【第六話】長居する鉄檻で
「どうして……土岐様……」
髭づらの男はそう言葉を苦しげに零して、息絶えた。
その時になって初めてこの血溜りが自分のものではないことに白臣は気がつく。さっきまで偉そうにしていて、自分の眼球を抉り取ろうとしていたこの男は、もうぴくりとも動かなかった。
その屍となった男をまるで穢らわしい物でも見る様に見下ろす男がいた。その男は刀の血を払う様に空を斬った後、刀を鞘に戻して白臣ににっこりと微笑んだ。端正な顔立ちに返り血を浴びたその姿は異様な物に白臣には感じとれた。
「すみません、私の部下が無礼を働きまして」
そう言って深々と頭を下げるこの男に、白臣は慌てて頭を下げた。さっきなんの躊躇いもなく自分の部下を斬り殺した人間には見えないほど、その男は清い存在に見えたのである。
男は頭を起こしてから、ちらっと屍に視線を移す。その一瞬の表情は酷く氷を思わせる様な冷たいもので、白臣はどちらがこの男の本性か見極めかねていた。
「お前達、この子の縄を解いてやりなさい。それからその死体は目障りなので肥溜めにでも捨ててきなさい」
「は、はいっ!」
「それから…」
男は檻の中へと視線を流した。
「天狗を檻から出してやりなさい」
「よ、良いのですか?」
「良いと言っているのです。早くしなさい。それとも、〝これ〟と同じ様になりたいのですか?」
男の視線の先には、大きく背中を斬られた髭づらの男の死体。部下の男達は小さく悲鳴を上げ、手際良く白臣を拘束する縄を解き、鉄檻の錠を開けて、広がる血溜りを丁寧に拭き取って死体を外に運び出しに行った。
二人を見届けてから端正な顔立ちの男は、檻から出ようとしないその男を一瞥した。顔は微笑んでいるが、先ほど白臣に向けたものとはどこか違う様な違和感のある微笑みである。
「どうしたのですか?天狗。早く出てきてくださりませんか」
「あんた、何が狙いだ?」
男は胡散臭そうに柔らかに微笑んでいる男を睨んだ。彼ははそんなの態度に大袈裟に驚いた様な素振りを見せ、何もないとでも言うように手をひらひらと振ってみせた。
そんな男の態度に、檻の中にいる男は更に眉間の皺を深くするが、ここは言ううとおりにするべきだと思い、気だるそうに檻から出る。
男が檻から出たのを見届けて、柔らかな微笑みを浮かべている男は、白臣と彼を交互に見ると口元に人差し指を立てた。
「見逃してあげる代わりと言うとあれですが、この様な自分の欲を満たすことしか考えない愚かな人間が那智組にいたことは内密にお願いします」
男はわざとらしい溜息を吐き、眉間に皺を寄せている彼に鋭い視線を向けて話を続ける。
「妖怪は絶対的な悪、那智組は絶対的な正義でなければなりませんので」
男はにっこりと微笑んだ。白臣にはこの男の微笑みが、憎悪が込められたものの様に見えた。確信はないが、なんとなくそう感じたのだ。
「さあ、貴方がたも長居はしたくないでしょう。あちらを真っ直ぐ進んだ右の辺りに隠し扉がありますので、そこを進むと敷地外に出ることができるようになっています」
男の話が終わる前に彼は背を向け、歩き始める。白臣も遅れない様に後に続く。
「天狗、待ちなさい」
「あ?」
「お忘れ物ですよ」
端正な顔立ちの男は微笑みを崩さず、だか確かに冷たさを感じさせる表情で、刀を二本、差し出した。
男は面倒くさそうに男の元へ行き、ぶっきらぼうに刀を受け取ると、それを腰に差す。
「礼なら言わなくても結構ですよ。礼ならあの子に言ってあげなさい。あの子の心に私は深く感動したのですから」
「………」
それから、と男は射殺す様な視線で睨みつけ、冷たい声で続けた。
「今日は見逃してあげますが……次会った時には命日だと思いなさい。一片の爪の欠片もこの世に残さないでやりますから」
