【第四十六話】浮かぶ心臓
「殺せなかった。……そんな俺の弱さが、お前に余計なもんを背負わせちまった」
一言一言丁寧に宗志は言葉を紡いでいく。白臣は何も言えず、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。
「斬れなかった。こんなの、初めてだった。殺さなきゃならねぇのに……殺せなかった」
「当たり前だよ。お姉さんなんだもん」
そんな白臣の言葉に宗志は顔を上げ、彼女の顔へ目を向けた。彼女は困ったように薄く微笑んでいたのだ。
「それに、それは弱さなんかじゃない。強さだよ。君は強くて優しいから」
「……そんなこと言うのお前ぐれぇだ」
ごめんな、と小さく呟く宗志に白臣は首を静かに横に振った。そして彼女は目を伏せる。
「それに謝るべきは僕の方だろう。……君のお姉さんの命を奪ってしまった。本当にごめん」
「謝ることじゃねぇよ。……あいつはいずれ自我を無くしてた。もう死んでたんだ」
「……紫峨さんも同じことを言ってくださった。……だけど、紫さんを殺したのは僕だ。それは変える事が出来ない事実だ」
「……それでも、お前がいなきゃ俺は死んでたよ」
はっと白臣が顔を上げると、宗志は泣く寸前のような顔をして小さく笑っていたのだ。
「お前の手は綺麗な手だ。昔も今も。……俺を守ってくれた手だ」
宗志を見つめる白臣の目が潤み出す。その目は空っぽではもうなかった。そしてそっと宗志の手の中から右手を抜くと、彼の手に重ねる。
「それを言ったら君の手だって同じだよ。僕を何度も守ってくれた、強くて綺麗な手だ」
そんなこと言うのお前だけだ、と宗志は言って苦笑する。彼は憧れのようなものを抱いていた。それは胸を締め付けるような、痛みを伴うものだ。だがその痛みさえ心地よく感じてしまっていた。
暫く二人は小さく笑みを交わして、どちらからともなく手を放した。宗志は眩しそうに空を見上げると、ちらりと白臣に目をやる。
「今から少し歩けるか」
「僕は別に大丈夫だけど、君は具合はもういいの?」
「もうほぼ治ってるしな。どうせ腹の傷はいくら寝ても治りゃしねぇだろうし。……お前を連れて行きたい場所がある」
さらりとそう言って宗志は歩きだした。白臣はそんな彼の背中を見つめ、鬼の怨念が彼の体を確実に蝕んでいっていることを思い返す。不安や心配をひとまず頭から追い払うように、白臣は頭を左右に振ると彼を追いかけたのだった。
「もうそろそろだ」
二人は穏やかな木漏れ日の中、のんびりと歩いていた。木々の中の一本道を一刻ほど歩いた頃、宗志は道の脇の緩やかな傾斜を登っていく。そのすぐ後ろに白臣は続く。
そしてその傾斜が更に緩やかになっていき、平地と変わらなくなってきた頃。宗志はちらりと白臣を見た。
「歩くと意外と時間かかっちまうもんだな。でも少し早かったみてぇだ」
「少し早い?」
宗志の言葉の意味が分からず白臣が首を傾げた時だ。二人は木々の道を抜ける。彼らの目の前には小さな野原が広がっていた。
そしてそこからは、人々が賑わう城下町や、少し離れたところには苗が植えられたばかりの田んぼ、そして緑豊かな林などが一望できる。その奥には山々が連なっていた。
「綺麗……」
思わず白臣はそう呟いた。宗志はちらりと彼女に目をやり満足そうに小さく笑うと、どかりと腰を下ろした。その隣に彼女もゆっくりと座る。
目の前には特別なものなど何もなかった。だが当たり前に繰り返される日常の景色が尊いのだ、と気づかせてくれるような風景である。宗志は遠くを眺めるような目をして、言葉を紡いだ。
「……餓鬼の頃、よく城を抜け出してはここに来てたんだ」
「宗志が子供の頃?」
「ん。……こんな性格だから友達と呼べる人間なんていなかったし、下手に他人と関わっても怪我させるのがオチだしな。それが嫌だったんだろ」
力加減が上手く出来なかったからな、と宗志は淡々と続けた。白臣はそれを黙って話の続きを待つ。
