【第四十二話】微かに生きる
「やはり、ここにおられたのですか」
宗志の後ろからそんな事を言う紫峨の声がした。月明かりに照らされたその場所に彼の声がやけに大きく響く。
だが宗志は振り返らない。紫峨はそんな彼の背中に語りかける。
「宗志様はこの場所がお気に入りでしたね。だいたい宗志様が居なくなってしまった時は、この場所に来れば見つける事ができた」
しみじみと紫峨は感慨深い眼差しを向ける。その眼差しに応えるかのように、ちらりと宗志は振り返った。
紫峨は額を中指で掻く。宗志は彼へと向けた視線をまた前に戻してしまう。だが彼は構わず宗志の背中に言葉をかけた。
「宗志様、帰りましょう。篠本国へ。結羽家へ。紫様も宗志様に会いたがっておりますぞ」
「爺さん、あんたにゃ俺は殺せねぇだろ」
静かに宗志はそう言って紫峨に向き直った。紫峨は既に刀を抜いており宗志に剣先を向けている。だがその刀を握る節くれだった手は痙攣しているかの様に震えてしまっていた。
「あの女だろ。あんたに俺を殺るよう命じたのは。……六代目篠本国城主の実の娘、結羽紫」
「そんなことは……紫様は……宗志様に会い――」
「爺さん。あんた変わらないのな。嘘を吐く時、中指で額を掻く癖」
「……!」
右手の中指で額を掻いていた紫峨は、はっとして手を下ろした。そして力なく刀を落とし、そのまま崩れる様に座り込んでしまう。宗志はため息をついた。
「あんたはいつもそうだったな。俺が餓鬼の頃、大人になりゃ月に手が届くのか訊いた時も。大人になりゃ寝なくても平気になるのか訊いた時も。……大人になりゃ普通の人間になれるか訊いた時も、な」
「……そんなことも、ありましたね」
「生憎、今でも月に手は届かねぇし、今でも寝ないと体はもたねぇ。……今でも普通の人間なんぞから程遠い化けもんだ」
自虐的な笑みを宗志は浮かべた。紫峨は頭を垂れて何も言葉を発しようとはしない。
宗志の頬を撫でるかのような風が吹く。彼は擽ったそうに目を細める。だがその顔には自虐的な笑みが浮かべられたままだった。
静かな時間が流れる。紫峨は干からびた唇を微かに動かした。
「……殺さないのですか」
「あんたをか?」
「……私が行おうとしたことは謀反です。覚悟は出来ております」
小さいがはっきりとした声で紫峨はそう言った。宗志はめんどくさそうに首を回し頭を掻く。
「何度も言わんせんな。俺はもう結羽家の人間じゃねぇ。だから謀反でもなんでもねぇだろうが。それに、しけた面した野郎を殺るほど血にも飢えちゃいねぇよ」
「ですが――」
「言っておくが切腹もなしだ。年寄りが悶え死ぬ様なんか見ちまったら目覚めが悪りぃ」
紫峨はすみません、と掠れた声で漏らす。宗志は大きな溜め息をついた後、穏やかな声で独り言の様に言った。
「……あんたに首をやるのは悪くねぇと思う」
「……」
「だがちっとだけ待ってくれねぇか。……ハクが根っこ生やせる場所見つけるまで」
頭を垂れたまま紫峨は宗志の顔を見ることが出来なかった。宗志はぼんやりと光る月を眩しそうに見上げる。
「あの女、紫にはしくじったとでも言っておけ」
「宗志様……」
「爺さん、あんたはせいぜい長生きするこった」
そう最後に言い残し、宗志は黒々とした翼をはためかせ飛び去った。紫峨は地べたに座り込んだまま立ち上がろうとはしない。彼は宗志が飛んで行った方向をいつまでも見つめていたのだった。
月が怪しく光る夜。見晴らしの良い高台に陣幕が貼られている。その中央に堂々と座する華奢な男――いや、女が居た。彼女は赤い甲冑を着込んでいる。そして黒い長い髪は真ん中で分けられ、一本に結われている。その顔つきは凛々しく、その切れ長な瞳は獣の様な輝きを放っていた。
そんな彼女の前には童顔の侍が一人、跪いている。髪は黒く癖の強い髪質なのか、強く波打っていた。そして彼は金色の装飾が施された黒い甲冑を着込んでいる。彼の右目には包帯が巻かれており、その緑がかった黒い瞳は顔つきに似合わない蛇の眼光と似たものを秘めていた。彼は深々と頭を下げたまま口を開く。
「紫様、進軍は順調でございます」
「そうか。まあ当然であろう。我が軍に敵などいないも同然であるからな」
「左様でございます。もはや天下統一も夢ではございません」
