【第四十一話】無表情の夜
結局宗志はその老人に小屋へ入るよう無言で促した。流石の白臣もこの雨の中、びしょ濡れの老人を追い出すような真似はせず、彼が囲炉裏の火に当たる事が出来るように場所を譲る。だが白臣の顔は不信感が露骨に表れていた。
老人は苦笑しながら礼を言うと刀を腰から外し、座って囲炉裏の火に当たる。
「まさかこんな所でまた宗志様に会えるなんて……! 申し遅れました。私は代々結羽家に仕えさせていただいている、紫峨治雅と申します。貴方は……?」
紫峨はそう言って白臣へと視線を向ける。彼女は固く唇を結んでいたが、藤生白臣、とぽつりと呟くように答えた。
そんな白臣の反応に紫峨は苦笑いをしてから宗志へと向き直る。そして姿勢を正したかと思うと、深々と頭を下げたのだ。埃がうっすらと積もった床に頭がついてしまっている。
「宗志様……! 貴方にお会いしてまず謝りたかったのです……! 分かっております、謝って済む話ではないことなど。ですが、ですが……! この爺めは貴方に謝りたかった。許して欲しいなんて爪の先程も申すつもりはございません、ですが――」
「もういい。爺さんとっとと顔上げろ。それと宗志様だなんて呼ぶ必要はねぇ。……俺はもうあんたが仕えている結羽家の人間じゃねぇんだから」
「いいえ、宗志様がいくらいいと仰っても爺めは謝るのを辞めるつもりはございません……! これは無月様、そして弥生様の遺言でもあるのですから……!」
紫峨はまだ頭を下げたままである。両親の名をだされた時、宗志の顔が引き攣ったのを白臣は見逃さなかった。そして何も言わない彼の代わりに白臣が冷たい声で口にする。
「遺言ってどういうことですか? そもそも実の子供を手放すことを決めたのは、その人達なんでしょう……! 貴方の言う通りです。謝って済む話なんかじゃない!」
「分かっております。でも……無月様、弥生様だって断腸の思いで――」
「断腸の思い? だから何なんですか? 実の子供を手放したことには変わりないでしょう! どんな仕打ちを宗志が――」
「貴方に! 貴方に何が分かるんですか!」
突然、白臣の言葉を紫峨が叫ぶように遮ったのだ。それでも彼女は拒否感を露にして紫峨に鋭い視線で睨みつけた。それとは逆に紫峨は大きな声を出してしまったことを恥じるかのように小さくなってしまう。
重苦しい空気が流れる中、今まで黙っていた宗志が呟くように、顔を上げろと呟いた。その言葉から少し間を置いて紫峨はゆっくりと顔を上げる。それでも目は申し訳なさそうに伏せたままだった。
「藤生殿、貴方がそう仰るのももっともです。でもこれだけは宗志様に知ってて頂きたいのです。無月様は、弥生様は、宗志様を愛しておられました。宗志様を見世物小屋に渡してからもずっとです」
「……じゃあ、どうして……」
「……結羽家が治める篠本国は戦をせず、農耕、そして商いで国を繁栄させておりました。それは二代目のご意向で、代々結羽家当主はそれを守り国を治めてきたのです。この戦国の世、他国を武力で制圧し国を繁栄させていく国々の中で篠本国は異端でした」
そこで紫峨は言葉を切った。そして一呼吸置いて再び口を開く。
「あの頃……いや、現在もですが……篠本国は平和な国でした。戦をすることで一番被害を受けてしまうのは民です。か弱き女子供です。民無しでは国は成り立たぬというのが宗志様の父上様である無月様の口癖でした。しかし、そんな篠本国の平和を揺るがす事が起きてしまったのです」
「……それは……?」
「当時強大な勢力を誇示していた近隣の国、橋本国という国がございました。……今はもう滅んでしまいましたが。篠本国は橋本国に毎年一定の量の判金や米俵を納める代わりに、橋本国は篠本国には手を出さないという協定を結んでおりました。その協定は数百年代々守られてきたのですが……」
