1:プロローグ
白く、か細い指先が、タブレットの画面をスワイプする。
俺が通う蒼羽台東高等学校のクラスメイト・早瀬唯菜は、輝く液晶の中に次々と表示されていく画像を、満足そうな面持ちで眺めていた。
「昨夜更新された最新話の内容も、実に見事で申し分ないわ」
つぶやきながら、肩に掛かった長い黒髪を、軽く、かき上げるように片手で梳いてみせる。柑橘系の香りが漂ってきて、身じろぎせずに居られない。
日頃見慣れた高校の制服と違って、早瀬の私服姿は新鮮だった。レースをあしらったブラウスの上から、薄手の青いボレロを羽織って、マリンブルーのスカートと合わせている。ちょっと育ちのいいお嬢さんといった装いだ。
早瀬は、俺――
遠野遥輝のすぐ隣に座っている。
二人並んで腰掛けているのは、クッションがよく利いたベッドだ。
他に適当な場所がないからって、ここへ座れという指示に従った。
すると、すぐに早瀬も、俺の横へ腰を下ろしてきたのだ。
恥ずかしながら、女の子の部屋へお呼ばれしたこと自体、初めての経験である。
それでいきなり横一列になって、その子のベッドに腰掛けるというのは、意識するなと言われても、自分の経験値不足から考えて無理難題というものだ。
とある課外活動の都合から、俺が早瀬家にお邪魔したのは午後一時過ぎ。それからまだ、三〇分と経過していないはずなのだが、緊張の余り時間感覚にも自信が持てなくなりつつあった。
けれど早瀬は、こちらの動揺なんてお構いなしといった様子で、勝手に話題の先を続ける。
「やはり私の目に狂いはなかったようね。――この『カエルコのヘヴィな日常』、相変わらず商業作品にも見劣りしないクオリティだと思わない?」
問い掛けられて、はっと俺は我に返った。
早瀬が手に持つタブレットへと、何かを誤魔化すように視線を落とす。
『カエルコのヘヴィな日常』(便宜上、以下『カエルコ』と略す)。
アマチュア制作によるWeb漫画のタイトルだ。かねてより、早瀬から繰り返し紹介され、俺も何度か読んでみたことがあった。
ジャンル的には、いわゆる日常系作品……ということになるだろうか。四コマ漫画などを中心に発展した分野である。
また、この『カエルコ』は、その中でも特に「百合物」という傾向を併せ持っていた。
主要キャラクターには、主人公のカエルコ(本名・河荷還琉子)をはじめ、女の子しか登場しないのだ。男性キャラクターは皆無。
とにかく毎話、可愛らしい女の子同士がひたすら日常シーンを繰り広げる。
「まったく、これほどの良作なのに、ネットの片隅でしか評価されず、埋もれたままになっているだなんて……。やっぱり世の中なんて、見る目のない人間ばかりね」
早瀬は、どこか嘲るような口振りで言った。
だが、すぐさま思い直したらしく、吐露した感想を慌てて打ち消す。
「――まあ、そうは言っても、現状ぐらいが丁度いいんだけど。ひょんなきっかけから有名になって、あまり売れてしまうのは好ましくないわ」
と、タブレットから顔を上げ、早瀬はこちらを振り返った。
黒目がちな瞳が、至近距離で俺の顔を覗き込んでくる。
「ねぇ。君だってそう思うでしょう、遠野くん?」
「……ああ。それはまあ、たしかにそうだな……」
同意を求められ、俺は少し居心地悪さを感じながらも、肯定的に応じた。つい、正面から目を逸らしてしまったのは、物慣れぬがゆえの悲しさだ。
――『本当に気に入った作品には、必要以上に売れて欲しくはない』。
実を言えば、俺と早瀬の二人は、根底にある動機にこそ差異はあれ、どちらもそんな共通の願望を抱いている。趣味が似通っていたのはもちろんだが、同時にかくいう特殊な価値観を共有していたことから、ここ最近急速に親睦を深めた。
「でも、このWeb漫画については、そこまで心配しなくてもメジャーにはならないんじゃないか。――いや、早瀬の言う通り、内容自体は面白いと思うんだが」
『カエルコ』は、漫画イラスト投稿系SNSとして、国内最大規模を誇るサイト「PiClub」にて連載されていた。