「顔を上げよ、宮塚。これも主のお掛けだ。礼を言うぞ」
紫の言葉に宮塚と呼ばれたその男はゆっくりと顔を上げた。そしてやけに丁寧に言葉を口にする。
「とんでもございません。これも〝例の計画〟を受け入れてくださった聡明な紫様のお手柄でございます」
「謙遜する必要などない。主が〝例の物〟を我に献上しなかったら篠本国はとうの昔に滅んでいたのだからな」
「いえいえ、篠本国が今のように繁栄出来ているのは全て紫様のご英断のお陰でございます。きっと先代もあちらで喜んでいらっしゃる事でしょう」
「……父上も、母上も、喜んでなどおらぬ。草葉の陰で泣いているであろう」
自虐的な笑みを紫は浮かべて、宮塚から視線を外す。そして再び彼に視線を戻した時には自尊心に満ちた表情に戻っていた。
「そうだな、次の戦が終ったら褒美をくれてやる。宮塚、主が望む物は何だ?」
「有り難きお言葉。ですが私めは結羽家に、紫様にお仕えさせて頂く事が至上の幸せなのです。私が望む物は結羽家の永遠の繁栄、そして篠本国の天下統一でございます」
「……相変わらず口が上手い奴だな。まあ、よい。戦が終わるまでに欲しい物でも考えておけ」
口元を吊り上げながら紫はそう言った。宮塚に下がるように言う。彼は一礼をすると立ち上がった。そして陣幕から出ようとした時。紫が彼を呼び止めたのだ。
「ここ最近、爺の姿が見えぬが。爺はどこにいるのだ?」
「……紫峨殿は天狗の首を取りに――」
「今……何と申した?」
「ですから天狗の首を取りにやったのですが」
「貴様、何故爺にそんなことを!」
そう怒鳴り、物凄い勢いで立ち上がった紫は宮塚に詰め寄った。そんな彼女の剣幕に宮塚は微かに眉間に皺を寄せる。
「何か問題でもございましたか? 天狗の首を取るために人を遣れと仰ったのは紫様ではございませんか」
「だから、なぜよりによって爺なのだ! 我は適役を遣れと言ったはずだ!」
「……紫峨殿が適任だと思ったからでございますが。天狗とて人の子。育ての親には隙を見せるはずでございましょう」
「……貴様は何も分かっておらぬ! あの化け物にそんな情などあるわけなかろう!」
今にも掴みかかりそうな勢いで紫はそう吐き捨てると、少しばかり落ち着いた声で続けた。
「なんせあの化け物は平気で生みの親を斬り殺すことができる残忍な奴なのだからな。……許さん許さん許さん! 許せる訳がない! 私から父上と母上を奪い、そして……」
紫は自らの腰に差してある刀にそっと触れた。そして宮塚に鋭い視線を飛ばす。
「宮塚、爺を援護するために軍を割け。そうだな、相川、石原、永倉の三隊を爺の元へと遣れ」
「お言葉ですが紫様。その三隊は我が軍の戦力の要でございます。今は畳み掛けなければ、戦況はどう動くか分かりません」
「だから何だと言うのだ? 爺を見捨てろと貴様は申すのか?」
「そうではございません。ですが、紫峨殿は誇り高き武士、篠本国の結羽家の忠臣でございます。彼が此処に居たのならば紫様のそのような決断に異を唱えるでしょう。私ども家臣にとって、篠本国の繁栄の足枷となることが至上の恥なのですから」
「何ども言わせるな。三隊を爺の元へと遣れ。いいか、貴様に選択肢などないのだ」
宮塚に紫は一方的にそう言った。彼は苛立ちを噛み殺し平静を装い丁寧な口調で言葉を口にする。
「お考えお改め下さいませ、紫様。今は篠本国にとって大切な時期なのでございます。それに紫峨殿も〝例の物〟をお持ちなのでしょう。例え天狗の首を狩ることが出来ずとも、自力で帰還することは容易なはずでは?」
「いい加減にしろ! 貴様は我の家臣である。違うのか? 大人しく言う通りにしろ。いいな!」
そう怒鳴りつけると紫は畳床机に荒々しく座り直した。宮塚は不服そうな顔で立ち尽くしている。そんな彼に紫は苛立たしげに言い放つ。
「宮塚。もし爺に何かあった際には貴様の首は無いと思え」
「……御意」
宮塚は一礼をして陣幕を出て行った。彼が居なくなってから紫は落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返す。そして腰に差した刀をそっと触れ、ぎこちなく撫でる。その刀は彼女にとってどんな宝にも代えられない大切な物だった。
