【第五十二話】誰かの腕
「家宝があるのは屋敷の一番南にある部屋、南の間であるだろう? だが私は盗賊の奴らに家宝や財は屋敷の一番北にある部屋、北の間にあると欺いたのだ」
「北の間って……! じゃあ蒼介が!」
「そのお陰で、南の間にある財は全て運び出せたのよ。……何も盗られずに済んで良かったわね、凌」
母親の幼子をあやす様な優しい声で紡がれたその言葉に、凌の顔から血の気が引いていく。彼女はそんな凌の心中など知らずに、彼をぎゅっと更に強く抱き締めた。
狂ってる、そう凌が呟くと同時。彼は母親の腕から無理やり抜け出すと、そのまま彼女を突き飛ばした。
「どうしたの……! 凌……!」
「待つんだ! 凌……!」
凌を引き止めようとする父親や家の者の手を振り払い、彼は屋敷の中に飛び込む様にして入った。そして土足のまま屋敷に上がると、廊下を全速力で駆ける。もちろん北の間に向かって。
(蒼介……蒼介……蒼介……!)
全速力で凌は廊下を走る。盗賊に出くわしたらどうするのか、彼の頭には何も考えがなかった。ただ弟に何も無いことを祈るばかりだったのだ。がむしゃらに床を蹴って走った。
そして彼が北の間に近づくにつれ、何やら人の声や物音がする。そして、その中に混じって弟の泣き声も。
「蒼介ぇぇえええ――!」
「……兄、うぇ……!」
凌はそう叫ぶと同時に障子を蹴り破り部屋に入った。一斉に部屋の中にいた者達の視線が彼に集中する。
部屋は酷い荒らされようで、ほとんどの絵は踏み汚され、破れてしまっている物が多かった。墨は零れてしまっており、白い布団を黒く染めてしまっている。
そして凌は目を見開いた。蒼介は両手両足を縛られ、そして額からは血が流れていたのだ。怖かったのだろう、その幼さが残る顔は涙でぐじゃぐじゃだった。
中にいた数人の盗賊はけらけらと笑う。そして棍棒を凌へと向けた。
「誰が来たかと思えばただの餓鬼じゃねぇか。おい、家宝の在り処をとっとと吐け。この部屋にあるのは分かってんだからなァ。こっちの餓鬼は知らないの一点張りでよォ。ぶん殴っても知らねぇとしか言わねぇし」
「……こ……す……」
「あ? 聞こえねぇなぁ。もっとはっきり喋ろや」
「……殺、す……!」
「兄上! ダメぇぇええ!」
そこから凌の記憶は途切れ途切れにしか残っていない。ただ覚えているのは泣きじゃくる弟の蒼介の姿と、痛みで悶えているあらぬ方向に手足が曲がった盗賊達の姿だった。そして彼は銀の尖った耳、銀の尾が二本生えた姿でその中を立っていたのだ。
そのまま彼は盗賊を捕らえに来た大名の家来の侍達に取り押さえられた。そして手足を縄で拘束され国中を引きずり回されたのだ。名門堂林家の跡取り息子が妖怪の混血児であったというのは、暇な者達の恰好の話の種だった。
もともとその武術の腕前や、養子であるのに堂林家の跡取りとなったということで親族からでさえも疎まれていたり妬まれていた部分もあり、彼の落ちぶれた姿を見ようと人だかりが出来てしまう程だったのだ。
そして父も母も助けになど来てはくれなかった。
凌は国中を引きずり回された後、湖の中にある柱に括りつけられた。彼の腰から下は水に浸かってしまっている。冬の水の冷たさはすぐに彼に体の皮膚を裂くような痛みをもたらした。そのような状態で彼は放置されたのである。
そして、あれから一ヶ月が経った。凌の体はやせ細り、冷たい水に浸かってしまっていたせいで足先の感覚はもうなかった。それでも彼は生きていたのだ。いや死ねなかったのだ。
(……殺してくれ……殺して……)
彼はそんな叫びを口にすることも、もはや呟く力もなかった。瞬きする力も無いと言って等しい状態であったのである。飢えと喉の乾きと寒さで気が狂いそうなほどであったのだ。
そんな過酷な状況のせいか、鴉に目玉を抉り取られたり、自らの体から湧いた蛆に皮膚を食い荒らされる等の幻覚に魘されてしまうこともあった。肉体も精神も限界だったのだ。
なかなか死なない彼をますます国の者は気味悪がり、そして嘲笑った。