「父親や母親をじゃれたつもりで怪我させたことも何度もあった。……朧気だったが、爺さんにも、姉の紫にも。父親の骨を折っちまったこともあったと思う」
でもみんな笑って許してくれたんだ、とぽつりと宗志は続ける。その消え入りそうな声に、白臣は心臓がぎゅっと掴まれるような気がした。彼女は少しでも宗志の気持ちを上げたくて、わざと明るい声で口にする。
「じゃあ宗志が優しいのは、ご両親譲りなんだね。あと周りの人達に似たからなのかも」
「……だから、俺ほど優しいっつう言葉から離れた人間はいねぇって何度言えば――」
「君は優しいよ」
君は優しい、と白臣は繰り返した。宗志は不服そうな顔をして横目で彼女を見て、溜め息を吐く。そして視線を前へと戻した。
「……俺は何で生まれちまったんだろうな」
「宗志……」
「俺は周りにいた奴らの人生を狂わしてく。俺は周りにいた奴らを不幸にしていく。……俺なんか生まれなきゃ良か――」
「宗志!」
思わず白臣は叫ぶと、宗志の襟首を掴んだ。彼は驚いたように切れ長の目をすっと見開いた。白臣はそんな彼の目を真っ直ぐに見上げ、静かに叫ぶように続ける。
「……君の周りにいた人は、そして今隣にいる僕も! 不幸者なんかじゃない……!」
「……父親も母親も俺が殺した。俺さえいなきゃ死なずに済んだ、違わねぇだろ。……紫だって、俺さえいなきゃ、恨み辛みに取り憑かれることも、化けもんに成り下がることもなかった。爺さんだって何度も主君を失わずに済んだ」
「違う! 違う……」
「……違わねぇだろ。……お前にだって。人斬りからは程遠いお前に、俺は人を殺させた。俺さえいなきゃお前は余計なもんを背負わずに済……ッ!」
そう言い終わらないうちに宗志は左頬に衝撃を受ける。殴られたのだ、と気づいた頃には白臣に押し倒された後だった。彼の顔の左右すぐ側に手をつき真正面から見下ろしている彼女の瞳からは、ぼろぼろと涙が零れている。
「そんなもの、いくらでも背負ってやる……! 僕はね、君が思うほど綺麗でも優しい人間でもないんだよ……! 君を護れるなら、僕は小さな子どもだって殺せてしまうんだ……!」
「ハク……」
「君のお姉さんを殺めたのだって、それは僕の意志だ……! 例えあの時に戻れたとしても! 僕は何度だって同じことをした。……だって、だって、だって! ……君に死んで欲しくないから」
「……もういい。だから泣くな」
「僕は泣いてなんかない……!」
泣いてんじゃねぇか、と宗志は苦笑する。白臣は流れる涙を拭いもせずに真っ直ぐ彼を見つめ、縋るような声で続ける。
「ねぇ、どうして、どうして……! 君がこんなに苦しまなきゃならないの……。なんで……!」
「……もうわかったから。だから泣くなって」
「君は何も分かってない……! 言ったでしょ……? 僕は君が思っているほど綺麗で優しい人間じゃないって。……君の苦しみ全て、遠い国にいる僕の知らない人が身代わりになればいいとさえ! 僕は思ってしまう人間なんだよ……!」
「……バカだな、お前。俺にそんなに想われる価値なんてねぇのに」
そんなことない、という白臣の叫びは嗚咽にのみ込まれてしまった。ただただ首を横に振る。そして叫ぶように続ける。
「なんで、君は自ら終わりに手を伸ばすの……! 僕じゃ駄目なの……? 僕じゃ君をこの世に繋ぎ止めることは出来ないの……?」
「ハク……わかったから。もうわかった」
「わかってないよ……! 僕がどれだけ君を大切に思ってるか! 君が死んだら僕がどれだけ悲しむか! 死にたくなるか! 君は全然わかってない!」
「泣くなって……。俺にその価値は――」
「ないわけないだろう……! 僕はずっと幸せだったんだよ……! それは、他でもない君が! ……君が隣にいたからなんだ……!」
真っ直ぐと白臣は宗志を見つめ、涙声で縋る様に言葉を続けた。
「お願いだよ……宗志……。死なないで……死なないでよ……! 僕を、僕をひとりにしないで……お願いだから……」
泣きじゃくっている白臣を、宗志は困ったように小さく笑いながら袖で下から彼女の涙を拭う。
