【第五十一話】冷えた優しさ
血で染まる体。その血は返り血なのか、自らの血か分からない。銀の刃は、銀の尾は赤く染まってしまっていた。雨が血を洗い流そうとするが、彼の身は赤く染まったままだ。
堂林はもう何個目か分からない傀儡と化した妖狐の首を撥ねた。首を飛ばし、銀の尾を振り下ろす。首が無くなったとしても妖狐達の動きは止まることはない。彼らは心臓を潰しても動き続けるのである。
ならば四肢を斬り落とし、肉片とするしか他ないのだ。堂林の周りに転がる肉片の山。しかし彼の体も限界はとうに超えていた。血を出しすぎたためか視界が霞む。手足のふんばりはほとんどきかず、もはや感覚など無くなってしまっていた。
それでも彼は刀を握り続ける。その目には絶望などない。あるのは一つの野望――そして約束だけだった。
飛びかかってくる妖狐の攻撃を躱す。そして刀を振り下ろした時だ。
四人の妖狐が高く飛び上がっていたのである。クナイの雨が彼を襲う。
それを彼は刀と銀の尾を使い弾き飛ばす。だが全ては避け切れなかった。
手首に刺さったクナイを堂林は歯で噛んで抜く。クナイは彼の周りの地面ににびっしりと突き刺さっており、妖狐達にもクナイが刺さってしまっている者もいた。
「敵も味方も見境なしか……面白れぇ」
堂林はそう呟いて笑おうとするが、口から出たのは掠れた様な音だけだった。まだ周りには大量の妖狐達がいる。終わりが全く見えない。それでも死ぬつもりなど彼には毛頭なかった。
そんな時、堂林の前方にいた八尾と七尾の妖狐の尾が触手のような細さになる。
次の瞬間。それらが堂林に迫る。蛇のような軌道を描く尾。
それらを右へ左へ。そして上へ。堂林は体を翻して躱す。
しかし。死角から斬りかかる妖狐。彼は絡め取ろうと迫る触手のような尾を避けながら、刀で受け止めようとした時。
腕が動かないのだ。細い尾に腕の動きを封じられたと気づいた時には。
堂林は腹を水平に斬り裂かれていたのだった。
「……クッ……ぅ……!」
崩れる様にして倒れる堂林の体。もう立ち上がる力など彼には残されていなかった。血溜まりはみるみる広がっていく。指一つ動かす力のない彼の体を雨は容赦なく打ち付ける。
意識が遠のいていくのを堂林は感じていた。心臓の拍動が弱く、そして間隔が長くなっていく。〝死〟が己を飲み込もうとしていく。地獄へと引きずり降ろされるような感覚だった。
そして彼の耳に子供の笑い声が聞こえてくる。それは雪のものであり、そして――。
「……幻聴、か」
体から血が無くなっていく感覚。体温が雨に奪われていく感覚。そして意識にもやがかかっていく感覚。〝死〟がすぐそこまで来ていた。
死ぬ間際には走馬灯を見るとはよく言うが、堂林の走馬灯はあの日までで止まってしまう。そしてまた初めから繰り返す。彼はあの日から進んでいなかった。生きてなどいなかったのだ。
忌々しい感情に襲われるが、彼には舌打ち一つする力は残されていない。
一匹の狐の瞳に死の光が灯ろうとしていた。
汗の臭いが充満する道場。そこに二人の少年が竹刀を構え対峙していた。彼らは防具を身につけ、面をつけていた。一人の少年は威勢のいい気合いを上げ、もう一人の少年は静かに好機を狙っている。そんな二人を周りで多くの少年達がそれぞれの思いを乗せた眼差しを注いでいた。
そしてその様子を一段高くなった上座で胡座をかいた男が見守っている。
少年二人の睨み合いが続く。そして。威勢のいい気合いを上げた少年が勢い良く踏み込んだのだ。
彼の竹刀は相手の面に真っ直ぐ振り下ろされる。周りで見ていた少年は彼の勝利を確信した。
「……ッ!」
乾いた高い音が道場に響いた。威勢のいい気合いを上げた少年が竹刀を振り下ろした先には、もう既に相手の姿はない。
彼には相手の動きが目で捉えることは出来なかったが、自分の胴を打たれてしまったことは、相手の残心の形や先ほど響いた高い音から理解することが出来た。
「いやあ、さすがのお前なら凌に勝てると思ったんだがなあ」
そんなことを言いながら上座で胡座をかいていた男は上座から下り、二人に近づいていった。彼は自らの目測が外れたと言いつつも、その顔はどこか満足気である。
「凌がいれば堂林家も褒章館も安泰だ。こりゃ将軍様お抱えの道場の当主として恥ずかしくない。凌、お前には期待しているぞ」
