【第三十五話】冥土の屍
そしてようやく二人は重々しい扉の前に辿りつく。運良く門番らしき鬼二人は固く瞼を閉じて深い眠りについている様である。鳥野はその鬼の腰に紐でくくりつけられている鍵の束を取ると、一つ一つそれを鍵穴にさし始めた。そして九本目の鍵をさし込んだ時。がちゃりと音がしたのだ。
二人は顔を見合わせて頷いてから、同時にその厳重な扉を押す。すると音を立ててその分厚い扉は開き、地下へと続く階段が現れた。光が射し込んでいるにも関わらず、その奥は深い闇に包まれている。
鳥野は辺りに落ちている丁度良い太さと長さの木の枝を拾うと、それを白臣に持ってもらう。そして懐に鍵の束を仕舞ってから火打石と火打ち金、麻紐をほぐして作った火口をを取り出す。火口を地面に置くと彼女はしゃがみこんで火打石と火打ち金を思いっきり打ちつけ火花をおこす。
そして火口に火がついたのを確認すると白臣が持っていた木の枝に火を移し、ちょっとした松明を作ったのだ。
「行くわよ、ハクちゃん」
「はい!」
鳥野が先に入り、その後ろを白臣が続いた。石段を降りる二人の足音がやけに響く。入口から射し込む光がどんどん遠くなっていく。松明の灯りだけが頼りだった。
そして階段を降りきると通路が続いている。そしてその通路の左脇には牢獄が連なっている様だ。そこは悪臭と蝿の不愉快な羽音で充満していた。
松明の灯りで鳥野が牢獄を照らすと、白骨化した死体や腐りかけて蝿と蛆が湧いている死体がごろごろ放置されているのが見える。彼女は顔を顰め、白臣は思わず顔を逸らした。
それでもそこを足早に通り過ぎるわけにはいかないため、二人は一つ一つ牢屋の中を確認し歩いていく。松明の火に蝿が集まり、時折それに飛び込む蝿が燃える様が見えた。
蝿を払いながら二人が歩いていると、ふと鳥野が足を止めた。それに合わせて白臣も足を止める。そして鳥野の視線の先にある牢獄を見て、彼女は言葉を失った。
その頃、宗志と時雨は行く手を阻む敵を斬り倒し、薙ぎ倒しながら階段を駆け上がっていた。最上階である四階を目指していたのである。そしてそこには葉川彗と龍がいるのだ。
重なる様にして一気に押し寄せた敵を二人が斬り倒した時だった。時雨が叫んだのだ。
「宗志、後ろだ――!」
数十段下には横に一列になり弓矢を構えた鬼。そして一斉に矢が放たれた。それを二人は左右に躱しながら駆け上がり続ける。
三階まであと少しという時。突如二人を囲む様に天井裏に忍び込んでいた鬼達が現れたのだ。
「くそッ、どっから湧いてくるんだ!」
「そう簡単には彗と龍には会わせてはくれぬということか」
二人を囲む鬼達。殺気が充満し張り詰めた空気が流れている。だが、なかなか鬼達は斬りかかってはこない。痺れを切らして自分から仕掛けようと宗志が刀を握る手に力を込めた時だ。時雨が呟く様に言った。
「宗志、よく聞け」
「なんだ、こんな時に!」
「クナイが降るぞ。あと三秒後に」
咄嗟に宗志が上を向く。すると天井が開いたのだ。そしてそれとほぼ同時。数え切れない量のクナイが降り注いだのだ。
「――ッ!」
それを宗志は刀で、時雨は槍で。全てのクナイを弾き飛ばしていく。金属と金属がぶつかる高い音が途切れずに響く。
少しでも隙があればそれは確実に死に直結した。二人は全身の神経に意識を集中させる。少しの遅れが命取りなのだ。二人は降り注ぐクナイを弾き続けた。
そしてやっと。クナイの雨が止んだ時、二人は大きく肩で息をしていた。それでもいつ斬りかかられても反応出来るように、刀を槍を構えたままで立っている。二人の周りの床にはびっしりとクナイが刺さっていた。
宗志は気だるそうに首を回し敵を見据える。
「……時雨、もうちょい、早く……言え」