その氷の様な声は小さな声量だが、鼓膜の奥に絡みつく様な殺気が込められているのを感じて白臣は思わず身震いをした。
「あんた、名前は」
「土岐翔和と申します」
「……覚えておく」
男は舌打ちをするとその男――土岐翔和に背を向け、白臣に視線を移した。
「行くぞ」
その言葉が自分に向けられたものだと白臣は少し間があってから気付き、暗がりで見失わぬように後を追った。
隠し扉の先に進んだ二人は難なく敷地外に出ることが出来た。夕日はほとんど沈みかかっているがまだ完全には沈みきっていないことが、白臣を驚かせる。既に朝になっていると思っていたのだ。
白臣にとっては那智組にいた時間は、密度が濃く、しかも何日も経過していると感じさせるほどの長い時間であった。まるで狐につままれたみたいだな、と白臣は心の中でぽつりと呟く。
白臣の少し前を歩いていた男は、ふと足を止めた。白臣もそれに合わせて足を止める。彼は振り向かずに白臣に向かって、ぶっきらぼうに問いかけた。
「……お前は何で俺を檻から出そうとしたんだ? 目ん玉くり抜かれてでも俺を利用してぇのか?」
「そんなんじゃない。ただ……」
白臣は懐に手を入れ能面を取り出し、それを突き出した。男はそんな白臣を目だけでちらっと見る。
「僕は借りは返す主義なんだ。もう君に付き纏うつもりなんて無い」
「………」
彼は驚いたように切れ長の目を少し見開く。そして、喉で鳴らす様な笑い声を漏らし、振り返って白臣に突き出された能面を受け取った。
「奇遇だな、俺も借りはきっちり返す主義だ。お前に力を貸してやる」
「……本当か?」
「そんな面倒くせぇこと嘘で言ったりなんかしねぇよ」
「……ありがとう、本当にありがとう」
男は受け取った能面を丁寧に懐に入れると、歩き出した。白臣もその斜め後ろをついて歩く。
「それで、その、君の名前を教えてくれないだろうか?」
「宗志だ」
「……宗志、さんか」
「なんつうか、その〝さん〟づけやめろ。気持ち悪りぃ」
「じゃあ宗志」
「それでいい。で、お前は?」
「白臣だ、藤生白臣」
「藤生白臣か……、大層な名だな。お前、公家出身なのか?」
「いや、僕の出身は武家だ」
「へぇ。呼びづれぇからハクだな。別に構わねぇだろ」
「好きな様に……呼んでくれて……かまわ……ない…………ぐッあ"ッ……」
宗志が振り返ると白臣が苦しそうに胸を押さえて蹲っている。宗志の頭にはある嫌な予感が浮かぶ。
しゃがみこむ白臣に合わせて宗志もしゃがみ、その嫌な予感が当たらない事を願いながら胸を押さえている白臣の手をどけた。
(ちッ……やはり……)
白臣の鎖骨辺りに小さな傷があり、その周りにミミズが這った様な青黒い痣がいくつもあった。
「お前、那智組の奴らに斬られたりしたか? 弓矢が擦ったとか」
白臣は那智組の男から鍵を奪い取った時、クナイが擦った事を思い出した。ただ、体がしびれ息をすることさえ精一杯だったため、頷くことしか出来なかったのだが。
「おい、ハク! しっかりしろ!」
傷口から入ったのは間違いなく毒物だ。おそらく刀や鏃の先に塗ってあったのだろう。しかもそれは対妖怪用である。妖怪の血が流れていれば意識を失う程度で済むが、純人間だと話が違う。
白臣は髪と瞳の色が普通のそれとは違うが、純人間だと宗志は感覚的に思った。それは牢獄で髭づらの男に白臣自身がそう言っていたことから宗志は結論づけたのである。その時、髭づらの男に嘘をついていた可能性も無くは無いが、このいくつもの痣が白臣が純人間であることを示していた。
(博識気取りのとこに連れていくか……駄目だ、連れて行くまでに毒が全身に回っちまう)
対妖怪用の毒はたとえ妖怪には意識を飛ばす程度の効き目しか無くても、それが純人間には死に陥れるほどの毒となる。