「ありがとうございます、父上」
凌と呼ばれた少年は淡々と礼を述べた。そして父と対戦相手に一礼をすると道場の端の方に行き正座をする。その後、慣れた手つきで面を取った。
手ぬぐいを取ると、彼はさっと自らの黒紫色の髪を整える。彼の顔は汗ひとつかいてはいなかった。
そして父でありここの道場の師でもある男が解散を告げると、道場生はぞろぞろと帰っていく。それを父の隣で見送るのが凌の日課であった。全ての生徒がいなくなったのを確認して、凌の父親は彼に向き直る。
「先ほどの抜き胴は見事だった。お前は若年ながら褒章館史上最強と言っても過言ではない」
「ありがとうございます。ですが、私は父上には到底及びません」
「そんなことはないぞ。……ただ、一つ思うとこがあってな」
「なんでしょうか」
「お前の剣は静か過ぎるんだ。剣道というのは気剣体一致をして初めて一本となる、それはお前も分かっているだろう? ……どうして気合いを出さないのだ?」
困惑したような父の顔。凌はそれを静かに見つめると、相変わらず淡々とした口調で言う。
「特に理由はございません。父上のお気を揉ませてしまい、申し訳ありません」
「いや、俺は謝れと言っている訳じゃないんだ。だがな、もし何かあれば言って欲しいんだよ。思えばお前が大きな声を出したところを見たことがない。……喉が痛むのか? なら医者に――」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私は喉が痛いわけではございません。ただの私の力不足のせいでございます」
「そうか? ……ならいいんだが。母さんも心配していたぞ。お前が病気なのではないか、と。……遠慮などしなくていいのだぞ。お前と私達は血が繋がっていなくとも、親子なのだから。従兄弟などに遠慮する必要だってないんだ。だから困ったことがあれば何だって言ってくれ」
「……ありがとうございます」
静かに凌は頭を下げた。父は苦笑しながらも彼の肩に手を置き、明るい声で言う。
「さて、飯の時間だ。広間にでも行くとしよう」
「……ありがとうございます。ですが、自室で昼食をとっても良いでしょうか」
「ん? 別に構わんが。だが最近ずっとそうじゃないか。たまには家族揃って……」
「すみません。堂林家の跡継ぎとしてまだまだ学ばなければならない事が多い故、食事の時間も惜しいのです」
「そうか。勉強熱心で何よりだ。女中にでも昼食をお前の部屋に運ばせよう」
ありがとうございます、と凌は告げると父親に一礼をして道場を後にする。そんな彼の後ろ姿を父は満足気に見つめていたのだった。
凌が自室に戻り暫くして、女中が昼食を彼に届けにやって来た。彼は礼を言って受け取る。女中が帰ったのを確認すると、彼は昼食の乗ったお盆を持って部屋を出た。
冬の廊下は冷たい。なるべく音を立てないようにしてその廊下を歩く。その時だった。
「凌! どうしたの?」
「……母上」
ちょうど部屋を出ようとした彼の母親が、凌に声をかけたのだった。彼はお盆を持ったまま小さく一礼をする。
「……少し、いつもと違う場所で食事を取りたいと思いまして」
「あら、なら広間に行きましょうよ。最近食事の席であなたの姿が全く見えないんですもの。心配してたのよ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、まだまだ学ばなければならない身ですので。食事の時間も惜しいのです」
「熱心ねぇ。分かったわ。お勉強、頑張るのよ。最近酷く冷え込むから、体には気をつけてね。……それと」
柔らかな笑を浮かべていた母親の顔が急に冷たい表情へと変わった。
「どこでご飯を食べてもいいけれど、〝北の間〟にだけは行かないのよ。何があってもね」
「……はい」
「大切な貴方に悪いモノが移ってしまうと大変だから、ね?」
再び柔らかな笑を浮かべた母親は、凌に背中を向けて広間へと向かって行った。その後ろ姿を見届けて彼はまた歩き出す。
暫く歩いていると彼は館の一番北にある〝北の間〟に辿り着いた。そしてそこの障子を開ける。
中は昼間なのに薄暗く、じめじめとしていた。そしてその部屋の真ん中には布団が敷かれている。そこに寝ていた人物が、凌の姿に気づいたのか体を起こした。