その当時のことを思い出したのか、紫峨は顔を歪めた。顔じゅうにある皺が更に深く刻まれる。
「橋本国は篠本国に今までの三倍の量の判金と米俵を納めるよう迫ってきたのです。今までの量でも篠本国にとっては民が困窮しないぎりぎりの量でございました。三倍となると、篠本国の民は年貢のせいで餓え、そして死んでしまうでしょう。ですが、橋本国は二年の猶予を与えてくれるとも申してきました。ただし、人質を差し出しすのが条件で。……長男である宗志様を、そして宗志様の姉上様である紫様を」
自分の名前が出た時も、宗志は無表情で囲炉裏の火を見つめている。白臣はいつにも増して無表情な彼の顔を盗み見て胸がきゅっと痛むのを感じていた。
紫峨は嗄れた声を絞り出して話を続ける。
「恐らく、その猶予期間内に指定された判金や米俵を用意出来なければ、人質に取られた宗志様や紫様は殺されてしまうでしょう。もともと篠本国を治める結羽家と橋本家を治める佐久間家は血縁が深いため、このような問題が起こるなど想定はしておりませんでした。ですが時代も時代です。血縁よりも目先の利益に目が眩んでしまったのでしょう」
「……それで……?」
「無月様は悩みました。橋本国と戦をしても勝ち目はありません。家臣の中には最後まで戦い抜き滅びるのもよしとする意見もございました。ですが無月様は国を、家臣を、そして民を守る選択をなさることを諦めようとはしなかったのです」
当時のことを思い出したのか、紫峨は悔いるように拳を固く握る。
「そんな時、とある商人が篠本国を訪れたのです。名は確か樹助といいました。その男は無月様の前にいくつもの大きな葛篭箱を運び込んできて見せたのです。その葛篭箱の中には判金がぎっしり詰め込まれていました。その男は無月様に宗志様を見世物小屋に預けてみてはと持ちかけてきたのです」
「それで宗志を……!」
「……藤生殿、貴方には言い訳にしか聞こえないのでしょうが、その時はまだ見世物小屋というのは数少なく、どのような場所であるか篠本国の人間は知らなかった。男は宗志様を見世物小屋に預けるのならば、橋本国から要求された量の判金を貸し出してやると申したのです」
「……だからって……」
「男は無月様に宗志様はただ毎晩、少しばかり舞台に上がるだけでいいと申してきました。橋本国の人質となり命の危険に晒されてしまうよりは見世物小屋に預けてしまうのが賢明では、と何度も何度も申してきたのです」
そこで紫峨は言葉を切った。そして嗄れた声で再び続ける。
「無月様と篠本国の重臣が一晩寝ずに話し合った結果、やはりそれしか戦を避ける方法はございませんでした。……ただ、これだけは断言できます。宗志様があんな目に合うことが分かっていたのなら、無月様はこんな選択をなさらなかった」
「……じゃあ……なんであの夜、あの人達は、見世物小屋にいたんだよ……?」
今まで一言も言葉を発しなかった宗志が、絞り出すような声でそう言った。
あの夜というのが、宗志が堂林に連れ出されて見世物小屋から出た日であること、そしてあの人達というのが両親を指していることを白臣は察して、思わず唇を噛む。嫌な予感がしたのだ。
紫峨は視線をさ迷わせ、口を開いて何か言おうとしては、すぐに口を閉じるを繰り返している。そして暫くしてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「無月様は宗志様を見世物小屋に渡してから、死にものぐるいで判金をかき集めました。かつての無月様では考えられない程の汚いこともなさっていたのも事実です。そして最後には城まで手放してしまわれた。〝城無し大名〟と周りから揶揄されても、家臣が離れていっても無月様は、私達は宗志様を連れ戻すために必死だった」