「……すまん。だが、三秒前に、気づいた……ことを褒めて、欲しいぐらい、なんだが……な」
そこで時雨は言葉を切り、呼吸を整えるために大きく息を吸って吐いた。そしてある程度落ち着いたところで言葉を続ける。
「視野が広いとて、全ての視界に意識を回していたら目の前の敵にばっさり殺られてしまうからな。それより宗志、大丈夫か。腕から血が出てるぞ」
「……蚊に刺されただけだ。最近の蚊は巨大化してんの知らねぇのか。これだから馬鹿な奴は。んなことよりお前。手に何かぶ刺さってるぞ」
「……これはお洒落だ。巷で流行っているの知らぬのか。これだから無粋な奴は」
そう軽口をたたいて、時雨は手の甲に刺さっていたクナイを抜くと投げ捨てた。
「刺しとけよ。〝お洒落〟なんだろ」
「これから無粋極まる鬼の大将と会うのでな。どうせ都の流行りも、こんな人里離れた、まさに深山幽谷な場所に篭った田舎者の大将さんには理解出来まい」
そして二人が完全に息が整った時には、二人を囲む鬼の数は更に増えていた。普通なら体力を消耗したところを畳み掛けるものだが、どうやら数が揃ってから一気に仕掛けるつもりだったらしい。
一触即発の空気が流れた時。二人はにやりと口元を吊り上げた。
そして、鬼達は一斉に斬りかかってきたのだ。飛び掛ってくる鬼を一人、また一人と宗志は斬り捨てていく。時雨は迫る鬼を一人、また一人と容赦なく貫いていく。
その時。宗志の死角から鬼が斬り掛かった。すぐに体を向けるが。刃先はもう目の前に迫っている。
しかし、その刃は宗志に届くことはなかった。時雨が宗志の肩越しにその鬼を刺し殺したのだ。槍
引き抜くと鬼は首から血を吹き出した。そして倒れてしまう。
時雨の後ろから斬り掛かる鬼。それを彼はすぐに察知する。そして斬り倒す。鬼の攻撃を躱し斬り伏せながら彼は宗志に声を掛けた。
「これでおあいこだな」
「ん」
そう反応しながら宗志は刀を振り下ろす。だが二刀流の鬼はそれを受け止めた。火花が散る。鍔迫り合いになる寸前。彼は鬼を蹴り飛ばす。
その鬼は何人かの仲間を巻き込み転がり落ちていった。
時雨は槍を回しながら敵を斬る。そして床に刺さっている二本のクナイを引き抜く。それを頭上から飛び掛ってきた鬼に投擲。鬼は時雨の足元に崩れ落ちた。クナイは急所に深く刺さっている。
その時だ。息を飲むほどの殺気。背筋がぞくりと反応するほどの殺気。重石がのしかかる様な圧迫。
「上だ! 宗志――ッ!」
「――ッ!」
天井裏に潜んでいた鬼が飛び降りながら斬り掛かってきたのだ。宗志は反射的に受け止める。
だが、相手は他の鬼とは違った。宗志は顔を顰める。力が段違いに相手の方が強い。彼の筋肉が悲鳴を上げる。宗志の足元の木の階段に罅が入った。かと思うと、階段に足がめり込み始める。
そしてふと振り下ろそうとする刀の力が緩んだ。しかし。宗志の左脇腹に激痛が走る。そしてそれと同時に壁に叩きつけられていた。蹴り飛ばされたのだ。彼の口からは血が噴き出す。
宗志は咄嗟に守勢を取る。しかし天井裏から飛び降りた鬼も周りの他の鬼達も誰一人攻撃を畳掛けようとしなかった。
宗志を蹴り飛ばしたその鬼は茶褐色の絹の様な髪を背中まで伸ばしている。赤い艶やかな着物を着て、その上に黒い羽織を羽織っていた。その肘の部分には金色の紋章がある。そして頭部から立派な灰色がかった角が生えていた。涼しい目元が印象的な品のある顔立ちである。
宗志はその紋章を何処かで見たような気がして、眉間に皺が寄せた。その鬼は長い髪を耳に掛け、赤い瞳を宗志へと向けて、そして時雨へと向ける。
「ようこそ。ボク達のお城へ」
「龍さん! 貴方の出る幕ではありせん!」