「兄上!」
「蒼介。体の具合はどうだ?」
「なかなか元気だよ。今日はあんまり寝ないで済んでるんだ」
「元気なのは良いけど、調子こいて無理するなよ」
「分かってるって」
へへへ、と笑う蒼介に凌は呆れたように溜め息をついた。そして部屋の中に入ると障子をきっちり閉める。彼は布団の近くに座り、それと同時に食事の乗った盆を自らの傍に置いた。
「ほら俺のことはいいから、無理やりにでも寝た方がいい。お前はもう少し体を休めることを考えろ」
「えー、やだよ。まだ、オレお昼ご飯食べてないんだもん。兄上と一緒に食べたくて待ってたんだよ」
「お前な……」
蒼介はゆっくりと枕元にある食事が乗った盆に手を伸ばした。そこには既に冷めてしまった粟の粥と、小皿に少しばかりの漬物がある。それに対して凌の食事は白米に、焼き魚に豆腐、汁物と豪勢なものだった。
冷えた粥を美味しそうに食べている蒼介に、凌は自分の食事が乗った盆を彼に突き出す。
「……これ食え」
「ん? なんで?」
「その、なんだ。あんまり腹減ってねぇんだ」
盆を再度突き出した凌に蒼介は困った様に笑ってから、へらっと笑っておどけたように言う。
「えー、オレそんなたくさん食べらんないよお」
「……じゃあその粥を俺食うから、これ食べろ」
「んー、オレ粟の粥の方が好きだもん。それに兄上は午後の稽古もあるんでしょ? しっかり食べないとね。……オレは寝ることしかできないし」
「んなことねぇだろ。……ほら、この絵なんか天才だと思うぜ」
そう言って凌は布団の周りにある一枚の絵を手に取る。湖とその畔の風景を描いた水墨画だった。
蒼介は体こそ弱いものの、絵を描かせたら誰よりも繊細で、そして力強い絵を描くのを凌は知っている。彼が竹刀の一本一本の振りに魂を込めるのと同様に、蒼介は一筆一筆に魂を込めて絵を描いているのを彼は感じていたのだ。
寿命を削ってしまっているのではないかと思ってしまうほどに。
「兄上に天才だなんてオレが言われてるだなんて、父上も母上も思ってもみないだろうなあ」
「あの人達の頭ん中は剣のことしかないからな。……あの人達にはお前の才能に気づけない。お前の才能に価値を見いだす目もない。でもな、蒼介」
「ん?」
「この世の中は広いんだ。ここから出ればお前の才能を高く評価してくれる人間がたくさんいる。俺並に強い奴はこの世の中ごまんといるだろう。だけどな、お前にしか描けない絵があるんだ。この世の中でお前だけ、だ。だから自分を卑下する必要はねぇんだよ。もっと胸を張れ」
「うん、ありがとう。なんか照れちゃうな」
嬉しそうに蒼介は顔を綻ばせると、何かを思い出したような顔をした。そして食事の手を止めて、凌のやんわりとした制止も聞かずに布団から這い出たのだ。そして襖を開けると一枚の絵を取り出し、彼に差し出した。
それを凌は受け取るとまじまじと見つめる。それは凛としており且つ力強い九尾の絵だった。思わず彼は感嘆の声を漏らす。その九尾は毛の一本一本が丁寧に描かれており、美しく厳かな姿だったのだ。
凌の反応に蒼介は満足気に笑う。
「オレの最高傑作かも。ね、なかなか上手く描けてるでしょ」
「なかなかってもんじゃねぇ。……すごい。本当にすごい」
「兄上のこと考えながら描いたんだよ、この絵。兄上が九尾になったら綺麗で強くてかっこよくて。こんな九尾になるんじゃないかな、って。……ねぇ、兄上。まだ父上とか母上に話してないの……?」
「……ああ」
「父上と母上なら話しても大丈夫だと思うよ。だって父上も母上も優しいもん」
そんな事を言う蒼介に、凌は曖昧な返事をする。彼が話してないことというのは、自分が妖狐と人間の混血児であるということだった。彼は物心ついた時から妖狐特有の銀の耳や尾が生えていたのだ。
凌には実の両親の記憶がない。よって妖狐と人間が交わって生まれたのか、それとも人間同士の子であるのにも関わらず、突然変異的に妖狐の力を持ってしまったのか分からなかった。どちらにせよ、それを彼は両親に告げるのが躊躇われていたのだ。
一般的に妖怪の混血児は忌み嫌われ、迫害される存在だった。それは異端であることや、災いをもたらす等の伝説も影響している。