彼は目が眩むような感覚を抱いていた。それほどまでに、白臣が眩しかった。届かないと思っていた、同じ世界じゃ生きられないと思っていた太陽が、闇夜に顔を出したような。彼の胸が尊さでいっぱいになる。
そんな自分の気持ちと向き合いながら宗志が起き上がろうとすると、彼が思ってよりもあっさりと白臣は彼の上からどいた。彼女は宗志に背を向けて座っている。その背中は震えていて、時折鼻を啜る音や嗚咽が漏れていた。
「……泣くなよ」
「泣いてない……!」
「……俺さ、お前に会えて良かった」
突然の宗志の言葉。白臣は驚いたように目を見開いて、彼に向き直る。その目から涙は止まってしまっていた。彼女は充分過ぎるほど宗志を見つめる。
そしてまたぼろぼろと涙を零し、再び泣きじゃくり始めたのだ。
童の様に泣く白臣に、宗志は口をむうとへの字に曲げた。
「……んだよ。俺にそう言われたの……泣くほど嫌なのかよ」
「違う……違うよ……! 嬉しくて……」
嬉しい嬉しい、と繰り返しながら泣きじゃくりながら笑う白臣に宗志は苦笑する。そして彼女に近づくと自らの袖で半ば強引に涙を拭った。
「ほら、泣きやめって。見せたいもんがあんだから」
「見せたい、もの……?」
まだ涙は止まらない瞳で、白臣は宗志が見ている方を向く。
そこには茜色に染まった城下町、茜色に染まった田や畑、茜色に染まった山々や空が広がっていた。沈みかける夕日が世界を茜色に染めていたのだ。温かい光が降り注ぐ。
「綺麗……」
「だろ。餓鬼の頃からこの時間の、この景色が好きだった」
静かにそんな言葉を紡ぐ宗志の瞳には、懐かしさと哀愁が篭っていた。夕日を眩しそうに見つめながら、彼は静かに呟くように続ける。
「俺はこんなに変わっちまったのに、この景色は、この空は変わらねぇ」
そして宗志はちらりと白臣に目をやった。そして小さく笑を浮かべる。
「こんな俺でもこの夕日や、緑豊かな山々、春の桜や冬の雪。どれも綺麗だって思える。……こんな俺でもそう見えるんだ。お前にはもっと綺麗に見えるんだろうな」
「変わらないと思うよ、宗志が見てるこの景色も、僕が見てるこの景色も」
「……どうだかな」
ふっと宗志は小さく笑い声を漏らす。その横顔は何か憑き物でも落ちたように、白臣には思えた。
(……僕が、そう思いたいだけなのかもしれないけど)
それでも少しでも宗志の気持ちが前を向けたのなら、少しでも自分の存在が彼にとって意味があるのなら。そんな幸せなことはない、と白臣が思っていた時。宗志の視線に気づいたのだ。
白臣が首を傾げると、宗志は彼女の髪を一房掬っては流すを数回繰り返した。彼女は擽ったそうに目を細める。
「……お前の髪は、この夕日と同じ色だな」
「そう、かな……?」
「ああ。餓鬼の頃から好きな色だ」
そう言って宗志は白臣の髪をそっと弄ぶ。彼女の中でなんとも言えない気持ちが湧き上がる。そしてなんだか、また泣きそうになってしまう。
「僕ね、ずっと自分の髪が嫌いだった。だけど……君が小さい頃から好きなものと同じ色なら……好きになれそうな気がする。大切にしようと思える」
そっか、と宗志は短く返す。そして二人は目に焼き付けようとするかのように、黙って夕日が沈むのを見届けた。そして辺りが闇に包まれても、暫くその場所に座っていたのだった。
空が赤く染まる頃。堂林はもぬけの殻となった寂れた村の、とある屋敷の縁側に座っていた。その隣には雪がちょこんと座り、何やら懸命に手のひらを見つめ、眉間に皺を寄せている。そして時折、えい、やっ、と声を漏らしていた。
暫くそんなことをやっていたが、雪は疲れたように泣き言を上げる。
「どうばやち様ぁ、できないよぉー!」
「……知るか」
「オレ、狐火もだせないなんて……本当に純血の妖狐なのかなぁ……」
「……知るか」
「ねね、どうばやち様っ? なにかコツとかないんですか……っ?」
知るか、と返されると雪は思っていたが、彼の予想に反し堂林は無言で手のひらを上に向けた。その瞬間手のひらの上に紫色の炎が灯る。
