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血煙旅記  作者: 黒洋恵生
郷愁編
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【第四十五話】染み込む願い

 





 紫は咳き込んだかと思うと、黄緑色の粘着質のある液体を吐き出したのだ。そして右目からどっと溢れ出す液体の量は先ほどよりも確実に増えてしまっている。彼女は黄緑色の液体を吐きながら言葉を(こぼ)す。


「なんなんだ、これは……! くそ、意識が……」


 その様子に宗志はもちろん、周りにいる白臣達、そして当の本人である紫も訳が分かっていない。その中で唯一、宮塚だけが笑っていた。それに気づいた彼女は、噛みつきそうな勢いで(にら)みつける。


「宮塚! 貴様、まさか……!」

「そろそろ意識がぼやけてきましたか? 紫様」

「貴様、それはどういう……」

「すみません。私めは貴方様に嘘をついてしまいました。紫様が召し上がった物は確かに蝦夷(えぞ)から取り寄せた物ではございます。ですが、理性をなくさずに済むというのは真っ赤な嘘。せいぜい理性を保てる時間が少しばかり伸びただけでございます」

「私を……主君の私を……、騙したというのか!」


 怒りに震えながらそう紫は怒鳴るが、すぐ咳き込んでしまい黄緑色の液体を吐き出している。宮塚は困ったように笑ってみせた。


「紫様がよく仰ってた言葉を私めは記憶しております。〝騙されるやつが悪いのだ〟と」

「宮塚殿……! 紫様を、紫様を……!」

「うるさいな、老いぼれは黙ってひっこんでろ。……さあ、どうなさりますか? 貴女様の理性はそう持ちません。理性のあるうちに私を殺しますか? それとも……仇を取りますか……? どうなさるんですか、紫様」


 怒りのあまり震えながらも紫峨は宮塚の襟首を荒々しく掴む。それを気にする素振りも見せず彼は今にも飛びかかりそうな形相で睨みつけてくる紫に笑みを返した。

 短い沈黙の後。彼女は視線を宗志へと向けた。そして静かに息を吐き出す。


「憎き仇を(なぶ)り殺してから貴様を八つ裂きにすればいいことだぁあああ―――!」

「本当に貴女様は聡明なお方だ……」


 宗志に迫る紫。それはもはや人間の速さではなかった。次々と繰り出される攻撃。それを宗志は(かわ)していく。そんな人間離れした二人の斬り合いを眺め満足そうに宮塚は呟く。


「さて、あとどれくらい持つかな……」


 黄緑色の液体を(ほとばし)らせ、紫は怒号を上げ宗志を追い詰めていく。


「化け物めぇぇええ! もし少しでも我らの父、そして母を思う気持ちが残っているのならぁああ!」

「……ッ!」

「私に黙って殺されるがいい……! それが父と母の願いなのだからぁぁあああ―――!」


 その時。宗志の守りが緩んだのを白臣は見逃さなかった。守りに徹していた彼の刀に迷いが生じたのだ。そんな迷いは斬り合いでは命取りになるのは明らかだった。

 そして。白臣の恐れが現実となった。宗志の刀が払われた拍子に手から抜けてしまったのだ。

 弧を描く様に宙に飛ぶ刀。容赦なく振り下ろされる紫の刀。宗志は刀を握る彼女の腕を掴み、払う。そして彼女の体を突き飛ばす。二人の間合いは少しばかり開く。

 しかし紫は体勢をすぐに立て直した。そして地を蹴り、斬りかかかったのだ。守る(すべ)を無くした宗志に。

 肉が裂け、血が吹き出す音。そして嗅ぎなれた血の匂い。

 だがそれはいずれも宗志から発せられた音でも匂いでもなかった。


「な……! お前……!」


 宗志の心臓がどくりと嫌な音を立てた。彼の目の前には白臣がいたのだ。そして彼女の前には血と黄緑色の液体を口から噴き出している、姉の紫の姿があった。彼女の胸を白臣の刀が貫いていたのである。それは確実に急所をとらえていたのだった。

 震える手で白臣は紫から刀を引き抜いた。それが抜かれると同時に紫の体は糸が切れた傀儡(くぐつ)のように倒れてしまう。それをただ呆然と白臣は見下ろしている。その華奢な肩は震えていた。