凌の場合は物心ついた時――この堂林家の養子になる前には既に妖怪の力をある程度制御することが出来た。だから今までに銀の耳と尾を見せたのは血の繋がらない弟の蒼介のみなのである。
ただ、感情的になると妖怪の力を制御出来なくなってしまうのを凌は理解していた。なので、稽古や試合の際にも気合いなどあげることはなく、また感情を顕にしないように努めてきたのである。常に心を殺す様に生きていたのだ。
「……俺はあの人達が優しいとは到底思えねぇ」
「え、どうして? 父上も母上もうーんと兄上のこと褒めてくれるじゃん。……まあ、女中の子から聞いた話だけど。もう随分会ってないから」
「そうゆうとこだよ。実の息子を、少しぐらい体が弱いだけでこんな部屋に閉じ込めるなんて、正気だとは思えねぇ」
「別にオレは閉じ込められてないんだけど、な。でもあまり部屋の外に出るのは父上も母上もいい顔しないから、ここに居るようにはしてるんだけど」
「……あの人達は俺の強さが好きなんだ。別に強けりゃ俺じゃなくても構わねぇんだろう」
お前は俺が妬ましくないのか、と凌は思わず出かけた言葉を飲み込んだ。それは蒼介自身が封じ込めて見ないふりをしてきた感情に触れるのが単純に怖かったのである。
妬ましくないわけないだろと彼は自ら答えを出した。自分は蒼介が向けられるはずの愛情を全て横取りしてしまっているのだから、と。
そんなことを考えていた凌に、蒼介はきょとんとした顔で首を傾げた。
「どうしたの、兄上? 難しい顔して」
「……いや、ちょっと、な」
「ふうん。……ねね、兄上は午後からまた稽古しに行っちゃうんでしょ。またオレひとりぼっち……つまんないなあ」
「少し待ってろ。夕飯はここで食べるようにするから」
「いいの? なんだか兄上を独り占め出来てオレ嬉しいな。……でも大丈夫? ……あんまりオレと関わるの、父上も母上もよく思わないんでしょう」
どこでそのことを聞いたのか蒼介は心配そうに、そして寂しそうな顔をする。そんな顔を見ていると凌は今までずっと考えていたことを口にした。
「……出よう」
「え?」
「いや、今すぐには無理だ。でも俺がこの褒章館で免許皆伝されたら、ここを出よう。新しい道場を作るんだ。褒章館で免許皆伝された奴が師となるならそれなりに人は集まるだろ」
「……でも、兄上がいなくなったら父上も母上も悲しむよ」
「そんなの知ったこっちゃない。けど、その時はうまく交渉するさ。ここを出るにしろ出ないにしろ、お前がもっとのびのび生きられる場所を用意する。必ずだ」
力強い凌の言葉に蒼介は少し悩むような表情を見せたが、すぐ隠しきれない喜びの色で顔を染めた。
「絵を隠れてこそこそ描かなくてもいいの……?」
「ああ、当たり前ぇだ」
「温かくてポカポカした部屋にいてもいいの……?」
「ああ。俺は道場で剣を教えてる間、お前は絵をすきなだけ描けばいい。……俺はいずれ将軍様お抱えの剣の師範となる。お前は将軍様お抱えの絵師になれ」
「将軍様の……! お城の襖に絵を描いたり……?」
瞳をキラキラと輝かせている蒼介。彼の胸のときめく音が聞こえてしまいそうだと凌が思ってしまうほどだった。そして笑いかけながら頷く。
「ああ。将軍様お抱えの絵師になりゃ、城の襖やら壁やら天井やらに描けるぞ。大丈夫、お前ならぜってぇなれる」
「ほんと……! 嬉しい! そうなればいいな。……だけど……」
「ん?」
「俺、兄上と違って体が弱いでしょう。だから大きくなるまで生きられるかな」
「馬鹿言うなよ……! そんな簡単に人は死んだりしねぇ……!」
つい強い口調になってしまった凌は、それを詫びるかのように目を伏せた。蒼介は特に気にした様子もなく、さらりと明るい声で言う。
「ねね、兄上の尻尾は何本なの?」
「……二本だけど」
「そっか。兄上、知ってる? 九尾になったら凄いことが出来るんだよ」
「凄い、こと?」
「うん。それはね、死者の蘇生。死んだ人の魂をこの世に呼び戻してその人の元の体に戻すことも、違う死んだ人の体に入れることも出来るんだって」
凄いよね、と蒼介は笑う。凌は何と返事していいか分からず何となく頷いておいた。
「兄上、もしも、本当にもしもの話なんだけど、聞いてくれる?」
「……ああ」
