2.落書き少女と迷わない審判
地球の夏のように暑く、少しキツめに日差しが地面を刺す道の中、少女は一人歩いていた。
その長い金髪の輝きは空中に金色の線を引く。
背中に生えている小さな翼は衣装の中に隠れているが、パタパタと団扇のように空気を衣装内に送り込んでいる。
ヨハネ・ヘクトヘッジは近所のショップに向かっていた。何故か唐突にショップに行くと言い出した少年、リュウトの考えは分からないが、ヨハネはヨハネなりに床を壊した事を反省している。だから文句を言わずに、どうにかする方法があるのならば……という事で付いて来て居たのだが──気付いたら一人になっていた。
確かにヨハネは色々な訳があり、この世界の地理には詳しくない。
しかし、ヨハネはタチクラ三荘に住み着いてから毎晩、タチクラ三荘の上からここら一帯の風景を眺めて居たのだ。
それ故に近場のショップに行く程度の事で迷う事はない。つまり道を間違えたのはリュウトだった。
たわいもない会話をしていたリュウトとヨハネだったが、途中でリュウトが曲がらなければならない道を直進したのだから、彼が迷ってしまうのは必然だったのだろう。
そしてそれをリュウトの後ろを歩いていたヨハネなら、気づく事は容易かった。だが、ヨハネはあえてリュウトに指摘する事はなく自分だけその道で曲がった。
イジワルをする気もなかったし、忘れた訳でもない。なのに何故かヨハネは声をかける事をしなかった。
ヨハネ自身にも、何故声をかけなかったのか理解出来ない。
何故と問われたら「分からない」と返事をするだろう。
まるでそれが世界の意志だったとでも言うように──
こうしてヨハネは一人になったのだが、リュウトを探しに行って自らも迷子になっては仕方が無いと思い、とりあえずは当面の目的地であるショップに行き、彼を待とうと決めたのだった。
(あれ……何、やってるのかな?)
しばらく黙々と歩いていたヨハネだったが、そこで一人道端でこそこそと怪しげな動きをする人物を目に止める。
暑苦しそうなローブを羽織り、装飾過多のとんがり帽子を被ったその人物は、道の隅っこの塀に何かを書き込むのに夢中になっているのか、周りから距離を置かれ好奇の視線に晒されているのも気にしていない。
まるで必死に絵を描く子供のように見えない事もない。
だが、呪詛の言葉を呟くようにボソボソと何かを言いながらやっているのを見れば、それはただの怪しげな儀式にしか見えなかった。
そしてヨハネはそれをしばらく眺めていたが、眺めていて何かを思ったのだろう。
おもむろにその人物に接近すると、その真後ろに立った。
四つん這いになりながら尻を上げているその人物は、それにも気付かず黙々とミミズが這った跡のような、文字とも模様とも区別のつかないものを書き続ける。
そうして気付いてない事を確認したヨハネは、片足を振り上げると──
「みっぎゃあぁぁぁぁぁぁっ!?」
その尻を思いっ切り蹴り上げた。
それから少し時間が経ち、ヨハネは一人の少女と公園のベンチに座っていた。
「えっと……私はセヒラベート・アンバー。セヒラって呼んでくれればいいからね」
先程の不審者──セヒラはそう名乗ると若干涙が溢れている目尻を拭った。
ヨハネが思いっ切り蹴り上げた結果、彼女は顔面から塀に突っ込む事になり、さらに書いていた模様も滅茶苦茶になるという散々な目にあっていた。しかも、印を書く為に使っていた特殊なチョークも折れてしまったらしい。
それを蹴り上げ終えたヨハネは少しの間見ていたのだが、その後すぐに逃げ出そうとした。
しかし、早めに復活を果たしたセヒラに捕まり、近場の公園まで連行されて現在に至る。
「ヨハネ。ヨハネ・ヘクトヘッジ」
ヨハネはそう名乗ると、立ち上がり逃走をはかる。だが、予期されていたのだろう。服の裾を捕まれ妨害されてしまう。
「待って!待って!まだ何も言ってないよね!?早々に逃げ出さないで!」
「でも、話す事は、ない」
「あんな事やっといて!?」
驚愕するセヒラを尻目に、ベンチに腰を下ろし直す。
暑い中、無言のまま時が過ぎていく。ジリジリと肌が焼かれる感覚に、むずむずし始めるヨハネ。
「えっと、それでね?あなたどうして私に?」
「なんと、なく?」
「なんとなく!?理由なかったって、それは酷くない!?」
「喉、渇いた」
「全く関係ないんだけどっ!?」
ツッコミ疲れたのか、セヒラはベンチを立ち、ちょっと待っててと言うと駆けていってしまう。
(誰か、呼んでくるのかも)
そう思い、ヨハネも今なら逃げれると立ち上がり、その場を立ち去ろうとする。
しかし、彼女が何か害のあることをしてきそうにない気がして、そしてなにより彼女が何をするのかが気になって、ヨハネは立ち去る事をやめ、再びベンチに腰掛け大人しく待つ。
そして、彼女は案外すぐに戻ってきた。息を切らし汗だらけの状態になりながら、彼女は特殊な形をしたガラスの瓶をヨハネに差し出す。
ヨハネは訝しげにそれを受け取り、その冷たさに驚きセヒラを見る。
セヒラはにっこり笑うと、飲むようなジェスチャーをする。