周りにいた鬼の一人がそう進言した。宗志の目の前に立つ男、それは蝉を牛耳る兄弟の弟である葉川龍だったのだ。
龍は涼しい目元を伏せて大きな溜め息をついて口を開く。
「ボクもそう思ったんだけどさぁ。兄上が行けてって言うから。まあ、これ以上ボク達のお城滅茶苦茶にされても困るからねぇ」
長い髪を指でくるくると弄びながら龍はそう言った。そして周りにいる鬼達を見回して手を叩く。乾いた音が響いた。
「はーい、みんな持ち場に戻って。ここはボクが掃除するから」
周りの鬼達はその言葉の通りにすぐには動こうとしなかったが、互いに顔を見合わせてから、それぞれの持ち場に帰っていった。残されたのは肉片と鬼の屍だけである。
鬼達がいなくなったのを確認すると、龍は鋭い視線を宗志、そして時雨へと向けた。
「さーて、掃除でもするとしようか。ボク美しくないのは許せないんだ。人間の汚い血が混ざった汚らしい奴は特別にさぁあああああ!」
そう言うや否や。龍は宗志との距離を一気に詰めていた。真横に宗志を両断しようと振られた刀。それを宗志は寸前のところで刀で受ける。火花が散り押し合いが続く。宗志は腕の力を抜かずに叫んだ。
「時雨――ッ! こいつは俺が殺る! お前は上に行けぇえええ!」
「おっと、そんなことさせたら兄上に叱られる」
龍は刀で押し斬ろうとする力を緩めないまま。宗志に膝蹴りをしたのだ。彼は血を噴き出す。それでも彼は腕の力を緩めない。
少し驚いた様に龍はすっと目を開いた。そして彼は押し斬ろうとする腕の力を抜いたのだ。それとほぼ同時に回し蹴をする。
それは宗志の右横腹に撃ち込まれる。彼の体は簡単に吹っ飛ばされ階段を転がり落ちていった。
そして龍は階段を一瞬で飛び上がる。そして四階を目指して駆け上がっている時雨の目の前に立ち塞がった。そして時雨に斬り掛かろうとするが。
龍の刀を受け止めたのは宗志だった。二人の間に瞬時に入ったのである。
「てめぇの相手はこの俺だ! 余所見してると首落とすぜ、鬼さんよお。……時雨、さっさと行け」
「……頼んだぞ」
そう言って時雨は駆け上がっていった。龍は苦虫を噛み潰した様な顔をして溜め息をつく。そしてすっと間合いをとると宗志に背を向けて階段を降りて行ってしまう。
「階段って掃除するの大変なんだよねぇ。三階に物置があるからそこで始末してあげよう。付いて来て」
すたすたと龍は三階に下りて歩いていく。宗志はその背中に刀を振り下ろした。しかし、それは簡単に受け止められてしまう。龍は鍔迫り合いをしながら忌々しそうな顔をする。
「本当に美しくない。背中を斬りかかるなんて」
「悪りぃな、これが俺の殺り方だ」
「流儀を語っていいのは強者だけだって知らないのかい? 無理も無いか、出来損ないだもんねぇ!」
龍は腕に更に力を込めた。じりじりと宗志は後ずさってしまう。鍔迫り合いをした状態で二人は廊下に出る。
そして二人は同時に間合いを切る。そして再び床を蹴ると何度も切り結ぶ。金属と金属がぶつかる高い音が響く。
その時。刀を振り下ろす宗志の腕が止まった。宗志の刀を龍は人差し指と中指で挟んで受け止めたのだ。宗志は押し斬ろうと力を込める。
しかし、刀はぴくりとも動かない。そんな宗志に龍の刀が迫る。
背に腹は変えられない。宗志は刀を離すと間合いを切ろうとする。
しかし、そこを龍は矢継ぎ早に攻撃する。宗志が脇差を抜く間を与えない。
そしてすれすれで刀を躱した宗志の無防備な腹。そこに龍の蹴りが撃ち込まれる。
吹き飛ばされる宗志の体。廊下に転がった宗志に間髪を入れず龍はのしかかる様に顔を突き刺す。
だが、宗志は間一髪首を傾けて躱す。刀は床に突き刺さる。
龍は刀を引き抜こうとした。しかしそれを宗志は許さない。床に突き刺さった刀を両手で掴み抜けないよう押さえた。彼の手から血が流れる。
