【第五話】灯る紅色
ひやり、男の首筋に冷たい物が当たった。男の顔に一筋の冷や汗が光る。男の後ろから声が聞こえた。
「何をそんなに驚いてる? 僕が死ぬ幻覚でも見たのか?」
男は前方を我にかえって見ると、クナイが三本地面に転がっている。男には仕留めた手応えがあり、相手の左腕だって斬り落としたはずだった。
「君が斬ったのはおそらく僕の残像だろう」
そんな馬鹿なことあるわけないだろ、と男が反論する前に首筋に当てられた刀はさっきよりも強く押し付けられ、男は声にならない悲鳴をあげる。
「本当は血なまぐさい事が好きじゃないんだ。君も大人しく言う事を聞いた方が身のためだっていうのは分ってるはずだろう。それで……大牢獄ってどこにある?」
男は恐怖からか声が裏返りながら途切れ途切れに答えた。
「こ、ここから、まっすぐ行くと大木があって、そこに隠し扉があって……それで……」
「なるほど。じゃあ、鍵を僕に貸してくれないか」
男は震える手で懐から鍵を取り出して白臣に手渡した。いくつかの鍵が輪で繋がれているものだ。白臣はそれを受け取ると自らの懐にしまい、男の首に当てていた刀を鞘に戻すと同時に男の首元に手刀を落とした。
男は小さく呻き声をあげて気を失った。
白臣は伸びている男を見下ろす。この男の怯えた顔、声が嫌でも思い出された。
(まるでやってることは悪人と同じだな)
そう思い自嘲気味に笑った。化け物……か……。
言葉には魂が宿るという。言葉にはそれほどの力があると、亡くなった父が白臣に毎日の様に言い聞かせてきた事だ。言葉には人を生かす力も殺す力もあると。
自分は化け物、化け物と言われて化け物に近くなってしまったのかもしれない。今化け物だと揶揄されたとしても、はっきりと否定できる自信が白臣にはなかった。
(こんな感傷に浸ってる場合じゃない)
雑念を振り払う様に、しっかりと鍵を握りしめた。さっきのクナイが擦ったのか鎖骨あたりに小さな痛みが走った。だが、小さくしかも浅い傷で気にするほどのものではないだろう。
白臣は辺りを確認し大木を目指し走りだした。
「……ここは?」
黒い着流しを着た男は辺りを見回すと、薄暗くぼんやりと明かりが灯っているのが分かった。どうやらここは檻の中らしい。……しかもご丁寧に鉄の檻だ。
俺はどうしてここにいるんだ、とまだ覚束無い頭で考えを巡らすと、盗賊の事、那智組の毒矢で意識を失った事を思い出した。そしてあの赤い髪の侍の事も。
「ガハハ! 寝心地はどうかな? 天狗よ」
檻の外にはあの髭づらの男がいた。人を小馬鹿にした様な笑みを浮かべている。
「良いわけねぇだろ」
「それは失礼。でも安心しろ、明日の夜には寝心地の良い場所で寝かせてやれるぞ。極楽という名のな! いや、お前が逝くのは地獄だったな」
何が面白いのか男は一人で馬鹿笑いをしている。ひとしきり笑った後で、男は愉快そうに口を開く。
「いやあ、俺は運が良いらしい。天狗の宗志を捕まえたと思ったら、私の部下が〝南燕会の時雨〟を捕まえたらしくてな? こりゃあ出世しないわけがあるまい」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。時雨は博識気取りの馬鹿だが、てめぇらみたいな雑魚に捕まる奴じゃねぇんだよ。そりゃ人違いだ」
「その雑魚に捕まってるのは何処のどいつかな?」
鉄の檻の中から髭づらを睨みつけ、男は大きく舌打ちをした。なんでよりによってこんな奴に捕まらなきゃならねぇんだと心の中で毒づく。
「明日はお前を処刑する日だ。どれだけの民が喜ぶことか。本当はじわじわと火炙りにでもして殺したかったのだが……お前は火では死なないんだもんなあ。どうやって殺されたい?」
「……勝手にしろ」
「ガハハ! いつまでそんな態度でいれるか見物だな。お前が泣き喚いて命乞いをするところを見てみたいものだ。腹を裂いて腸を引きずり出してやろうか? 化け物のお前はそれでも死ねないのだからなぁ。哀れな物だ」
髭づらの男は髭を撫で、ニヤニヤと人を見下す様な表情で続けた。
「しかし、珍しいこともあるものだ。寝込みに何十本の矢を放っても擦りもしないお前が、真昼間に何本もの矢をくらうとは。別嬪さんにでも目を奪われたか」
「てめぇには関係ねぇ」
その時バタバタと足音がして髭づらの男の部下と思われる二人が入ってきた。
「どうした? お前達」
「報告に参りました。大牢獄の入り口に不信な者がいたので捕らえました」
「ほう。そんなこといちいち報告しなくてもいい。適当にやれ」
「それがその者は子供で、何故か牢獄の鍵を持ってまして……しかも髪の色も目の色も気味の悪い色をしていて……」
髪の色と目の色……男はそこまで聞いてあの吊り橋で助けてやった人物を思い出した。まさか、こんなとこまで来るわけない、そもそも自分にこだわる理由などないはず、この世には俺程度の手練ならいくらでもいるのだから……と思い込もうとしたが、胸の中でつっかえる様な嫌な予感は消えはしない。