「紫様―――ッ!」


 そう叫び倒れている紫に駆け寄る紫峨の声にはっとしたような顔をして、白臣は小さく、ごめんなさいと一言呟いた。そして宗志に目を向け、目を伏せる。


「……ごめん」

「……なんで、なんで……! お前が謝るんだよ……!」


 叫ぶような悲痛な声を思わず宗志は漏らす。白臣は困ったように力なく笑った後、ごめんと一言また呟くだけだった。

 そんな空気の中で場違いに明るい声が響く。


「いやあ、紫様残念でしたねぇ。仇打てなくて。せっかく化け物にまで成り下がったっていうのに。でも大丈夫ですよ、篠本国は私めがちゃーんと天下統一させてあげますから。……ってあれ、紫峨殿何でそんな怖い顔してるんですか?」

「宮塚! 貴様は貴様だけは……!」

「何怒ってるんですか、紫様の仇は俺じゃないでしょう。そこの赤毛の化け物でしょう。それ、八つ当たりって言うんですよ。……まあ殺り合おうって言うなら乗ってあげますよ。しっかし、俺に勝てると思ってるんですか? 妖怪を寄生させた奴らに弱者とみなされている貴方が、強者としてみなされている俺に勝てるとは到底思えませんけど」


 化け物は強さに正直ですからねぇ、と宮塚は薄ら笑いを浮かべ刀を抜く。すると今まで大人しくしていた妖怪を寄生させられた人間達が、明らかに恐れをなしたように萎縮するのが見えた。

 紫峨は宮塚を睨みつけたまま、(ふところ)に手を入れた。そして取り出したのは注ぎ口のある小さな銚子だったのだ。それは紫が飲み干した物と同じように見えた。流石の宮塚も驚いたような顔をしたが、すぐ落ち着き払った声で尋ねる。


「まさかあんたも化け物になろうってぇの?」

「そのまさかだ。紫様は家臣にもしもの時は飲むようにと皆にこれをお配りなさっている。死に絶えそうな時は敵を道連れにしろ、とな」

「ふうん。さて、理性がどこまで持つか見物だね。とは言ってもあんたはそれを飲んでも俺に勝てるかどうか。非力な老人だもんな、あんたはさ」

「おい! ()めろ爺さん!」


 宗志の静止の声も聞かず、紫峨はそれを飲み干した。……だが。

 異変が全く起きない。怪訝そうに紫峨は眉間の皺を深め、宮塚も拍子抜けしたような顔をする。


「なぜ……?」

「……当、然だ……、わた、しが、爺に……渡した、のは……ただの、水、なの……だから……」


 その声に紫峨は勢いよく振り返った。宗志も驚いたように目を見張る。紫は咳き込んでは血と粘着質のある液体を吐き出した。彼女はまだ生きていたのだ。

 紫峨は紫の側に駆け寄ると、その刀を地面に刺してしゃがみこむと彼女の冷えた手を両手で握った。紫は最後の力を振り絞るかのように、言葉を一つ一つ紡いでいく。


「爺を、化け……物になど、できる、もの……か……。爺は、私の……たった、一人の……家、族……なの、だから……」

「紫様……!」

「憎い……、憎い……、憎い……! 仇も、私の……仇討ちを、邪魔……した、者も……! 憎い……」


 うわ言のように紫は憎い憎い、と何度も呟いた。そして(ほとん)ど空気の様な声で続ける。


「私は……父、や、母……や、三浦の、いる……処、には行けぬ、だろ、うな……。今度こ、そ……ひとり、ぼっち……だ……。ひと、りは、嫌だ……嫌、だ……」

「紫様、大丈夫です。すぐに爺が紫様のもとへと逝きますから……!」

「馬鹿、言う、な……。後、追い……など、したら……承知、せん……ぞ……。……憎い、憎い……憎い……憎くて……たまら、ぬ……。……だが…………」


 ―――これで良かったのかも知れぬ。


 そう最後に言葉を呟くと同時に紫は固く(まぶた)を閉じたのだった。

 氷のように冷たくなっていく紫の手を紫峨は暫く握っていた。そして少ししてから彼女の手をゆっくりと放す。そして立ち上がると地面に突き刺していた刀を引き抜き、宮塚に剣先を向ける。彼は驚いたように丸い左目をさらに丸くしてから、すっと細めた。その目には凶暴な光が宿っている。