龍は荒々しく舌打ちをした。そして宗志の腹を踏みつけたのだ。
「ぐ……は……ッ……」
「美しくない! 実に美しくない! 醜い……醜いんだよ……!」
言葉に合わせるかのように龍は宗志の腹を何度も踏みつけた。その度に彼の口からは血が噴き出す。それでも刀を握る手は緩めない。
「諦めが悪いねぇ。ボク掃除は手早く済ませたいんだけどな。さっさと死ねよ、ごみが」
「言っておくが……死ぬのはてめぇだ」
「……ッ!」
一瞬だった。宗志が龍の手首を掴みぐっと引っ張ったのだ。龍は体勢を崩し前のめりになる。
宗志はその龍の身左頬に拳を撃ち込んだ。彼の体は右に吹き飛ばされる。そして襖を押し倒し部屋に転がり込んでしまう。
その隙に床に突き刺さった龍の刀を引き抜く。そして勢い良く床を蹴った。龍に間髪入れずに斬りかかる。
しかし龍は既に体勢を整えてしまっている。両手には、クナイより少し長い程度の太い鉄の杭の様なものを握っていたのだ。
刀と杭が激しくぶつかる。龍の杭の刺突を宗志は捌いていく。
互角の様にも見えたが、やはり刀の方が長いため宗志の方が有利だ。目に見えて龍に傷が増えていく。血が飛び散り畳に染みを作る。
宗志は身を翻した。そして渾身の突きを放つ。肉を裂く感覚。
宗志の刀は龍の体を貫く……はずであった。刀は彼の体を貫く前に止まってしまったのだ。宗志は手に力を込めるが、これ以上刀は動かなかった。引き抜くことも出来ない。
「すごい驚いているようだねぇ。ボクの肉体美がなせる技だよ……!」
その時、宗志は足を払われた。不意をつかれ彼は体勢を崩してしまう。その隙を龍は逃さない。
鉄の杭が宗志の左肩の付け根、右腿に突き刺さったのだ。彼は痛みで顔を歪める。刀を握る手が少しばかり緩んでしまう。
そこを龍の後ろ回し蹴りが撃ち込まれる。吹き飛ばされた宗志の体は襖を押し倒し、連なっている隣の部屋に転がった。
龍は自らの体に突き刺さった刀を引き抜き、それを弄びながらゆっくり宗志に近づいてくる。それを宗志は鋭い視線を飛ばしながら立ち上がった。額から流れる血を手の甲で拭う。
そして宗志は突き刺さった鉄の杭を引き抜こうと手をかける、が。抜けないのだ。
龍はそれを見て喉の奥を鳴らす様に笑った。
「抜けないだろう。そりゃそうだ、それには返しがついてる。無理矢理抜くとずたずたに肉が裂けてしまうんだ」
「……だからなんだって言うんだよ。こんなもん、刺しときゃいいだろ」
「それはどうだろうねぇ?」
意味深に笑うと龍は指を鳴らした。その時。部屋を裂く様な轟音が響いた。それと同時に宗志の全身に激痛が走る。全身の骨をがりがりと削られている様な痛み。内蔵が溶けてしまいそうなほどの痛み。
その痛みが収まった時。気づけば宗志は膝をついていた。身体からは煙が出ている。
何が起こっているか理解できていない宗志に、龍も不思議そうに目を少し見開いた。
「ん? どうしてだろう。普通は火傷して死んでしまうのだけどなぁ。まあいいだろう。何が起ってるか理解出来たかな?」
「……」
「そういえば、君って何者? 名前ぐらい名乗るものだろう。人の家に遊びに来てるんだからね」
答えない宗志に、龍はやれやれと肩を竦めて見せた。
「何が狙い? こんな勝てない勝負を仕掛けるほど君の頭は悪いのかい? それとも、勝てない勝負を仕掛けるほど欲しい物でもあるの?」
「……団子と酒」
「団子と酒ねぇ。よく分からないけれど、自らの欲求のために馬鹿をやる様な奴、嫌いではないよ。……好きでもないけれど」
龍は薄ら笑い浮かべている。その顔には嫌悪が汚点の様に顔に着く様が見て取れた。宗志はゆっくりと立ち上がる。