表示の作品情報によれば、閲覧者による総合評価は合計四五三二点、ブックマーク登録数三八九にものぼる。これは一次創作、すなわち完全オリジナルのアマチュア投稿作品としては、かなり高評価と言える部類だ(実のところ、八割近いWeb漫画は、同SNSで総合評価一〇〇点の壁を超えることさえ出来ない!)。
とはいえ、それでも出版社の目に留まるなどし、単行本化の誘いを受けて、そのまま商業作品に序列されたりするようなことはないと思う。
そのためには、より高い評点などを要求される印象があった。
過去の例だと、かつてWeb発の学園ラブコメ漫画『天乃河麗華は意識が高い』は、単行本化前の時点で、PiClub連載中に総合評価七万点以上、ブックマーク登録数七五〇〇とかいうブッ飛んだ数字を叩き出していたはずである。
「ちょっと『カエルコ』は、扱っている題材に人を選びそうな要素があるからなあ」
思わず、腕組みしてしまう。
『カエルコ』が微妙に売れそうで売れない、最大の要因――
それは、この作品が「ヘビ擬人化」漫画だという部分だった。
主人公のカエルコこそ、その名が示す通り蛙の擬人化キャラであるが、それ以外の女の子たちは皆、アナコンダ、ニシキヘビ、コブラ……といった、ヘビをモチーフにした登場人物ばかりなのである。
で、彼女らに好かれてしまったカエルコは、文字通り「蛇に睨まれた蛙」よろしく、身辺の状況に萎縮しつつも、いつの間にか百合ハーレム(という表現が正しいかどうかはわからないが)を形成していくのだ。
作者がキャプションに自ら打った売り文句は、「重すぎる純愛束縛系ヘビ擬人化百合ラブコメ」。
ちょっと濃すぎて、胃もたれしそうな勢いである。
もっとも、早瀬には俺の発言がお気に召さなかったらしい。
「何言ってるの、遠野くん。この作者独自の尖った感性を楽しめるところこそ、Web漫画の醍醐味じゃない」
「そりゃ、そうなんだが」
アマチュア作品には、商業作品と違って、読者需要なんか度外視で冒険ができる良さがある。そのぶん、玉石混合に陥りやすい側面もあるのだが、既存作品にない斬新さを求める人々にとっては、心躍る魅力のひとつだ。
俺は、タブレットの画面に再び目を落とした。
そこには、『カエルコ』の一ページが表示されている。
主人公のカエルコが、背後から主要キャラの一人に抱き締められているコマだ。
このもう一人の女の子は、たしかニシキヘビの擬人化キャラで、仁志木絵美だっただろうか。
(――私、カエルコちゃんのこと、もう誰にも渡したくない……)
そんな台詞がフキダシの中に書かれている。
基本的に「軽いノリを好む読み手が多い」と言われる日常系百合漫画のはずなのに、キャラの抱えている愛がやたらと重い。
ていうか、よく見ると、このコマも抱き締めるっつーより、今にもカエルコちゃんがエミに絞め殺されそうな雰囲気ビンビンだった。
間違いなく、このそこはかとなく漂う病気っぽいテイストが、読者を篩いに掛けているのだと思う。
……まあ、それはさておき。
「にしても、この作者はよくこんなにオリジナル漫画を描き続けられるもんだな」
早瀬が閲覧していた『カエルコ』最新話は、画像タイトルを確認すると第六七話。
第一話目の投稿日時は、一年半以上も前で、基本的に毎週一話前後のペースで投稿し続けられているのがわかった。
「どんなに連載したって、アマチュアが自主制作しているWeb漫画じゃ、稿料も印税も発生しないってのに」
ましてや、特に大好評というわけでもないと来れば、そのモチベーションを維持する源泉はどこにあるのか。
唸るようにつぶやくと、早瀬はかすかに微笑を浮かべる。妙な訳知り顔だった。
「世の中に存在する数多の趣味には、大概において報いなんてものは何もないし、無意味な時間の浪費以外の要素もないわ。けれど、だからこそ、そういう環境の中で生み出されるものは、何より尊いのよ」
早瀬は、教え諭すような口調で言った。
「自分の作品を振り向いてくれる人がほんの僅かでもかまわない、ただひたむきに好きだから作り続ける――そういう見返りを求めない行為。そこにあるものこそ、きっと創作に対する純粋な想いだわ」