「売られた喧嘩は買いますよ、紫峨殿。もともとあんたは邪魔だったんでねぇ。ただ残念。化け物にでもなれたら少しはあんたの勝機もあっただろうに。つくづく紫様は聡明(そうめい)なお方……利用しやすい人だ、いや、だった」

「宮塚……貴様だけは、貴様だけは、許さぬ……!」


 紫峨がそう叫ぶと同時。二人は同時に地面を蹴った。


「……ッ!」


 静かな空に血飛沫(ちしぶき)が上がる音が充満する。


「嘘、だ……!」


 血柱を上げて倒れたのは宮塚の方だった。血はみるみる地面に広がっていき染み込んでいく。独特な臭いが立ち込める。絶命した宮塚を見下ろして、紫峨は刀の血を払いそれを(さや)に納めた。


「貴様の言ってたことは、あながち間違いではないのかもしれぬ。怨み辛みはどんな感情よりも力になり得る、と」


 紫峨はそう静かに言って、辺りに目をやる。妖怪を寄生させられた人間達は今度は彼に恐れをなしたのか、彼に視線を向けられるとあからさまに委縮してしまった。彼はその者達を一瞥(いちべつ)した後、宗志へと向き直った。


「……宗志様、一ついいでしょうか」

「……ハクに何かしようってんなら、あんたにだって容赦しねぇ」

「違いますよ。この者達を葬って頂けないでしょうか。彼らは生ける(しかばね)。主君の後始末は私のお役目。……彼らを楽に逝かせてあげたい」


 紫峨の言葉に宗志は辺りにいる、妖怪を寄生させられてしまった者達を見渡した。彼らはもう言葉で意思疎通をすることも叶わない状態なのだろう、彼らの口から(こぼ)れでるのは(うめ)き声のみである。

 強い者にしか従わない。逆を言えば強い者の言いなりとなることを本能に()り込まれてしまった者達。もはや人間らしい感情も、理性も奪われてしまった者達。宗志は小さく頷いた。


「……一瞬で逝かせてやる」


 宗志がそう言うと同時。生きる屍となってしまった者達は瞬く間に炎に包まれ、ほんの一瞬で灰となり空に散っていった。辺りを満たしていたおぞましい呻き声も消え、今は鳥の(さえず)りと風の音だけとなった。

 そして宗志はちらりと絶命した姉の亡骸(なきがら)に目をやる。彼女の死に顔は酷く穏やかなものだった。その顔は女将軍や復讐者としての面影はなく、武家の姫らしい慎ましさと強さを感じさせられるものだったのだ。

 だがそんな紫を見下ろす白臣の翡翠色(ひすいいろ)の目は空っぽだった。全てを引きこずり込んでしまうかの様な深淵のような目だった。


「……ハク」


 心配そうに眉間に(しわ)を寄せた宗志に呼ばれ、白臣ははっと我に返ったように彼へと顔を向けた。彼女は困った様に小さく微笑んで見せる。だがその目は相変わらず空っぽだった。






「……ここは?」


 宗志は布団から体を起こし辺りを見回した。彼は見慣れない屋敷の布団の中にいたのだ。体の傷には誰かが治療してくれたのだろう、丁寧に包帯が巻かれていた。外からは朝を知らせる鶏の鳴き声が部屋に飛び込んで来る。

 何があったのか、ぼんやりとした頭で思い出そうとした時だ。

 すっと(ふすま)が開き、(おけ)を持った白臣が入ってきたのである。彼女の姿が目に入った瞬間、宗志の頭に紫峨のことや妖怪を寄生させられた人間や、そして姉の紫のことがなだれ込んで来たのだった。

 白臣は水を張った桶を宗志の布団の脇へ置くと、中にある手拭いを絞りながら口を開く。


「目、覚めたんだね。ここは紫峨さんの屋敷だよ。倒れた君を紫峨さんの部下の人達が運んでくれたんだ。あ、お医者さんが言うには疲労で倒れただけだから、君の治癒力をもってすれば大丈夫だって」