そしてさらに二週間が経った。彼の体は更にやせ細ってしまい、骨に皮が張り付いているだけの有り様だったのだ。目は落ち窪んでしまい、時折目玉がぎょろりと動いた。
「……うえ、……あに、うえ……兄上……!」
冬の早朝、そんな声で凌は目を覚ました。彼はうっすらと瞼を開く。目の前には袴を脱いで、小袖に褌のみといった格好で、湖に入り真っ直ぐこちらに近づいてくる人物の姿が彼の目に入った。
その姿は、そしてその声は紛れもなく弟の蒼介のものだったのだ。凌は最初はまた幻覚でも見ているのだろうと思った。だが、よろけながらも自分のすぐ側まで来た蒼介の顔は幻覚にしてはやけにはっきりと見えたのだ。
「夢、か……」
「遅くなってごめんね。兄上、ごめんね……」
今にも泣き出しそうな顔で、蒼介はそう繰り返した。彼の身長では胸から下まで水に浸かってしまっている。凌の体に縋りつくようにして、やっと立っている状況だ。
その時、凌の心臓が警鐘の様にどくりと鳴った。彼はぼんやりとした意識からやっと我に返る。そして残った力を振り絞るようにして言葉を吐き出したのだ。
「お前、早く、出ろ……。風邪引く、だろ……! お前熱出し、たら……ひと月、も、治らねぇ……ってぇのに……!」
「約束したよね、兄上」
そう言って蒼介は懐から小刀を取り出した。そして凌を縛る縄を切ろうと試みる。凌はそれに気づき声を荒らげた。
「やめろ……、やめ、ろよ……! こんなとこ、誰かに見ら、れたら……!」
「約束したよね、兄上。ここを出ようって。兄上が剣をみんなに教えて、オレはその間、好きなだけ絵を描くんだ。そうでしょう?」
「いいから……早く、戻れ……!」
凌を縛る太い麻縄は力のない蒼介には簡単に切ることが出来ないようだ。冷たい水が彼の体温を奪っていく。それでも彼は諦めようとはしなかった。
「もう、いい……んだ……、俺はもう……」
「やだよ、兄上。オレは兄上とずーっと一緒にいたいんだか――」
「蒼介!」
その時だった。蒼介の右肩に弓矢が突き刺さったのである。彼の体はぐらりと傾き凌に寄りかかってしまう。それでも懸命に左手で凌の体にしがみつこうとしていた。その傷口からは血が流れてしまっている。
凌が湖の畔へ目を向けると武器を持った男達がいたのだ。
そしてその一人の男の手には弓があった。彼らはずかずかと湖に入りこちらに近づいてくる。蒼介もそれに気づき怯えた表情を浮かべるが、彼には、そして縛られたままの凌にはもうなす術がなかった。
男達は荒々しく蒼介の右肩に刺さった矢を引き抜くと、乱暴に彼の腕を掴んだ。傷口からは更に血が溢れ出る。傷が痛むのか彼の口から小さな悲鳴が漏れた。
「痛いよ……! 放して……!」
「あ? 誰かと思えば堂林さんとこの餓鬼じゃねぇか」
「化け物の兄貴を助けようと決まりを破るたァ泣けるじゃねぇか」
「罪人の逃走する手助けをしたら、どうなるか分かってるよなァ?」
「もれなくあの世逝きってなァ」
男達の言葉に凌は全身から血の気が引く感覚を覚えた。そしてありったけの力を振り絞り叫んだ。
「違う! 俺が、こいつを……脅したんだ……! 俺を縛る縄、切らねぇ、と、両親を……呪い殺、してやるって……!」
「へぇ、なるほど。そりゃあ、同情の余地はあるよな」
「おっかねぇ。これだから化け物は」
「違うよ! 兄上は――」
「蒼介!」
鋭い声音で凌は蒼介の言葉を遮った。そして何も言うな、というかのように見下ろす。そんな彼の意志を察したのか、蒼介は泣きながらも何とか口を閉じた。
男の一人は蒼介の腕を離した。そしてもう一人の男は凌を縛る縄の様子を確認している。
「縛り直さなきゃならねぇか?」
「いいや、必要ねぇな。せいぜい縄の表面に傷がついた程度だ」
「ほら、とんだ災難だったな。帰ぇるぞ」
「やだよ! 兄上は悪い人じゃ――」
「蒼介」
泣きじゃくりながらの蒼介の言葉を凌は静かに遮った。蒼介はやだやだと泣きながら、連れて戻ろうとする男達に抵抗する。男達は面倒くさそうに蒼介の襟首を掴み、岸辺に向かおうとした時だ。
「待てよ、この餓鬼は化け物の弟なんだよなァ?」
「確かそうだと聞いているが。それがどうしたって言うんだ?」