そうした純粋な想いに、不純物が入り込んで欲しくない。
この子は、だから「売れないままで居て欲しい」のだ、としばしば主張しているのだった。
世間では、こういう価値観を「マイナー作品至上主義」と呼ぶ人も居るかもしれない。
「……ねぇ、遠野くん」
名前を呼ぶ声と共に、柔らかな感触を覚えて、俺は心臓が飛び跳ねそうになった。
早瀬の手が、ベッドの上で俺の手の上に、重ねられている。
「遠野くんは、そんなふうに思わない?」
囁くように訴えながら、早瀬の瞳がこちらを眼差していた。
甘く、誘うような視線だ。今度は俺も目が逸らせなかった。
「――は、早瀬。俺は、その……」
同級生の女の子と、こんなに間近で見詰め合った経験は、これまで一度としてない。
喉の奥に息苦しさを覚え、口篭もって上手くしゃべれることすらままならなかった。
「……遠野くん。私、遠野くんは――私と同じ気持ちだって、信じてる……」
早瀬は、ちょっぴりおとがいを反らして、殊更に顔を近付けてくる。肌の白い頬は、今だけほんのりと桜色に染まっていた。
もう、相手の息遣いはおろか、心音まで聴こえてきそうだ。
あ、あああああっ。
これは、まさか、ひょっとすると、そうなのか?
遠野遥輝、高校一年生。
クラスメイトの早瀬唯菜と、今日ここで、じ、人生初めての――
「あのね」
「……うん?」
二人で一緒に瞼を伏せかけて、まさに互いの唇が最接近した、そのとき。
にわかに早瀬が、うっとりとさえずるみたいに言った。
「私、初めてキスした男の子と、そのまま結婚する予定だから」
……。
…………。
「――ちょっと」
「な、なんだよ」
「どうして、急に顔を背けて、私の傍から離れたの?」
そう。気付くと、俺は自然と身体を後ろへ引いて、早瀬とのあいだに距離を取っていた。
「えーっと。何となく?」
「……ふうん」
早瀬は、途端に険のある面持ちになって、こちらを眼光鋭く眼差してきた。
今日の屋外は天候も良く、暖かな日差しが降り注いでいるというのに、なぜだか室内温度はみるみる下降中のようである。怖い。
いや、でもごく一般的な感覚から言って、この春高校生になったばっかの未成年男女が、ファーストキスひとつで婚約確定なんて、どう考えてもおかしいだろ!?
それとも、そういうのが早瀬の考える理想の恋愛なのか。
「初恋の相手とそのままゴールイン!」的な。
それこそラブコメ漫画や純愛ライトノベルみたいな、酷く空想的な話だ。
薄々勘付いてはいたけど、早瀬のやつと来たら、凄まじく重いタイプだな……。ハンパねぇ。
この子が『カエルコのヘヴィな日常』を絶賛してやまない理由も、微妙にわかるような気がする。ヘビだけど、ヘヴィだからか。気付かなきゃよかった。
「――意気地なし……」
数秒挟んでから、ぼそっと早瀬はつぶやいた。それから立ち上がって、室内の真ん中にあるテーブルへタブレットを置く。手近なクッションを手繰り寄せると、床に敷いて座り込んだ。
すっかりヘソを曲げてしまったみたいだ。右手の人差し指が、いじいじとカーペットにちいさな円を描いている。
早瀬のやつ、面倒臭ェなあ……
でも、何を言われようと、この子が本気で今の主張を固持するというなら、俺の対応は間違っていないだろう。女の子と付き合う覚悟が足りない、という批難ぐらいは甘んじて受ける(いや、それ以前に、まだ正式に交際しはじめた憶えもないんだが)。
その場の流れに任せて動いて、あとあと無責任な態度を取るよりいいはずだ。
だいたい、俺と早瀬が知り合ってからは、一ヶ月余りしか経っていない。
理解し合うには、もう少し一緒に同じ時間を過ごすべきだと思う。
そして、互いに色々な出来事を経験し、きっと顧みる余裕を持つ必要がある。
例えば、そもそも俺たちは、どんな経緯から相手を認識し合うようになり、交友を持つようになったのだったろうか。
二人が出会い、現在に至るまでのことを思い出してみる。
そう、まずはその辺りからはじめてみよう……