たまに普通の人間が経営する薬屋にも対妖怪用の毒の解毒剤が売られていたりするが、そもそも宗志は対妖怪用の毒に侵されたのも今日が始めてで、解毒剤とは無縁であったために、何処にそのような店があるという知識を持ち合わせていなかった。
「俺にどうしろって言うんだよ……」
とりあえず、道の真ん中でこのようにしているのは分が悪い。こんな時に那智組などに出会してしまったら最悪である。
宗志は白臣の体をそっと抱え、木々の中に入って行った。
遠くでは獣の鳴き声が、側ではパチパチと火の燃える音が白臣の耳に入ってきた。目の前は炭を零した様な月どころか星一つない夜空が広がっている。
「……目覚ましたか」
自分の顔を覗き込む無表情な男の顔。無表情だが出会った時よりは何処か柔らかい様に白臣には思えた。そこでバラバラとなっていた記憶が繋がり、この男、宗志に仇討ちの協力をしてもらえる事になったこと、那智組の毒で倒れたことを思い出した。
白臣はさっきの息苦しさが消えた事を不思議に思い、上半身を起こし傷口を見てみた。
「痣消えただろ。たぶん殆どは吸い出せたはずだ。だがまだ安静にしてろよ、全部吸い出せた保障はねぇからな」
ほらよ、と宗志は焚き火で棒に刺して焼いた魚を白臣にぶっきらぼうに突き出した。白臣はそれをおずおずと受け取り、かじりつく。よくある川魚なのに油断したら涙が溢れそうなほど美味しく感じられた。そして安心したせいかどっと疲れが襲ってきた。
今日は本当に長い一日だった、と疲れを吐き出す様に白臣は大きく溜め息をついた。
「その君が毒を……?」
「ああ、おかげで舌が狂って魚の味がしねぇわ」
宗志はそう言って魚にかぶりつき、白臣の方を見て何か少しためらった後、炎に薪を焼べながら口を開いた。
「お前さ……女だったんだな」
「ごめん、騙すつもりはなかったんだ」
白臣は申し訳なさそうに大きな目を伏せた。
宗志は横目でちらりと彼女に視線を送る。大きくぱっちりとした瞳に、刀を扱えるとは思えないほどの華奢な体。髪が短いとはいえ、どうして気づかなかっただろうか、と宗志は苦笑する。
「君には迷惑かけてばかりだ。僕が弱いばっかりに」
「お前、自分が思うほど弱かねぇと思うぜ。那智組の奴らから鍵奪ったんだろ?」
宗志としてはそれほどの腕を持ちながら、何故自分に協力を頼むのか不思議だった。白臣ほどの腕ならば(とはいえ宗志は白臣の刀裁きを見ていないのだが)、一人でも殺したい相手とやらを抹殺出来る実力を持っているはずだ。
那智組だって人間の中では強い方である。そうやすやす鍵を奪われる訳がない。
それとも白臣が殺そうとしている相手は人間じゃない、つまり妖怪か、その血が流れる人間なのか。
「僕の父は地元では強くて有名な侍だった。十対一で無傷だったこともある。まあ強いと言ってもあくまでも人間の中ではの話で、君ほどじゃない。でも僕は父の到底足元にも及ばない」
宗志は白臣の話を黙って聞いていた。こんなに長く人の話を聞いたのは久しぶりかもしれない。
「で、その親父が……殺られたのか?」
「うん。僕の一回りも二回りも強い父が殺されたんだ、僕一人で敵う相手では無いと思う」
「その相手とやらは誰なんだ」
「……分からない」
だから自分に助太刀を頼んできたのか、と宗志は一人で納得した。しかし仇討つ相手が分からないのでは、まずその者を探し出さなくてはならない。
「お前、白臣って言う名は偽名なのか?」
「それは僕の本名だ。僕は生まれた時から男として育てられてきたんだ。この見た目じゃ女として生きるには危ないと父は思ったのだろう。武術も全て父から教わった」