「喉……渇いた……って、言ってた……でしょ?」
「それで、買ってきたの?お人好しの、バカ?」
「バっ……バカ……!?」
そんな風に言わなくても……と落ち込むセヒラを見ながらヨハネは思う。
そもそも彼女に意味もない暴力を振るったヨハネに、普通の飲み物を奢る筋合いなんてない。むしろ、何かしら害のあるものが入っていると考えるのが妥当だろう。
だが、ヨハネの前で早く飲んでと言わんばかりに瞳を輝かせているセヒラからは、悪意のようなものは感じられない。
これはどうしたものかと悩みながら、ヨハネは瓶の栓を抜く。嗅いだことのない匂いだが、おかしな匂いというほどの匂いではなく、色も問題はなさそうに見える。
飲めそうだ、そう判断したヨハネは瓶を口につけ中身を呷る。
その瞬間、カラカラに渇いていた喉に潤いが戻り、甘酸っぱい味が口に広がる。
そしてすっと鼻を抜けるような爽やかな感覚がしばらく残り、更にそれだけでなく不思議な事に、口内に通常より長く冷たさまで残っている。
今まで飲んだ事のないその飲み物に、ヨハネは夢中になりあっという間に飲み終えてしまう。
セヒラはその様子を嬉しそうに見守っていた。
しかし、それは最初だけで飲み物の中身が減っていくにつれて表情が変わってゆく。彼女も走った事により喉が渇いてきたのだ。欲しいものを買ってもらえない子供のような目線を送り、最終的には涙目になっていた。
だが、そんな彼女の事は露知らず、飲み切ったヨハネは満足そうに空いた瓶を眺めていた。
「美味し、かった。ありがとう」
そう言うとヨハネは空になった瓶をセヒラに手渡した。
「って、私に渡すの!?せめて、これくらい自分で処理をするものじゃない!?」
「セヒラなら、やってくれそうな、気がした」
「私を便利なパシりとかだと思ってるでしょッ!」
今日出会ったばかりの二人に、上下関係が出来上がろうとしていた。初対面のはずなのに、ずっと前から知り合いだったような、そんな感覚。
「そういえば、あれは、なんだったの?」
「さっきの飲み物の事?あれはね、私がよく行く駄菓子屋さん特製の飲み物なの。だから名前とかはこれと言ってないんだけど、不思議な味で美味しかったでしょ?」
コクコクと首が取れてしまいそうな程頷くヨハネを見て、ニコニコ笑うセヒラ。傍から見れば仲の良い姉妹にも見えるかもしれない。
それから二人はとりとめのない会話を続けた。ヨハネの話を驚いたりツッコミを入れたりして聞くセヒラは、何か吹っ切れたように楽しそうに笑っていた。
しかし、数分話したところでヨハネはショップに向かわなければならない事を思い出し、ベンチから立ち上がる。
「ど、どうしたの……?」
「用事、思い出した」
「あー、なら仕方ないね。うん、今日は沢山話してくれてありがとね。たまたま会っただけなのに」
照れくさそうに頬を掻きながらそう言うと、セヒラも立ち上がる。そうして若干乱れていた髪を整え、ローブの裾を軽く叩く。
「そういえば、なんで、ヨハネと話したの?」
「えーっと、それはなんていうか……私、なんでか分かんないんだけど人に避けられがちだから。どんな形でも関わってもらえるのが嬉しくて、その……つい」
「なんか、可哀想」
「やめて!そんな風に言わないで!?そ、それじゃ、バイバイ!」
自分の言っていることの悲しさに、恥ずかしかくなったのか、逃げるように去っていくセヒラ。
それを見送ってからヨハネも立ち上がり、ベンチの上に置きっぱなしにされたとんがり帽子に気付く。
(アイデンティティーを、失ったセヒラ)
彼女のアイデンティティーを勝手に決めつけ、持ち主に置いていかれどこか哀愁漂うそれを手に取ると、ヨハネはそれを被りショップへ続く道に戻る。
セヒラと話している間、リュウトが通っていない事は確認済みだから、恐らくショップに着いても彼は居ないだろう。こんなに暑い中、どこをほっつき歩いているのか、ヨハネには分からないし、分かろうとも思わなかった。
ほっつき歩いた結果、彼に何か起こっているかもしれない。
しかし、彼が余りにも遅れ過ぎたら最終審判を使ってやろうと心に決めたヨハネであった。
ヨハネと別れた後のセヒラは再び、道端の作業へと戻っていた。今の彼女は最高に気分が良く、今までより効率よく作業は進んでいた。
それにしても不思議な少女だった。セヒラはヨハネという少女と話して、今までにないほどに楽しかった。
かなりバカにされていた気もするし、こちらにあまり興味を持ってもらえていなかった気もする。しかし、そんな事は気にならず、ただひたすらに話すのが楽しかったのだ。
(あんなの、いつぶりだったかな。一度もなかったっけ)
思い返しただけでも思わず頬が緩んでしまう。今は大事な作業中だというのに、このままではいけないなと、彼女は気持ちを切り替え作業を再開する。
既に日も高く、その暑さは尋常ではない。ここ数日はずっと、この調子で太陽が照り続けている。滴る汗を拭いながらも少女たちは一心不乱に文字を書き続ける。知らない人間には、ただの印程度にしか見えない文字を──