかし世の中というのは、どうにもままならないようにできているらしい。
片側二車線の国道沿いを、行き交う車を眺めながら歩いているうち、ばったり見知った顔と出くわした。蒼羽台南三丁目の停車場前を通り掛かったとき、メガネで痩身の男子高校生がバスから降りてきたのだ。
「なんだ、遠野じゃないか。こんなところで会うなんて、随分珍しい気がするね」
井山だ。すぐにこちらに気付いて、声を掛けてきた。
改めて考えてみれば、この時間帯は下校する生徒が多く、国道沿いには一定間隔でバス停が並んでいる。井山の自宅は、この近所だし、これは充分にあり得る遭遇だった。
早瀬のことに気を取られすぎて、うっかり失念していた。
どうやら、孤独な物思いに耽ったりするのは、断念せざるを得ないようだ。
「……どうしたんだい。心ここに在らずって様子だけど」
ちょっと面食らって口篭もっていると、井山は不審そうに顔色を窺ってきた。
いかん、気を取り直さねば。
「たまには、ちょっとこの辺りをぶらついてみようと思ったんだよ」
俺は、適当にはぐらかしつつ、井山の隣まで進んで並んだ。
「――で、歩きながら考え事をしていた」
早瀬とのあいだにあった出来事を、ここでいたずらに持ち出す気にはなれなかった。まだ俺自身も整理が付いていないし、それゆえ上手く説明できる自信もない。
「ふぅん。遠野も人並み程度には、悩み多き青春を過ごしてるってわけだ」
井山は、ちらりと俺の横顔を眼差す。相変わらずの軽口だが、深く詮索してきたりすることはしなかった。
「井山は、今帰りなのか? 放課後の打ち合わせや作業はなかったのか」
「打ち合わせや作業」というのは無論、文化発表会での出し物に関する活動のことだ。
先日の一件以来、井山と緒形のあいだで揉め事が生じたなんて話は、もう聞こえてこない。
とはいえ、あのときのいざこざが原因で、アニ研と軽音部のステージには、準備にかなりの遅れが出ているはずだった。少なくとも折倉や緒形は、そのぶんを取り戻すために、今頃校内の防音教室で練習に励んでいると思う。
「自宅のデスクトップPCを使わなきゃ、処理できそうもない作業があってね。映像データは共有できても、マシン性能をはじめとして、世の中すべてのデジタル環境が画一化されているわけじゃないってことさ」
たしか井山は、今回の準備のために、学校の電子演算室にあるPCを使用している。加えて、他に自前のタブレットPCを持ち込んだりもしているらしい。
だが、それらの機材じゃまだ不十分で、自宅作業も必要だってことだろう。
「まあ、編集した素材のチェックだけなら、家からデータをサーバに上げて、学校に居残っているメンバーとはスマホで連絡を取りつつ確認する手もあるからね」
なるほど、情報化社会の恩恵は偉大だ。距離や時間の概念は、これから先の時代において、ますます過去と意味合いが変化していくのだろう。
いずれにしろ、井山もしっかり自分の仕事を遂行しようとしているみたいだった。
「あれ以来、軽音部とはわだかまりなくやっているみたいだな」
率直な印象を述べると、井山は苦笑いを浮かべてみせた。
「そりゃ、期限に余裕があるわけでもないし、ちょっと意見の相違があったぐらいでダラダラと引き摺ってられないよ。とっくにあの場で結論は出たことでもあるし」
この辺りの割り切った部分は、ある意味で井山らしいと思う。
「まあ、もちろん本心では、いまだに自分の意見が間違っていたとも思っていないけどね」
……この辺りも、ある意味で井山らしい。
こいつが口にしていた主張を、ふっと思い出す。
(――人気や知名度があること、売れていることの何が悪いのさ?)