父親の判断は正しいと宗志は思った。今の世の中自分で自分を守れなければ生きていけない。女だからって誰も守ってはくれないのだ。
少し変わった髪色などをしていれば、すぐ攫われて見世物小屋か、花街の遊女屋に売り飛ばされてしまう。
つくづく腐った世の中だと思う。
(俺が言えやしねぇけど)
宗志は自分が腐った世の中で、特に腐った人間側であることは自覚していた。自分が死んだら地獄にでも落ちる側の人間だ、とも。そもそも自分を人間と呼んでいいかも分からなかった。
白臣が自分の持ってないモノを持っていることに宗志は嫉妬に限りなく近い憧れの様な感情を抱いていた。
だが、それを宗志自身で認めてしまうと自分が崩れてしまうことも心のどこかで分かっていたのだが。
宗志と白臣の間に沈黙が流れる。宗志としてはそれは心地の良い沈黙である。今まで誰かの側に居て安らかな気持ちになった事がない宗志としては、それはある意味恐怖でもあった。
宗志はそんな想いを消しさる様に口を開く。
「俺が天狗の血が流れてるのは知ってるよな?」
「ああ。那智組の人々がそう言ってたから」
「俺は天狗の中でも……」
「お、おい!」
宗志はなんの躊躇いもなく燃える炎に手を入れて見せた。驚く白臣をからかう様に炎から手を出したり入れたりして、火傷一つしていない綺麗な手を見せつけた。
「俺は天狗の中でも、松明丸っていう種の天狗らしい。こんな事も出来る」
そう言って宗志は何も無い手のひらから炎を出してはもう片方の手のひらで揉み消した。
「……凄く便利だな」
「そんなこたぁねぇよ。こんな身体壊れちまえばいいのにな」
そう言う宗志はどこか寂しげで語尾の声量は萎む様に小さくなる。しかし夜の静けさのおかげもあり、白臣にはしっかり聞き取る事が出来た。
宗志は真っ直ぐ燃える炎を見つめる横顔は、白臣が昼間に出会った頃の宗志とは対極的である。白臣は何か言わなければならない、と思いつつもどの様に声を掛けるべきか間を見計らっていた。
「お前さ最初に会った時何で翼を生やしたり戻したりするのに着物が破れないか聞いてきたよな?」
「ああ、確かに聞いた」
「この着物の布は松明丸の羽を糸にして織って作られた物なんだ。まあ、大袈裟に言っちまうとこの着流しは俺の体に限りなく近い。つまり翼が生えた時は背中の皮と着流しの布が一体化していると言っても過言じゃねぇ。ま、あくまでも例えだけどな」
宗志はそう言い終わると、こんなに長く話したのいつぶりだろうか、と思わず苦笑した。
たまには悪くねぇ、と思っている自分がいるのが宗志にとっては一番驚きが強い。
「お前、何で仇討ちしてぇの?」
「勿論、父の無念を晴らすためだ。このままじゃ父は安らかに眠ることは出来ないだろう。だから、僕は父を殺した憎き相手を殺さなければならない。これは僕の宿命だと思っている」
「お前って強いのな」
「そんなことはない、だって僕は……」
「いや、お前は強い。知ってるか? 強い人間っていうのは自分の運命を嘆いたりしないそうだ」
白臣は宗志を見つめ何を考えているのか探ろうとした。だが、宗志は炎を真っ直ぐに見つめたままで独り言の様にぼそっと続ける。
「お前は足を前に動かせば前に進むことが出来る。俺にはそれが出来ない。足を前に出せば出すほど、後ろに戻っちまう。俺は結局何処にも行けやしねぇんだ」
「君は何で……」
放浪しているのか、という口から出かけた疑問を飲み込んだ。宗志の中心の核に触れるのが単純に躊躇われたのである。何故か聞いてはいけない、そんな気がしたのだ。それに深入りされる事を彼が快く思わない事もなんとなく分かっていた。宗志はそんな白臣に気を遣ったのか、ふっと笑ってみせる。
「さ、怪我人はもう寝ろ」
そう言って宗志は手のひらで燃える炎を抑える様に消すと、辺り一面黒一色になった。