恐らく龍という鬼は雷を扱うことが出来るのだろう、と宗志は推測した。あの轟音は間違いなく雷が落ちる時の音によく似ていたのだ。
そしてこの体に刺さっている鉄杭に雷は落ちる様になっているのだろう。
強引にでも抜いてみるか、と宗志は再び杭に手をかけた。しかし少し力を入れて引っ張ってもぴくりとも動かない。これを無理矢理抜くとなると、肉が大きく抉れてしまう可能性が高い。下手すれば筋を傷つけ、雷を防ぐことはできる代わりに斬り合いで大きく不利になってしまう可能性もある。
そんなことを宗志が思案しているうちに。すぐ目の前には刀を振り上げた龍がいたのだった。
時は少しばかり遡る。時雨は階段を駆け上がり、蝉を束ねる兄弟の兄である彗のいる部屋を目指し廊下を駆けていた。立ちはだかる敵を縦に一刀両断する。飛び掛ってきた敵三体にクナイを投擲する。
そして、時雨は一番奥の部屋に辿りついたのだ。彼は勢いを止めることなく、その襖を蹴破り部屋に飛び込んだのである。
そこには弟の龍と同じ茶褐色の髪に灰色がかった角、そして赤い瞳を持つ彗の姿があった。弟と違うところといえば、髪は剛毛なのか外側に好き勝手跳ねており、くすんだ緑色のいわゆる海松色の着流しを着ている。
彗は肘おきに肘を置き、一段高くなった上座にどっしりと胡座をかいていた。時雨の姿を見ても驚きも焦りの色も顔には浮かばない。
「ようこそ、我が城へ。しかし驚いたものだ。龍の奴こんな男を通したのか。まあ、あいつのことだ。どうせ後を追うのが面倒になったのだろうな」
そう一人で彗は納得した。彼は槍を構えている時雨の姿を見ても、相変わらず刀に手を掛けないどころか肘おきに肘をおいたままだ。
時雨は鋭い視線を飛ばしながら感情を押し殺した声で訊ねる。
「理叶殿は、そして妹の瞳子殿はどこにいる? 返答次第では血を流させずに済むが」
「血を流す? 誰がだ? 貴様がか?」
嘲りを含んだ笑みを彗は浮かべた。時雨は無言で彼を睨みつけている。
そして彗は壁にかけてある刀を手に取った。時雨は反射的に身構えたが、彼はその刀を眺める様にじっくりと見つめているだけである。刀を抜こうとする気配はなかった。
時雨は目を凝らしてその刀を見る。見覚えのある物だと思ったのだ。それもそのはず……それは時雨が理叶に与えた刀だったのである。
「返してもらおうか。それは理叶殿にあげた物だ。貴様のような奴にあげた覚えはない」
「理叶の物、だと? 何を言っている。あいつの物は全て俺の、俺達の物だ」
そう言って彗は鼻で笑う。時雨は眉間の皺を深くする。
「そんなに理叶が大事か。分からなくもない。あいつは利用しがいがあるからな。そうだ、冥土の土産にいい〝もの〟をやろう」
彗は意味深に笑うと自らの背後に手を伸ばし、あるものを掴むと時雨の前に放り投げた。
それを時雨はただただ凝視する。事態を理解した途端。殺意が彼を支配した。
一瞬で時雨と彗の距離は無になる。振り下ろした時雨の槍を彗は座ったまま刀で受け止めていた。
「貴、様……」
そう口にするのが時雨には精一杯であったのだ。そんな彼の反応に彗は薄ら笑いを浮べて彼を見上げている。
「どうした? 優男の面影もない形相をしてるぞ。南燕会の時雨よ」
「貴様……どういう……どういうつもりだ……!」
「裏切り者には罰を与えるのも、組織を仕切る者の役目であろう? つい奴の腕を捻りすぎてしまってな。取れてしまった」
「ふざ、けるな……!」
「しかし、あの奴ずいぶんと南燕会という負け犬の集団に心酔していたようだな。……腕が千切れても貴様等の額当てを離さないとは」
彗は腕の力を抜かないまま時雨の後ろに転がっている腕に目を向けた。その青白い腕はぎっちりと額当てを固く握っていたのだ。