「ってことは、こいつも化け物なんじゃねぇか?」
「ッ……! なわけ、ねぇだろ! 化け物、なんかじゃねぇ! 蒼、介は、普通だ……! 普通の人間、なんだよ……!」
「うっせぇなァ、化け物は黙ってろ。そもそも化け物の言う事を、はいそうですか、なーんて聞くわけねぇだろうがよォ」
下品な笑みを浮かべ男は怯えきった蒼介の顔を舐め回す様に見る。そしてにったりと口を開いた。
「もしこの餓鬼が化け物だって分かりゃ……」
「お殿様にたんまり報酬を頂けるだろうな。でも、どうやってこの餓鬼が化け物かどうか判断するんだよ?」
「蒼介は! 化け、物なんかじゃ、ねぇ……!」
「うっせぇな。とっとと死んじまえ。化け物風情が人間様に口利いてんじゃねぇ」
「放っておけ。どうせ次期に死ぬんだから。で、どうやって判断すんだ?」
早く答えろというかの様にその男はもう一人の男へと視線をやった。男はなかなか答えようとはせずに、蒼介と柱に縛り付けられた凌の顔をにんまりとした笑みを浮かべて見回す。
そして涙でぐちゃぐちゃの顔の蒼介の頬をねっとりと撫でて言った。
「人間の皮を被った化け物はよォ……死ぬ一歩手前に追い込みゃ簡単に尻尾を出すんだとさ!」
そう男が叫ぶと同時。蒼介の頭を掴むと無理やり顔を水に押し付けたのだ。
必死に抵抗する蒼介。男達は笑いながら、少しして顔を水から上げさせては、すぐまた水に顔を押し付けるを繰り返す。
「人間だ……! そいつは、人間なんだよ……! やめろ、やめろ、やめろ……! やめてくれ!」
「化け物は黙ってろってんだ! ほら、とっとと正体をだしやがれクソ餓鬼!」
「やめろ、やめてくれ……! お願いします……! やめてください……! お願いします……!」
「あに、うえ……!」
助けを求めるかのように蒼介は凌へ手を伸ばす。その顔には恐怖がこびりついてしまっていた。そしてまたすぐ男達によって顔を水に押し付けられてしまう。苦しそうな泣き声にも男達はさして意に介さないようである。
現実とは思えない非情な光景に、凌は涙まじりの声で叫んだ。
「そいつと俺は血繋がってねぇんだよ……! そいつは人間だ……! 普通の人間なんだよ……!」
「やだ……! やめてよぅ……! たす、けて……! あ、にうえ……!」
「蒼介! やめてくれ……! そいつ体弱ぇんだよ……死んじまう……! 本当に死んじまうから……!」
男達は凌の言葉にも耳を貸さずに、蒼介の顔を水に押し付けては上げ、押し付けては上げてまた押し付けるを繰り返す。だんだんと蒼介の抵抗も弱くなっているのが目に見えて分かった。
湖の畔には何事だと人々がぞろぞろと集まっている。笑っている者、気の毒そうに眉を潜める者と様々ではあったが、助けようとする素振りを見せる者は一人もいなかったのだ。
誰も侍に、なにより一国の大名の家来の者に、逆らおうとする者などいるわけがないのは凌も理解していた。それでも、叫ばずにはいられなかったのである。
「誰か……! 誰か……! 誰でもいい……! 助けてください……! 人間なんだ……! 弟は普通の、人間なんだよ……! お願いします……! 弟を! 助けてください……!」
全身の力を使い切る勢いで凌は叫んだ。だがその叫びはただ野次馬を増やすだけだった。
畔にいる人々は愉快そうに笑ったり、気味が悪いと顔を顰めたり、気の毒そうに眉を潜めるだけで、誰一人として助けに来てくれそうな者はいたかったのである。
その時だった。その野次馬の中にいる、ある人物達の姿が凌の目に止まった。
紛れもなく凌と蒼介の父親と母親の姿だったのである。彼らは俯いしまっており、その肩は震えていた。
「……泣いてる……? ……ッ!」
ぷつりと凌の中で何かが切れる音がした。がらがらと何かが崩れていく音がした。
父親も母親も笑っていたのだ。死にたくない、ともがく蒼介を見て。助けを求めることしか出来ない凌を見て。ただ笑っていたのだ。
――凌の中で何かが壊れた。
気がつけば凌の両手は赤く染まっていた。あの男達の姿はなく、ただ彼の周辺の水が赤く濁ってしまっている。