 肩の傷ももう殆ど塞がってるだろう、と言い白臣は宗志に横になるように促した。彼は促されるまま体を布団に沈める。白臣は絞った手拭いを彼の額に丁寧に乗せた。その冷たさに彼は目を細める。


「熱も少しあるみたいだから、もう少し寝てた方がいい」

「……ハク」

「ん?」

「……お前は大丈夫なのか」

「……大丈夫だよ。僕は何の怪我もしてないしね」


 そういう問題じゃねぇ、と返す宗志の言葉を(さえぎ)るように白臣は言葉を口にして立ち上がった。


「さて、僕はちょっと手を洗ってくるね。君はくれぐれも安静にしてるんだよ」


 白臣はそんな言葉を言い残し部屋を出て行ってしまった。宗志は体にのしかかる気だるさを感じながら眉間に皺を寄せる。彼女の翡翠色の目は相変わらず、空っぽだったからだ。そんな事を考えていると、ぷつりとそこで思考が途切れたのだった。

 どれくらい眠っていたのだろうか。宗志は目を覚まし、ふとそんなことを考えた。彼が手を自らの(ひたい)にやると、白臣が乗せてくれた手拭いは人肌程の温度になっている。体を起こそうとした時だ。彼を心配そうに見下ろす者の顔が視界に入ったのである。


「宗志様、お目覚めでございますか。お体の具合はいかがでしょうか」

「……ああ、特に問題ねぇ」

「お元気そうでなによりでございます。昼餉のお時間ですが、何か希望はございますか。なんなりと申し付けくださいませ」

「昼飯はいい。……んなことより、ハクから聞いた。世話になったみてぇだな」

「とんでもございません。家臣として当然のことをしたまでです」


 俺はあんたの主君じゃねぇ、と宗志は体を起こし苦々しい表情でそう吐き捨てた。そして彼は視線をさ迷わせた後、(おもむろ)に口を開く。


「あんたは、あんた達はこれからどうすんだ」

「……私めは篠本国を以前のように、小さくても豊かな平和な国にしたいと思っております。今までの散々な横暴ゆえ、それは簡単なことではないことは承知の上ですが」

「あんたが君主になりゃ篠本国も安泰だな」

「いいえ。私めは君主になる器も家筋も持ち合わせておりません。……二つの案があります。一つは養子を迎え入れること」


 二つめは、と紫峨は口にすると宗志に向かって深々と頭を下げたのである。彼の行動が理解出来ていない宗志に、彼は言葉を続けた。


「宗志様、私達の主君になって下さいませんか」

「……馬鹿言ってんじゃねぇ。俺に国を治めろってぇのか」

「その通りでございます。宗志様は結羽無月様のご子息であられます。そして武術、教養の面でも申し分はございません。なにより、私めは貴方様にお仕えしたいのです」

「寝言は寝て言うもんだ。……あんたは結羽家に代々仕えてくれた紫峨家の出、結羽の血が流れてる人間に仕えてぇっていう、あんたの気持ちは分からなくもねぇ。……だが、あんたはそれで良くても他の奴らは首を縦に振りゃしねぇだろ。……俺はもう汚れきっちまってる」

「これは私めだけの願いではございません」


 そう紫峨がはっきりと言った時。襖が勢い良く開かれ、部屋に篠本国に仕える家臣達がぞろぞろと入ってきたのである。彼らは宗志の布団を囲むようにして正座した。彼らが宗志を見る目は、今まで宗志が向けられたことはめったにない輝きがこもっている。

 そんな目で自分を見る人間は片手で数えられる程度だろう、そんなことを宗志が考えていた時、家臣達は紫峨と同じく深々と頭を下げたのだ。

 紫峨は頭を下げたまま、朗々とした声で言う。


「私達、篠本国に仕える者達の願いでございます。既に宮塚の息がかかった者は篠本国を出て行ってしまいました。本来の篠本国の姿に戻すという意向に賛同出来なかったのでございましょう」