にやりと笑い彗は刀を握る腕に力を入れる。そして槍を上に弾いた。中心から逸れた槍先。
その隙を彗は狙う。しかし時雨は大きく間合いを取って回避する。
大きく開いた距離。両者は睨み合う。そして。最初に動いたのは彗の方だった。
物凄い速さで彗は間合いを詰める。それを時雨は迎え撃つ。
しかし槍と刀がぶつかる……ことはなかった。血が飛び散ることも。
彗の姿は時雨の両目の視界から消えたのだ。だがその姿を額の目が捉える。彗は天井に触れるほど高く飛び上がっていたのだ。落ちる勢いを利用しようとしているのである。
しかし時雨の腕は伸びきっている。真上からの攻撃に対応できない。彼は前転をして受け身をとる。そして瞬時に向き直り槍を構えた。
そこには着地し刀を振り下ろした彗の姿。畳は捲れ上がり、その下の床は大きく抉れてしまっている。
「……とんだ馬鹿力だな」
「非力な者の戯言か」
彗がクナイを放つ。それを時雨は槍を回転させて弾き落とす。息吐く間もなく。彗は時雨に迫る。
それを時雨は刺し貫こうと渾身の力で槍を突き出した。槍は彗に突き刺さる寸前。勝機は見えた。
「ぐ……ぅあ……ッ……」
時雨は血へどを吐き出した。彗の刀が自らの腹に深く突き刺さっているのだ。彼は小さくと笑うと刀を引き抜いた。そして止めをさそうと大きく振り上げる。
それをなんとか時雨は間合いを取り防いだ。腹からは噴き出すように血が流れている。
腹の傷を片手で抑えながら、何が起こったのか時雨は思考する。しかし答えは導き出せない。口から零れる血を手の甲で拭い彗を睨みつける。
いくら考えても何が起こったのか時雨には理解することが出来なかった。死角など彼にはない。しかも槍が彗に刺さる寸前まできていたのだ。
なのにも関わらず彗に槍は届かず、逆に間合いに入られやられてしまったのである。時雨が気づいた時には既に彗の刀が腹に刺さっていたのだ。
訳が分からず時雨は眉を顰める。そんな彼に彗は薄ら笑いを浮かべて一歩一歩丁寧に近づいていった。
「随分と困惑しているようだな、南燕会の時雨よ」
「……」
「無理もなかろう。常人には理解できぬ位置に俺は俺達はいる。貴様は俺に逆立ちしても勝てぬ」
「一つの考えに囚われる様な頭の固い奴はいずれ足元を掬われるぞ。それが今日だ……!」
そう言った瞬間。時雨は彗にクナイを投擲する。それを彗は体を傾けて躱す。
彗の体勢が崩れた一瞬を時雨は狙う。身を低くして彗に迫る。そして槍で攻撃を仕掛けた。
しかしその攻撃を彗は崩れた体勢のまま刀で受け止める。そして力まかせに時雨を押しきった。
弾かれた時雨の体は廊下に転がり出る。間髪を入れず彗は斬りかかった。時雨は転がる様にして下りそれを避ける。
すぐに体勢を整える時雨。彼に彗の目にも留まらぬ攻撃が襲う。接近し過ぎていたため長い槍では小回りが利かない。致命傷にならないようにするので精一杯だ。目に見えて時雨の傷が増えていく。
大きく振りかぶられた刀。それを受け止めようと時雨は守勢を取る。
「……ッ……!」
血煙が上がった。彗の刀が時雨を大きく切り裂いたのだ。ふらつく足で時雨は間合いを取ろうと試みる。大きく間合いを取ったが彗は詰めようとはしなかった。
まただ、と時雨は先ほどの状況を何度も頭の中で再現しながら思う。槍と刀がぶつかる寸前までの記憶はある。だが、気づけば彗によって斬られてしまっていたのだ。
そして頭の中で再現していくうちに時雨は一つの不審な点に引っかかった。
(何故俺はあの時、構えを解いていたのだ……)
斬られた時、槍先を上にして片手で持ち直立していたのだ。そんなこと斬り合いの中で行ったら自殺行為である。
その答えが出せそうな気がした時、目の前には刀を振り上げた彗の姿があった。