そして彼の頭には銀の尖った耳が、腰の辺りからは三本の銀の尾が生えていた。先ほどまで凌が縛り付けられていた柱は紫色の炎に包まれ、炭となり灰となって北風に飛ばされしまっている。
凌は震えている蒼介に近づくと、彼の細い体を横抱きした。
「兄上……」
「大丈夫だ。俺が全て終わらせる」
優しく凌は微笑んで見せたが、蒼介の顔は恐怖がこびりついたままだった。
畔にいた人々は何が起きたかを理解すると、悲鳴を上げて散りじりとなる。それを嘲笑い凌はそのまま畔へと進む。
そして湖から出ると蒼介を下ろした。そしてぐっしょりと濡れた頭を撫でてやる。それでも彼の顔には恐怖がこびりついたままだった。
凌は畔に落ちている刀を手に取る。恐らく先ほどの男達が湖に入る前に置いてったのだろう。その刀を鞘から抜く。
そして背を向けて逃げる父親と母親をゆっくり追いかけた。走らずとも、二人がどこを走っているのか手に取る様に分かったのである。まるで空から見下ろしているような、そんな感覚だった。
骨と皮しかないほどの細い足を凌は動かす。ふやけてしまったせいか、ところどころ皮膚が破れてしまっていることを地を歩いて彼は初めて知った。歩く度に感じる痛み。それが彼には生きているという事を、自由であることを実感させる。
そして、凌は足を止めた。目の前には焦った様子の父親と母親の姿。袋小路に入ってしまっていたのだった。もう、彼らに逃げ道はない。
「凌、やめろ……! お前は、親に、か、刀を向けていいと思っているのか……!」
恐怖のあまり父親の叫び声は裏返ってしまっていた。それを凌はただ見つめている。その瞳には殺意しか無かった。父親はそれを感じ取ったのか、腰に差している刀を抜く。
そして気合いを上げて凌へと真っ直ぐ斬りかかったのだ。
「……遅せぇ」
一瞬だった。真っ直ぐ振り下ろされた刀。それは糸も簡単に凌に払われる。父親の手から抜けたその刀は弧を描いて地面に突き刺さった。
それを見た父親も母親も悲鳴を上げ、腰が抜けてしまったのかへなへなと座り込む。そして涙混じりの声で必死に懇願する。
「お願いだ! 殺さないでくれ! しょうがなかったんだ! お殿様には俺達だって逆らえないの、分かるだろう! 父さんも母さんも、お前のことを愛してるんだ!」
「そうよ! 愛してるの! お願いよ、凌! そんな怖い顔しないで……! 刀をしまって! お願いよ……!」
「……じゃあな」
凌の口から吐き出された冷たい声。それと同時に彼は刀を振り上げ、真っ直ぐ振り下ろした。
肉が裂け、骨が断たれ、血飛沫が上がる。……だが、それは父親のものでも母親のものでもなかった。
凌は目を見開く。彼の口から悲鳴に近い震えた声が漏れた。
「……嘘だ、ろ……! な……なんで……なんでだよ……蒼介……!」
凌が刀を振り下ろした瞬間に蒼介が間にはいったのだ。両手を広げて立っていたのである。大きく斬られた蒼介はそのまま、ばったりと倒れてしまう。凌は呆然とした顔で刀を捨て、青白くなっていく弟を抱き起こした。
彼は現実が受け入れられないと言うかのように、首を横に振る。その顔は悲しみで歪んでいた。
「どうして……どうしてだよ……! ずっと一緒にいようって、言ってたじゃねぇかよ……! なぁ……! なんで……だよ……!」
「あに、うえ……泣かない、で……」
そっと蒼介は凌の頬へと手を伸ばした。その手はあまりにも悲しいほど冷たかった。凌の目からぼたりぼたりと雫が落ちる。
穏やかな表情を浮かべて蒼介は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。小さな命を振り絞るように。
「親殺し、はね……地獄に、落ち……ちゃう……んだ……よ……。あに、うえ……には、地獄に、落ち……て欲しく、ないんだ……オレ……」
「馬鹿やろう……俺はもう……」
「優し、くて……、強く、て……かっこ、いい……オレの、あに、うえ……。だい、丈夫、寂しく……ない、よ……。あに、うえ……には、また、会える……から……きっと……。そう、でしょ……う……」
「……あぁ。絶対だ……! 絶対に……!」