「オレが死んじゃった時、九尾になって生き返らせて欲しいな。今の細くて弱い体じゃなくて、もっと強くて健康な体で生きられたらな、って。そうすれば父上も母上とも、兄上ともみんなでご飯食べられるでしょう。……本当の家族みたいになれるでしょう」
「……お前は立派な家族の一員だろうが。よそ者なのは俺の方だろ」
「兄上はよそ者なんかじゃないよ。だってオレの大好きな兄上なんだもん。……頑丈な体になれたら、剣の稽古だって出来るでしょう。父上にも母上にも認めて貰える。そりゃあ兄上よりは強くなれなくても、一生懸命頑張って褒めてもらいたいんだ」
そこで蒼介は言葉を切った。そして真っ直ぐに凌を見つめ、口を開く。
「何より、兄上に生き返らせて貰えるって思ったら死ぬのもあまり怖くなくなる気がする。……でもやっぱりちょっとだけ怖いな」
「お前はまだまだ死なねぇから、怖がる必要なんかねぇよ」
「……そうかな、そうだといいな」
蒼介はそう言って目を伏せたが、すぐに明るい声を上げる。
「兄上、もうそろそろ稽古の時間でしょ?」
「……もうそんな時間か」
「オレは兄上が稽古している間なにしてよっかかなあ。お昼寝してから……んー、御伽草子読むのも飽きちゃったし、やっぱりまた絵でも描こうかなあ」
「ああ。何か描き上げたら見せろよ。あと、無理はすんじゃねぇぞ」
「大丈夫大丈夫! 兄上もお怪我しないでね。いってらっしゃい」
ひらひらと手を振る蒼介に、ゆっくりと凌は立ち上がる。そしてふっと微笑むと、行ってくると一言かけて部屋を後にしたのだった。
そんな日常が続いていき、いずれ二人堂々と仲良くいられる未来が来ると凌も蒼介も信じて疑わなかったのである。……あの日までは。
灰色の日差しが降り注ぎ、突き刺す様な冷たい風が流れる冬の午後。寺子屋を後にした凌は真っ直ぐ家へと向かっていた。
その時。凌の前方から二人の男が駆け寄ってきたのである。彼らは酷く慌てた様子だった。その男達は堂林家の奉公人だったのである。彼らは凌の元まで来ると、激しく息を切らしながらも早口で話し始めた。
「凌様……! 今、お屋敷の方に、行くのは…危険です……! 他の者が来るまで、ここで、我々と共に待機……して下さいませ!」
「いったいどういう意味だ? 何があった?」
「お屋敷に相当な手練の盗賊が押し入りまし――」
「蒼介は! 蒼介は無事なのか! 父上と母上も!」
「旦那様と奥方様はご無事でございます。ご安心して下さいませ」
その言葉に思わず凌は男の襟を乱暴に掴んだ。そして怒りを顕にして睨みつける。
「蒼介は! 蒼介は無事かと聞いている!」
「さあ……まだ確認は取れていませんが………」
襟を掴まれた男は困ったような表情をしてもう一人の奉公人の男に目くばせした。そのもう一人の男も困ったような顔をして首を傾げる。
凌は男を睨みつけたまま荒々しく襟を放した。そしてそれと同時に屋敷の方向へ走り出したのだ。
「お待ち下さいませ! 凌様!」
後ろから凌のあとを追いかける奉公人達の声がするが、振り返らずに足を動かす。彼は真っ直ぐと屋敷へと急いだのだった。
屋敷の前までに着くと、家の者が外に避難していた。そこにはもちろん凌の父親と母親の姿もある。彼の母親は凌の姿を見ると心配そうな顔で足早に近づき、彼に抱きついた。
「凌! どうしてこちらに来てしまったの……? 危ないでしょう。家の者をそちらに向かわせたというのに……」
「そんなことより――」
「凌、そんな慌てた顔をして。大丈夫だ、安心しなさい」
声のする方に凌が目を向けると、父親が近づいてくるのが分かった。父親は彼とその母親の側まで来て、酷く落ち着いた顔で彼の頭に優しく手を置く。
「もうすぐ大名様の所の者が来て下さるそうだ。家宝や貴重な財の方も外に運び出せている。今頃、盗賊どもは躍起になって探しているだろうさ」
「そうじゃなくて、蒼介は! 蒼介は無事なのですか!」
「蒼介? ああ……」
「どうなのかしらねぇ。盗賊と鉢合わせてるかもしれないわねぇ」
「蒼介はまだ中に……!」
それがどうしたの? とでも言いたげに母親は不思議そうな顔をする。父親も何も問題ないかと言うかの様に落ち着いた顔をしていた。彼は焦りを隠せない様子の凌に、淡々とした声で告げる。