 お願いします、と宮塚は続ける。その他の家臣も口々にお願いしますと口にした。その中で宗志は静かに首を振る。


「……悪りぃな。俺はお前達の願いを叶えてやることは出来ねぇ。六代目篠本国城主、結羽無月、そしてその妻である結羽弥生を殺したのは、この俺だ」

「それは致し方のなかったこと―――」

「殺したことには変わりねぇ。それに結羽紫が横暴を行ったのも、俺が元凶(げんきょう)だ。そして死んだのも、な」

「私達は無月様や弥生様が亡くなったのも、紫様があのような暴政を行い亡くなってしまわれたのも、宗志様のせいであると爪の先ほども思ってなどおりません。ですから―――」

「悪りぃな」


 紫峨の言葉を遮るように宗志はそう言うと、立ち上がった。そしてはだけた襟元を直しながら口を開く。


「お前達がそれを例え許してくれたとしても、俺が許せねぇんだ」


 そう言って宗志が部屋を出ようと襖に向かおうとすると、正座をして頭を下げていた家臣達が左右に別れて道を開けた。そして彼は襖に手を掛けて、ちらりと後ろを振り返った。


「養子でもなんでも迎えてくれ。その方がお前達も篠本国にとってもずっといい」

「宗志様……」

「あとこのことはハクに言わないでくれるか。あいつ変に気を遣うとこあるから」

「……承知致しました。でもこれだけは忘れないで頂きたいのです。宗志様の帰りを私達はいつまでも待っているということを」


 紫峨の言葉に宗志は悪りぃな、と返した。そして襖を開けて部屋を出ようとした時だ。


「爺さん、ハク見なかったか」

「藤生殿でしたら、先ほど庭にある井戸のところにおりましたよ」

「井戸?」

「手を洗っているとのことでしたので、すぐ戻られると思いますが」


 怪訝そうに宗志は眉間に(しわ)を寄せた。確か鶏が鳴くほどの早朝にも、白臣は手を洗いに行くと言って部屋を出て行ったはずである。何かひっかかるものを感じて、彼は紫峨に礼を言うと足早に部屋を後にしたのだった。





 宗志が庭に行くと、紫峨の言っていた通り井戸の傍に白臣がいた。彼女はしゃがみこんで井戸から()んだ水で手を洗っている。何故か一心不乱に手を洗っている彼女に、宗志は近づいていった。


「おい、何してんだ」


 後ろから声をかけると白臣は肩をビクッと震わせて、水の中で擦り合わせていた手を止める。そして振り返ると小さく笑ってみせた。


「何って、見ての通り手を洗ってるんだ」

「……ならもう充分だろ。部屋に戻るぞ」

「充分じゃないよ、全然落ちないんだ……血が……! 洗っても、洗っても……! 落ちないんだ……!」

「おい!」


 再び桶の水に手を入れ擦り合わせる白臣の腕を、宗志はしゃがむと同時に掴んだ。そして半ば強引に桶から手を引っ張り出させる。

 最初は抵抗していた白臣であったが、暫くして我に返ったようにぴたりと抵抗を止めた。そしてそんな彼女の様子を見計らってから、宗志は彼女の腕を掴んだままゆっくりと立ち上がった。彼女もそれに合わせて力なく立ち上がる。宗志は彼女の小さな手のひらにそっと触れた。


「こんなに冷たくなってんじゃねぇか。洗いすぎて赤くなっちまってる」

「宗志、ごめん……取り乱した」

「謝ることじゃねぇよ。……まだ血ついてるように感じるか」

「……少し」


 そっか、と宗志は小さく一言返した。そして彼は冷えきってしまった白臣の両手を、自らの両手でそっと壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。

 少し力を入れてしまえば砕けてしまいそうな小さな手だ、と宗志は自らの両手の中に白臣の手を包み込みながら考えていた。その手に何度も救われてきたことも。そんなことを思いながら彼は自らの両手で白臣の手を包み込んだまま、気持ちを込めるように(ひたい)をつけた。


「……ごめん」

「なんで、宗志が謝るの……?」

「俺が、殺せばよかったんだ。なのに……」


 白臣の手を握る宗志の手にぎゅっと力が篭った。彼は両手に額をつけたたまま言葉を続ける。



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