「あ、り……が、と……う……」
――大好きだよ、兄上。
一人の幼い童の瞳に死の光がぽっと灯った。
「ざまあ、ねぇなァ……」
掠れた声を堂林は漏らした。体を打ち付ける雨は容赦なく彼の体温を奪っていく。死の気配に飲み込まれていく自分を彼は嘲笑する。自らの頭上で刀を振り上げる気配がした。止めをさすのだろう、と彼は人ごとのように思う。
八尾の妖狐達は堂林に背を向けぞろぞろと歩き出す。次は雪を殺りに行くのだ。八尾の妖狐は水面を歩くことが出来るのである。
今度こそ妖狐族は滅んじまうな、と堂林は霞んでいく視界の中でそんなことを考えた。頭上ではとうとう刀が振り下ろされる気配を彼は感じ取る。だが、もう彼には指一本も動かす力は残されていなかったのだ。無様で滑稽な最期だと己を嘲笑った。
そんな時。鼓膜の奥で声が響いたのだ。
――どうばやち様。
――兄上。
「……こんなところで犬死なんざ、性に合わねぇよなァ……!」
まだやらねばならぬ事がある。果たさなければならぬ野望が、約束がある。……自分の帰りを待つ者がいる。
そう思うと同時。堂林の刀を握る手に力が籠る。そして振り下ろされる刀を下から弾き返したのだ。彼はそのままゆっくり立ち上がる。何故か体が異様に軽い。肉体そのものが無くなってしまったような感覚だった。
堂林が周りにいる妖狐に鋭い視線をやり、刀を構えた時だ。彼は訳が分からず眉間に皺を寄せた。
周りにいた妖狐達が一斉に跪き、頭を下げたのである。そこで堂林は自らの体が薄い銀色の光を放っていることに気づいたのだ。そして自らの尾が七本でも八本でもなく。立派な尾が九本生えていたのである。
堂林は跪いたままの妖狐達を見渡し、喉の奥を鳴らして笑う。
「孤羅尼神も随分と酔狂な野郎だ。汚ぇ人間の血が流れる俺を選ぶなんざ。……俺に妖狐族の命運を賭けやがるとは」
面白れぇ、と堂林は呟くと彼は真っ直ぐ天に腕を伸ばした。すると雨の勢いは弱まっていき、やがて止んでしまった。
それから彼は跪いている妖狐達に朗々と告げる。
「……悠久の眠りに戻れ」
その言葉と同時。跪いている妖狐達の体が薄い銀色の光に包まれたかと思うと、体から煙の様な光がすっと天へと登っていったのである。次から次へとその静かに輝く煙は夜空に登っていき、まるで流星の様だった。
抜け殻となってしまった妖狐達の肉体は、もうぴくりとも動かない。ただただ地面に転がってしまっていた。あれほどの喧騒が、血なまぐさい音が嘘であったかのように島は静寂に包まれている。
「……終わった、か」
ぽつりと堂林は呟いた。そして裂けた頬の傷をそっと指先で撫でる。まだ九尾となった実感は全くなかった。
「随分かかっちまったなァ……」
だがこれでやっと野望を約束を果たせる、と満足気に笑を浮かべる。そして深く息を吐き出した。これからどうするか、とそんなことに思いを馳せる。
これからの事など、未来のことなど何も考えてはいなかった彼にとっては擽ったい感情だった。
「目障りな人間でも滅ぼすとするか。……いや、その必要はもうねぇよなァ。あいつらがどうせうるせぇしよォ。……どうでもいいか。あいつらがいりゃ」
――静かに暮らすのも悪かねぇ。三人でなら。
堂林の最後の想いは言葉になることはなかった。
彼の体は血煙を上げながら糸の切れた傀儡の様に倒れ、そして彼の首は体から少し離れたところに転がった。血溜りが広がっていき、体から放たれていた銀色の光は徐々に薄くなっていく。やがてその光は夜の闇に消えていった。
「獣が神に近づこうとする……滑稽で愚かだ」
冷たい声でそう言うと、血を払って鞘に納める。――その人物は那智組の頭領である土岐翔和だった。彼は端正な顔を残念そうに歪ませる。
「貴方は〝姫〟のお気に入りでもあったのに。出過ぎた真似をしましたね」
土岐は氷の様な瞳で見下ろすと静かに溜め息をついた。その瞳には軽蔑と憐憫がこもっている。彼は透き通った透明な声で言葉を紡いだ。
「……現し世に、神に近しい存在は我々だけで十分なのです」
そう言って土岐は遠くを見るような目をする。その瞳には悠久の時が映っていた。