「父上、母上、そして……三浦……。どうか爺をお守りくだされ……!」
紫の悲痛な願いは夜風に掻き消されてしまう。薄雲が月を覆い、ぼんやりとした光が辺りを包んでいたのだった。
その頃、陣を出た宮塚は荒々しく頭を掻きながら歩いていた。そして人気のない場所で足を止め、口を開く。
「高橋、いるんだろ」
木の上から返事が返ってくると同時に、音も無く忍び装束を身にまとった男が宮塚の前に跪いた。宮塚は大きな溜め息をついてから言葉を口にする。
「相川、石原、永倉の三隊に伝令だ。あの老いぼれがいる……確か伊井国の方だ。そこに老いぼれを援護しに向かえ」
「紫峨殿の援護……本当に良いのですか? その三隊は進軍の真っ最中ですので、引き返すことになってしまいますが……」
「しょうがないだろ。あの姫様の命令だ。まったく困ったもんだよ。姫様はジジイ離れが出来てないんだから。あの老いぼれも充分長生きしただろうに。さっさとおっちんでくれないと迷惑なのになあ」
「それで紫峨殿を天狗狩りに……」
「返り討ちにされちまえば良いって思ってたんだけど……姫様にバレちゃって。ったく、姫様も姫様だよ。誰のお陰でここまで来れたと思ってるんだ。ことごとく邪魔だよ、老いぼれも。そして……」
荒々しく舌打ちをすると宮塚は高橋という男に〝行け〟と指示を出す。高橋は返事をすると同時に既に居なくなっていた。
宮塚はにやりと口元を吊り上げる。彼の左目は蛇の様に怪しく光っていた。
「ん……朝……?」
白臣はいつもより気だるい気がする体を起こす。いつの間に眠ってしまったんだろう、と不思議な気持ちで辺りを見回した。
小屋の雨戸は開けられており、そこから溢れんばかりの日の光が差し込んでいる。白臣は部屋の隅に座っている宗志の姿を捉え、安堵の息を漏らした。
「宗志……戻ってたのか。よかった。………あれ、紫峨さんは……?」
「……爺さんなら早朝に出てった。用があるんだと」
「そっか……」
そう返して白臣は他に続けるべき言葉が見つからず、視線をさ迷わせた。紫峨が語った宗志の両親の話を思い出したのだ。
そっとしておくのが一番なのだろう。でも、と白臣は切ない気持ちを押し殺した。宗志には実の姉がいること、帰る場所があること。
(宗志が僕に遠慮してるとしたら。……僕から切り出してあげなきゃ駄目だ)
白臣は独りぼっちになることよりも、宗志の幸せを邪魔することの方が何倍も耐え難く思えていたのだった。彼女は意を決して真剣な眼差しを宗志にぶつける。
「宗志、お姉さんに会わなくていいの……? その……戻らなくていいの……? ……故郷の国が、家があるんだろう……?」
真っ直ぐな白臣の眼差しに、宗志も目を逸らすことなく受け止めた。少しの間そうしていると。彼は苦笑して溜め息をつく。
「……俺には帰る場所なんざねぇよ」
「そんなこと、ないだろう。それに、あんなに紫峨さんだって宗志に会いたいと思ってくれてたんだ。お姉さんだって――」
「確かに、別の意味で会いたがってるかもしれねぇが。……憎くて憎くてたまらねぇだろうな。当たり前ぇだ。……俺はあいつから全て奪っちまったんだから」
「でも……!」
「いいんだ。お前がなに気を揉んでんのか知らねぇが……いいんだ。それともなんだ、俺がお前に気を遣ってるとでも思ってんのか?」
図星をつかれ、白臣は小さく頷いた。宗志は苦笑をすると、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「俺は俺の勝手で生きてる。いちいちお前に気を遣ったりなんかしねぇよ」
でも……、とまだ納得いかないような顔で宗志を見上げる白臣に彼は溜め息をついた。そして少しの沈黙が流れてからふいっと彼は顔を逸らしぶっきらぼうに言葉を紡ぐ。
「……なんというか、悪くねぇと思う。……お前といるの」
「……え? それは、ほんと……? 僕の、その聞き間違いじゃないよね……?」
「ああ」
「もう一度だけ! もう一度だけ大きな声で言って欲しい!」
今にも飛び跳ねそうなほどの白臣の喜びように、宗志は小さく笑うと、うるせぇ、と一言口にする。それでも白臣は零れんばかりの笑顔で彼の顔を覗き込もうとした。それを防ぐかの様に彼はまた別の方向にふいっと顔を向ける。