井山は、そんなふうに言っていた。
たしかに、実はそれ自体は何も悪くない。
優れた作品には正当な評価が下るべきだし、もしそれが常に人気や知名度といった結果で示されるというなら、目に見える結果を追い求めることにも、たぶん何ら問題はない。
けれど、そうは理屈で考えてみても、もやもやとして、どこかすっきりと晴れないものがあった。
メジャー化に伴うアンチ層の出現とか、流行に馴染めない人間が味わう疎外感とか――
そういう副産物と、どうやって心に折り合いを付ければいいのだろう。
井山と二人で、他愛ない会話を交わしていると、やがて頭上がアーケードに覆われた街路に差し掛かった。
この地域の商店街だ。久々に足を踏み入れる。
周囲を見回してみたものの、何だか寂れてしまったな……という印象を真っ先に抱かざるを得なかった。
夕暮れ時なのに、人の往来は然程多くない。閑散とした道の両脇には、シャッターが下りた空き店舗も目立つ。
そういえば、ここから遠くない場所には、何年か前に郊外型の大きなショッピングモールがオープンした。以来、地元の主婦たちは、そこまで足を伸ばす人が増えたし、会社帰りのサラリーマンやOLには駅前で買い物を済ます人が多くなったと聞く。
これも時代の必然なのだろうか。
「遠野はさ、ここの商店街にも昔は本屋があったこと、まだ覚えているかい?」
井山は、そんな話題を何気なく切り出してきた。
「ああ、それ自体は忘れちゃいないが……。なんて名前の店だったかな」
「『スズメ書房』だよ」
俺が記憶をたどっていると、井山は即座に補足する。
そうだ、たしかそんな店名だった。
小学校の頃には、たまに漫画雑誌を買いに来たりしたことがあった。
けれど、いつの間にか廃業していたのだ。おそらく、中学校に上がる一、二年前だったと思う。
曖昧にしか思い出せないのは、その頃には駅前に「八神堂」ができていて、地域のちいさな本屋がひとつ無くなっても、不便を感じたりしなかったからだろう。
――いや、それ以前に「スズメ書房」は、小学生だった当時の俺にとって、あまり魅力的な品揃えの店ではなかったような印象が残っている。
雑誌こそ週刊誌と月刊誌が一揃い並んでいたけれど、漫画の単行本となると余程メジャーな作品じゃない限り、発売前に注文しておかねば取り扱ってくれないらしかった。
狭い店舗面積の半分以上には、小難しそうな活字の本ばかり置いてあった気がする。
「うちの父親は、あの本屋の店主と知り合いだったんだ」
「……おまえの小父さんが?」
思い掛けない事実を聞かされ、軽い驚きと共に訊き返す。
「うちの父親って、建築デザインが仕事だろ。『スズメ書房』の店舗設計も、父親の事務所で請け負った案件だったらしい」
井山は、ゆっくりと首肯して続けた。
「開業前に『スズメ書房』の店主は、自分の本屋をどんな店にしたいか、いつも熱心に身近な人たちに語っていたそうだよ。――『たとえ世間で不人気でも、良質で実になる本は沢山ある。地域に根ざした本屋になって、そういう本を一冊でも多く紹介したい』ってね」
はっとして、反射的に傍らの井山を振り返った。メガネの奥の両眼は、静かに前方へ視線を固定したまま、感情がよく窺い知れない。
――世間で不人気でも、良質で実になる本は沢山ある。
言い換えると、「売れていなくても優れているものは多い」ということだ。
早瀬が聞けば、間違いなく強い賛意を示す言葉だろう。
「でも、『スズメ書房』は――」
「そうさ、営業不振で店仕舞したんだ。たしか四、五年前だったかな」
井山は、淡々と言った。
「あとから父親づてに聞いたけど、どんな本を実際に扱っていたか知って、そりゃ仕方ないかもなと思ったよ。古い海外の翻訳冒険小説とか、カント哲学の解説書だとか……。まあ、たしかに良書ばかりだったかもしれないがね。だが、どれもこれも、みんながこぞって手に取るような本じゃないだろ、そういうやつは」