「だから……! なんであの人達は見世物小屋にいたんだよ……!」
「……あの夜、商人の男から借りた量の判金を用意する事が出来た日なのです。私達、家臣が行けば良かったのに……無月様と弥生様はすぐにでも宗志様にお会いしたかったのでしょう……」
思わず声が出てしまいそうになるのを白臣はなんとか堪えた。心臓を鷲掴みされたような感覚。苦しさに彼女には息を漏らすことしかできなかった。
紫峨は声を震わせて話続ける。
「実は無月様と弥生様は、あの夜の次の晩に亡くなりました。うわ言の様に何度も何度も宗志様に謝っておられました。そして、〝罰が当たったのだ〟とも仰っておりました」
苦しそうに顔を歪めながら紫峨は一気にそう言うと、固く口を閉ざしてしまった。三人を押しつぶす様な沈黙が小屋に流れる。薪が燃える音しか聞こえない。雨はどうやら既に止んでしまっているようだ。
そんな永遠に続いてしまうのではないかと思えてしまうほどの沈黙の中、宗志はふらりと音も無く立ち上がった。そこで初めて白臣は彼へと視線を向ける。彼の顔は面をつけているかのように無表情だった。
「宗志……!」
出ていこうとする宗志を追いかけようと白臣も立ち上がろうとした、が。酷く落ち着いた彼の声に白臣は制止されてしまう。
「……朝には戻る」
「僕も行く……!」
「……悪りぃ」
立ち上がり手を伸ばした白臣を振り切る様に、宗志は戸を開けると同時に飛び立ってしまった。黒い翼が夜の闇を切るように彼は高く登っていき、そして見えなくなる。
白臣は宗志が見えなくなってからも暫く戸口に立っていた。そして伸ばしかけた手を力なく下ろす。悄然として元いた場所に戻ると、そのまま崩れる様にしゃがみこんだ。
開いたままの戸からは少し肌寒い夜風が流れ込んでくる。
「……なんで、なんで……宗志がこんな思いしなきゃならないんでしょうか……」
その問いに答えなどないことなど白臣にも分かってはいたが、そう尋ねずにはいられなかったのだ。紫峨は節くれだった右手で震える左手を握り、静かに口を開いた。
「……私も幾度となく考えてきました。無月様、弥生様、姉君の紫様が、そして宗志様が何をなさったというのでしょう。こんな仕打ちをされてしまう程、天に仇をなしたとでもいうのでしょうか、と……」
「……宗志は愛されていたんですよね……? その……ご両親に……」
「はい。断言できます。無月様、弥生様は宗志様を愛しておられました」
言葉に出来ない激しい感情の渦が白臣を内側から飲み込んで行く。息苦しい。そして何も出来ない自分にただただ悔しかった。
紫峨はそんな白臣の様子に、少しばかり穏やかな声音で言葉を口にする。
「……ただ、貴方のような人が宗志様の隣にいてくれて良かった」
「え……?」
「貴方は宗志様のために笑ったり、怒ったり、苦しんだり、本気で宗志様の事を想ってくれているでしょう」
穏やかに紫峨はそう言った。白臣は自分の拳を固く握って口を開く。
「でも僕は宗志のために何もしてあげられていません。気の利いたことも言えてないし、宗志が抱えてるものを軽くすることも……出来てません」
「そうでしょうか。私は藤生殿とお会いしてからまだそう時間は経っておりませんが、これだけは分かります。貴方が思っている以上に宗志様は貴方から多くのモノを貰っているのではないか、と」
よく分からないとでも言うかの様に首を傾げる白臣に、紫峨は静かに微笑んだ。その目はもう自分を映していないように彼女には思えた。紫峨はやわらかな慈しみが篭った目をしている。幼き頃の宗志の姿が見えているかの様だった。
「……実は宗志様が結羽家を出てから、私が宗志様とお会いするのは二度目なのです」
「え……?」