一人の部下の男が連れてきた人物は、両手を後ろに縛られている。彼は目を見張った。ぼんやりとした明かりに照らされているのは、間違いなくあの時の赤い髪の侍だ。
髭づらの男はその者をまじまじと見つめ、顎を掬った。
「一応訊くが、お前は妖怪の血が混じっているのか?」
「信じてくれるとは思っていない。だが、僕は普通の人間だ」
「普通の人間ねぇ……」
髭づらの男は明らかにその言葉を信じていない様子である。白臣は唇をきつく結んでいる髭づらの男を睨みつけた。
「お前が人間だろうが化け物だろうが、俺の出世には関係ないから興味がない。……で、お前は何しに此処に来たのだ?」
「……この男を見逃してやって欲しい」
白臣ははっきりした声で髭づらの男を睨みつけたままそう言った。檻の中からそのやり取りを見ていた男が驚いたのは勿論のこと、髭づらの男とその部下も驚いている様であった。
「お前はこの男とはどういう関係だ?」
「知り合いでも何でもない。ただ、この男が居なければ僕は死んでいた。二度もだ。この男が何をしていたのかは正直何も知らない。だけど僕を助けてくれたのは紛れもない事実なんだ」
静かな時が流れた。二人の部下は顔を見合わせて髭づらの男の動向を伺っている。するとその沈黙を破る様に髭づらの男が笑い出した。音の波が壁に当たり跳ね返る。
「お前は馬鹿か? この化け物が善人だろうが悪人だろうが俺には関係ねぇんだよ。ガハハ! 民を何千人殺してようがこいつを捕まえても出世出来ねぇなら捕まえたりしねぇで昼寝してるわ。出世出来る事しかしねぇ、それしか考えねぇ、それが俺だ」
まだ髭づらの男は笑いが収まらないのか腹を抱えて笑っている。
「お願いだ。僕が出来る事なら何だってする!」
「お前みたいな出来損ないの餓鬼に何が出来るって言うんだ、あ?」
「僕が首にかけている首飾りをやる。これを売れば一生遊んで暮らせる程の金が手に入る。嘘じゃない本当だ!」
髭づらの男は首飾りを手に取り、舐める様に眺めている。
「……いいだろう」
「本当か? それじゃ――」
「だが、もう一つ貰いたい物がある」
白臣は首飾り以外には一つも金目の物など持ち合わせてなく、髭づらの男が何を欲しがるのか全く想像つかなかった。
髭づらの男の口が気味悪く弧を描く。
「お前の……目玉だ」
「ふざけんじゃねぇ!」
今までひとごとの様に二人のやり取りを聞いていた男は思わず怒鳴った。
赤い髪の侍は眼球を求められて考え込んでいる様子である。男はその者に向かって荒々しく言い放つ。
「おい、そこの餓鬼。こいつは無理難題を言ってお前を追い返そうとしてるだけだ。分かったらその首飾り持ってさっさと帰れ」
「黙れ天狗。俺はどちらでも構わないぞ。この首飾りが大金になるかならないかは知らないが、お前の翡翠色の目玉は金になる。天女の目玉だと売れば馬鹿な大名や貴族がこぞって欲しがるだろう。安心しろ、両方とは言わない。片方だけで良い。俺って優しい男だろ?」
下品な笑い声をあげる髭ヅラの男。一方で囚われてしまった黒い着流しの男は、感情的になってしまったのを決まり悪く思っていた。自分にそんな事を言われ無くても、知り合いでも何でもない、ましてや化け物の自分を眼球をくり抜かれてまで助けようとする者などいる訳が無い。彼はは赤い髪の侍が帰ること以外の事が起こる事などありはしないと思っていた。
「……………分かった」
その赤い髪の侍の言葉に男は我が耳を疑った。その言葉は彼が思っていたものとは真逆の言葉であったからだ。
そんな白臣を面白げに髭づらの男は見下ろしている。
「よし、いいだろう。お前の望み叶えてやろう」
「え!? 良いんですか?」
部下の一人が驚いた様子で髭づらの男を見た。
「俺の出世は時雨を捕らえてあるから守られる。こいつの目玉を得る方が旨みが多い。それともお前は何かこの俺に文句でもあるのか?」
「いえっ……何も……」
男は刀を抜き大きく舌なめずりをして、ゆっくりと近づく。白臣の表情に恐怖や迷いの色はなく、心を決めた様な真っ直ぐな眼差しで自分の片側の光が失くなる瞬間を静かに待っている。
「ふざけんじゃねぇ! とっとと帰れ!」
「天狗、少しは黙っていろ。不愉快だ」
彼の怒鳴り声にも近づいてくる男にも白臣は臆することはない。男には白臣の考えている事が一片たりとも理解出来なかった。それは彼が普通の人間ではないからなのか、それとも赤い髪の侍の方が異端であるのか。彼にはもはやそれさえ分からなくなっていた。
だが一つだけ確かなことは、その翡翠色の瞳にはこの世の綺麗な物しか映したことがないのではないかと彼が思ったことだ。彼にとって白臣は浮世離れした存在に見えたのである。
「悪く思うなよ?」
髭づらの男の高笑いと共に肉の裂ける音が牢獄に響く。夥しい量の血が溢れ血溜まりができ、その血溜まりは男のいる檻の中にまで広がった。その生暖かさを感じさせる独特の臭いは、彼に忘れる事のできない味を思い出させたのである。