「じゃあ井山は、『スズメ書房』で買い物したことはなかったのか」
「あるにはあったさ、知り合いの店だったわけだし。僕が買うのは、いつも漫画雑誌ばかりだったけれどね」
どうやら、同類だったらしい。
でも、今の話を聞いて、俺も過去の記憶に確信を得た思いがあった。海外小説はまだしも、カント哲学なら小学生当時に興味を引かれずとも当然だ。
「あの店は、理想を求めすぎて失敗したんだよ。崇高な信念はあったかもしれないけれど、それだけじゃ周囲は付いて来てくれなかった。もっと世間のトレンドを読んで、需要に合致した商品を供給すべきだったんだ」
「そうはいっても、『スズメ書房』の店主には譲れないこだわりがあったんだろ?」
「そのこだわりに執着したせいで、店を経営していた一家は夜逃げしたんだよ」
嘆息混じりに、井山はかぶりを振った。
「あの店は、埋もれた良書に光を当てようとして、この地域で幾許かの成果を上げたのかもしれない。けれど、店主には奥さんも子供も居たって話だ。――信念を貫く引き換えに、その家族は売れないものの犠牲になってしまったのさ」
「……おまえが売れることに固執する理由が、それなのか」
ようやく、この会話の意図を把握した。
「いまだに自分の意見が間違っていたとは思わない」という主張について、こいつは持論の根拠を開陳しようとしている。
「別に『スズメ書房』の件だけじゃない。こういう話なんて、どこにでも沢山あると思う。そもそも、うちの父親の事務所だって自営業なんだし、それほど他人事じゃないんだ」
井山は、歩きながら肩を竦めてみせた。
「以前に父親が言ってたセリフなんだけど、『どんなものでも大抵の商売は博打なんだ』ってさ。このサービスなら絶対に当たる、これなら間違いなく売れる、っていう確実な手段はないらしい」
「おまえも、親父さんの見解には同意するのか」
「そうだね」
その返答を聞いて、井山が先日、なぜ緒形の意見を完全には否定し得なかったのか、理由を理解することができた。こいつだって、他人の嗜好を尊重したところで、それが必ずしも結果につながらないことは承知していたのだ。
思い返すと、あのとき井山は「人気や知名度を重視すべき」とは言っていたものの、緒形が推した楽曲自体を批難したわけでもなかった。
あくまで、「売れる確率を高めるにはどうすればいいか」を追求していただけである。
「とはいえ、誰だって自分の生活ぐらい自分で守る必要があるし、家族が居るなら自分以外の人生の一部分さえ引き受けている。だから、確実ではなくても、可能な限り確率を高める方策は、少なくとも商業活動において否定されるべきじゃない。――売れるに値するものは、正しく売れるべきだ」
井山は、力説し続けた。
「実のところを言えば今回の文化発表会だって、あくまで僕ら高校生の課外活動でしかないけど、やっぱり具体的な結果を残すに越したことはないんだ。ステージで出し物をした部は、上演後には来場者にアンケートを取って、集計内容を生徒会へ報告することになっているんだから」
「そうなのか?」
それは俺にとって初耳だった。
正式な生徒会公認の文化部に所属しているわけじゃないから、その辺りの事情には疎い。
「ああとも。その結果は、アニ研と軽音部の活動実績に加味され、次期生徒会予算案が提出される際にも一定の影響を及ぼす。無論、観客の反応が芳しくなかったとしても、それだけで部費が突然削減されたり、今後の活動に見直しを迫られるような事態になったりはしないと思うよ。でも、僕たちの後輩になるはずの世代のことを考えたら、文化発表会みたいな場で人気取りしておくことは、部という組織の将来にとって必ず有利に働くはずなんだ。部費や入部希望者の確保といった観点からみてね」
あれは身勝手で考えた主張じゃなかった、と言いたいのだろう。
夕暮れのアーケード街を抜けたとき、井山の口元がちょっぴり悔しげに曲がっていたように見えた。