「お会いしたというのは語弊がありますね。見かけた、と言うべきでしょうか。……その時の宗志様は別人だった。私の知っている宗志様の面影がなかったのです。宗志様にお会いして謝りたいと常々悲願しておりましたのに、恐怖で体が動きませんでした。情けない話です」
でも、と紫峨は言葉を続けた。
「今日お会いした宗志様は私の知っている宗志様でした。藤生殿、貴方のお陰なのでしょう?」
「そんな……僕はなにも……。今だって……」
今何を宗志は想い考えているのだろう、と白臣は胸を押さえて顔を歪めた。自分のことを責めているんじゃないだろうか、そう思うと彼女の胸は痛みだす。様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
白臣は宗志を一人にしてしまっている自分が、彼に何も出来ない自分が、憎く、悲しく、そして悔しかったのだった。
そんな白臣に紫峨は穏やかな眼差しを向ける。
「宗志様は優しい方です。藤生殿、私から貴方にお願いをするなど烏滸がましいこと、百も承知。ですが、どうか宗志様を一人にしないであげてください」
「……紫峨さん、貴方のお気持ちは分かります。でも違うんです。僕が宗志の隣にいてあげてるんじゃなくて、宗志が僕の隣にいてくれてるんです。……宗志は優しいから」
静かに白臣はそう口にした。そして小さく微笑んでから、また言葉を続ける。
「僕は天涯孤独の身です。頼れる人なんていません、いや、いませんでした。今、僕が繋がりを持っている人達とは宗志のお陰で出会うことができたんです」
「藤生殿……」
「独りぼっちが当たり前だったのに。今じゃ一人で夜眠るのも怖くなってしまうんです。……変な話ですよね。だけど……宗志にはお姉さんがいるんでしょう? 帰る家があるのでしょう? 僕といるよりずっとそっちのほうが幸せなんじゃないですか」
「……私には分かりません。宗志様の幸せが何処にあるかなんて……」
「僕にも分かりません。でも……お姉さんだって宗志に会いたいと思ってるんじゃないのですか。宗志だって……やっぱり会いたいと思ってるんじゃないでしょうか。……一緒にいたいと思ってるんじゃないでしょうか」
白臣は声が震えてしまわないように、出来るだけ明るくそう言った。
もしも、宗志に帰る場所があるのなら。彼に生きたいと思わせてくれる場所があるのなら。彼を幸せにしてくれる人がいるのなら。その場所に自分がいなかったとしても。白臣は彼に生きていて欲しかったのだ。生きたいと思って欲しかったのだ。
紫峨は、はっと我に返ったような顔をして額を中指で掻いた。
「……会いたがっております。姉君の紫様は」
その言葉を聞いた途端、何が起こったのか理解できぬまま白臣は意識を手放した。ぐったりと倒れてしまった彼女に紫峨は申し訳なさそうな顔をする。そして立ち上がると彼女の首に刺さった毒針をそっと抜き取った。その針には睡眠毒が塗られていたのである。
「……すみません、藤生殿。……私は……どうしたら良いのでしょうか……」
苦悩に顔を歪めた紫峨は、ぽつりとそう呟いた。眠りに落ちた白臣が答える訳もないのに、紫峨は縋る様に尋ねてしまったのだ。
「会いたがっております。姉君の紫様は。……宗志様の首に」
そう言葉を吐き出すように言うと、節くれだった手を固く握り締め紫峨は小屋の外に出る。そして空を見上げながら指笛を吹いた。高い音が夜の闇を裂くように響き渡る。すると暫くして大きな羽音がどんどん大きくなる。何かが近づいているのだ。
「……行くしかないのでしょう。宗志様の元へ」
紫峨の目の前に降り立ったのは巨大な鴉を思わせる妖怪だったのだ。その鴉の翼を何度か撫でてから紫峨はそれに飛び乗る。そして小屋を後にしたのだった。