そんな攻防が続いた後、宗志は白臣の髪の毛をくしゃりと撫でてから立ち上がった。
「近くに湧き水がある。顔でも洗いに行くか」
「うん!」
照れ隠しのように宗志は早口でそう言うと、小屋の戸を開ける。白臣もそんな彼の背中を追いかけたのだった。
それから二人は山を下り、人目を避ける様に獣道を進んで行ったり、人気の少ない村を足早に通り過ぎたりして進んで行った。二人は薩摩の隣にあるという神庫国を目指しつつ、彼にかけられた呪いを解く事が出来る呪陰を探すことにしたのだ。
とは言っても宗志はお尋ね者であり、白臣に至ってはその容姿を目にした途端に敵意を含んだ目を向けられる事が多々あるため、一向に情報は集まらない。せいぜい物陰から高札を見て、情報を収集するしか手立てがなかったからである。そして相変わらず宗志が純血の鬼である龍に付けられた傷は癒えることはなかった。
そんな日が山小屋を出てから一週間と三日経ったある月夜のこと。
「くそ、殺るしかねぇか」
「早まっちゃ駄目だ。……話せば分かってくれるかもしれない、だろう」
そうは言いながらも白臣の言葉は自信なさげだった。
二人はとある小さな村を通り抜けようとしていたのだった。その村を通り抜ける事が出来れば、一週間は確実に時間を短縮することが出来るからである。それに月が出てるとはいえ夜になれば宗志の顔はある程度は隠れ、白臣の髪や目の色も昼間程は目立たないと二人は踏んでいたのだ。
だが運が悪いことに、幼子が家の戸の隙間から二人の姿を捉えたのである。そして泣きながら〝妖怪が来た〟大声で騒ぎ始めたのだ。
静かな夜にその幼子の泣き声と騒ぎ声は小さな町の端の方まで届くのには充分な程で、たちまち人々はそれぞれ武器を持ち二人を取り囲んだのである。
殺気立った人々を睨みつけ宗志は隣にいる白臣にちらっと目をやった。
「話して分かる面じゃねぇだろ」
「……そうだけど」
口篭ってしまった白臣に、宗志は溜め息をついた。そして気だるそうに口を開く。
「……逃げるぞ。上に」
そう言うと同時に宗志の背から黒々とした立派な翼が生えたのだ。その姿を見た村人からは悲鳴や興奮した怒声が聞こえてくる。彼はそれを気にする素振りもなく、白臣を抱えようとした、その時だ。
「……ッ……!」
「宗志!」
宗志の翼の羽根が一つ、また一つと抜け落ちたかと思うと、まるで暴風に蹂躙されている桜の様にバラバラと抜け始めたのだ。そして瞬く間に一つ残らず抜け落ちてしまったのである。宗志は焼けるような痛みに顔を歪める。そんな彼の顔を白臣は心配そうに覗き込んでから、視線を翼の方にやった。
羽根が完全に抜け落ちてしまった宗志の翼は赤黒い煙、まるで血の色をした煙を上げていたのだ。そして彼の背から落ちてしまったのだった。それは地面に落ちてしまってからも、赤黒い煙を上げ続けている。
その煙が消えてしまう頃。翼や抜け落ちた羽根は跡形も無くなっていた。
白臣は訳が分からず、何時にも増して青白い宗志の顔を心配そうに見上げる。
「宗志、今のは……?」
「俺にも、分からねぇ」
「体の具合は? 痛くない?」
「ああ。今は問題ねぇ」
だが、と宗志は周りに鋭い視線を飛ばした。村人達の興奮は頂点に達し、今にも向かってきそうな勢いである。話し合える状況ではない、と白臣も判断し刀に手を掛けた時だ。
柏手が打つ音が丁度三回、夜空に響き渡ったのである。興奮していた村人達ははっと我に返ったように静まり、そろそろと左右に別れた。そして人々の間から一人の女が出てきたのだ。彼女は堂々とした足取りで二人に近付いて来くる。そして彼女はのんびりとした口調で言った。
「あんた達よく来たねぇ。こんな辺鄙な村にさ」
「村長様! こんな時間にお出かけなさるなどお身体に障ります! 早くお戻りに――」
「お前達がこんな時間に騒いでいるからだろう。それになんだい、よってたかって。この子達は私の客人さ。さっさと物騒なもんしまって家に戻んな」
状況が理解できない白臣達ではあったが、ここは話を合わせた方が良いと判断する。村人達は二人とその村長と呼ばれた女に平謝りをして、ぞろぞろと家に戻って行った。
そして村人が全員家に戻ったのを確認してから、その女は言葉を口にする。
「付いて来な。たいしてもてなせやしないけど寝床ぐらいは用意できるよ」