「体中の熱を手のひらに集めるように意識すんだよ。それと同時に手のひらの温度を下げる。氷ぐれぇな」
「それってあついんですか、冷たいんですかっ?」
「……両方だ」
「そんなの分かんないよぉ、むずかしいよぉー!」
「びーびーうるせぇな、殺すぞ」
ドスの利いた声で堂林がそう呟いても、雪は出来ない出来ないと繰り返す。その目には涙が溜まっていて、今にも泣き出しそうである。
しかしその泣き言もすぐに止まった。急に静かになった雪に堂林はちらりと隣を目をやる。その時、ぐるるる、と盛大にお腹が鳴る音が響いたのだ。それはもちろん、雪のである。
「へへ、おなか空いちゃいましたっ。夜ごはんの時間ですねっ。どうばやち様っ」
「……そうだな」
「オレ、お魚さんとってきますね。オレ、お魚さんとるのだけはとくいなんですっ」
「可哀想な野郎だ」
「ひっ、ひどいです……っ! オレのゆいいつのとくいな事なのにっ!」
うるうるとした瞳で雪は堂林を睨みつける。堂林は面倒くさそうに舌打ちした。
「……さっさと捕ってきやがれ」
「やですっ! どうばやち様がごめんなさいするまでうごきませんっ!」
「んじゃ、一生ここにいろ。俺はもう行く」
「やだやだっ……、ごめんなさいっ、うそですっ。だから置いていかないでっ……!」
泣きそうな声で堂林の袖にしがみつく雪に、堂林は刺々しく舌打ちする。そしてぎろりと彼を見下ろした。
「さっさと魚でも何でも捕ってこい」
「はーいっ! そういえば、どうばやち様ってなんのお魚さんがすきなんですかっ?」
「特にねぇ」
「えー! せっかく、どうばやち様のすきなお魚さんとってきてあげようと思ったのにぃっ……オレはね、んー、何でもすきぃ。じゃあじゃあ、どうばやち様は何かすきな食べものありますかっ? オレ、何でもとってきちゃいますよっ」
何故か偉そうにえっへんと胸を張っている雪に、堂林は冷たい視線を容赦なく注ぐ。
「面倒くせぇから、とっとと行け」
「もしかして、信じてくれてないんですかっ? オレすごいんですよっ。お魚さんや、うさぎさんや、たぬきさん、ちょうちょうさんに聞けば、何でもおしえてくれるんですっ」
「……魚と喋れるのかよ」
「もちろんですっ。お魚さんきてくださーい、食べないからきてくださーい、ってよぶときてくれるので、そこをつかまえちゃうんですっ」
さらりとそんなことを言いながら雪は堂林に擦り寄った。そしてキラキラとした瞳で見上げる。
「どうばやち様っ、すきな食べものなんですかっ?」
「……」
「どうばやち様?」
「……苺」
「へっ?」
雪はきょとんとした顔をして、堂林を見つめる。堂林は苛ただしげに舌打ちをした。そしてことを理解をすると雪はクスッと笑い始める。そしてキャキャッと笑い声を上げた。
「どうばやち様っ! いちごすきなんですかぁー? かわいいっ! どうばやち様、かわいいーっ!」
「てめぇ……殺す」
「やめてぇっ、ころさないでっ。オレもすきですよっ! いちごっ! どうばやち様とおなじっ!」
「てめぇ……」
「でもごめんなさい、どうばやち様。いちごのきせつはもう過ぎちゃってますっ。だから来年までまっててくださいっ」
刀をちらつかせても、雪は怖がる素振りも見せない。クソが、と堂林は吐き捨てる。
「てめぇ、来年まで付き纏うつもりかよ」
「はいっ! オレが立派な九尾になるまでっ!」
「一生来ねぇよ、馬鹿が」
「ひどいっ、オレがんばってるのに……っ!」
「……知るか」
その時だった。堂林の目の前に男がいたのだ。今来たのか、それともずっとそこにいて存在認識をしたのが今だったのか。それさえも分からないほど、その男は自然にただそこに立っていた。そしてその男には金色の七本の尾、頭には尖った金色の耳が生えている。
堂林は反射的に刀に手を掛けた。そして目の前で笑みを浮かべる男に鋭い視線を飛ばす。
「てめぇ……何もんだァ」
「はじめまして、堂林くん。そして久しぶり、雪」




