【第三十四話】整えた唇
「あなた……!」
「もうこっちは大丈夫」
その人物は司である。彼は瑞子とその男の間に入ると人好きのする笑みを浮かべた。
「これはこれは。那智組の方々がこんなにも」
「お前がこの宿の主人か。丁度いい、そこの女じゃ話にならん。我々に客室全てを調べさせろ」
「それは……出来ません。か、家内から聞いてませんか……? こ、こ、ここに、そんな物騒な方は……い、いらっしゃいませんし、ここに貴方方のような〝物騒な方〟を……お、お通しすることは……出来ません……!」
「なんだと!」
眉を吊り上げて睨みつけてくる那智組の男達に司は顔を強ばらせながらも、背筋をしゃんと伸ばしはっきりと言った。
「お引き取りください……!」
「町人風情が……!」
怒りが頂点に達したのか、その男の顔はみるみる赤くなっていく。そしていきなり拳を握ったかと思うと司の左頬を殴りつけた。体勢を崩した彼を今度は瑞子が倒れないように支えてやる。
殴られた衝撃で司の手からは群れ飛び鶴の文様の巾着袋が落ちてしまう。その男は巾着袋に気にも止めず、大きく刀を抜いた。
宿の者達の悲鳴が上がる。司は瑞子を庇うように自分の背の後ろに隠した。彼の体は震えていたが、真っ直ぐと男を見据えている。
「そういやどっかで見たことあると思ったら、そこの女。南燕会の女鬼じゃ――」
「違う! 家内は私達と同じ純血の人間だ!」
「そうか。まあ俺は物覚え悪くてな。貴様も南燕会で斬込み隊長やってた奴だろう?」
「何言ってんだい! うちの旦那は刀さえ握ったことない男――」
「言っただろう? 俺は〝物覚え悪い〟んでな。もう意味分かったか? 俺に逆らわなければ良かったものを。人が下手に出てればいい気になりやがって」
男はわざとらしく、ゆっくり片手で刀を振り上げた。人々の悲鳴が一段と大きくなったその時だ。
からん、と音を立てその男の刀は床に転がったのだ。いや、刀だけではない。男の手首ごとである。床一面が朱色に染まっていく。そして司と瑞子にも血が雨の様に降り掛かった。
「あ、あ、あ、……う、腕があああああ」
男は狂ったようにしゃがみこみ落ちている手首を抱えている。そんな男の真後ろで彼を冷たい瞳で見下ろし赤く濡れた刀を握った人物がいた。
瑞子はその人物を険しい顔で睨みつける。
「あんたは……!」
「おやおや。お久しぶりですね。……いや、初めましてと言った方が貴女には都合が良いでしょうか」
冷笑を浮かべた人物――土岐翔和は深々と頭を下げた。そして前髪を指で整えながら土岐は言葉を続ける。
「私の部下が無礼を働きまして大変申し訳ありませんでした。那智組に泥を塗ったこの者は死という形でこちらで処分させていただきますので、どうかお許しくださりませんか」
再度頭を下げてから土岐は周りにいる部下に血溜まりを拭き取る様に指示をした。そして手首を失って呆然としゃがみこんでいる男を外に引き摺り出させる。そして、汚してしまった着物の詫びとして金塊を司に押し付けた。
土岐の指示に黙って従っていた那智組の者達は土岐の顔色を窺っている。そしてその中で意を決した一人の男が彼に恐る恐る進言した。
「あの……土岐様。南燕会の時雨と天狗の宗志は良いのですか……?」
「良いもなにも、ここにはもう彼等はいませんよ。まったく……蝉に踊らされるなんて那智組も落ちたものです」
ちらりと土岐は自分の後ろにいる部下達を見渡した。彼等はその視線に縮み上がる。
「なにより……〝姫〟が彼等を生かす様おっしゃってましたしね」
にっこりと笑った彼の瞳には冷たい光が宿っていた。そしてふと彼は群れ飛び鶴の文様の巾着袋に目を止める。その巾着袋を拾い丁寧に開けると、彼はそれの中に視線を落とした。
少しして土岐は小さく笑い声を漏らす。そして楽しげな口調で呟いた。
「これはこれは、大層珍しい物ですね。……面白くなりそうです」
貴方のですか、と土岐は司に訊ねる。彼がおずおずと頷くと土岐はそれを彼の手を取り握らせる。その手は余りにも冷たく、彼が思わず体を強ばらせてしまう程であった。
土岐はふっと微笑むと司の手を放して宿の者達を見回す。そして深々と一礼した。すると他の那智組の者達は申し合わせたかのように左右に別れ道を作る。土岐は無駄の無い洗練された動きでそこを歩いて行き宿を去ったのだった。
暫く宿の者も那智組の者も動かなかった。少しして一人がはっとした顔をすると、周りの者達も我に返った様で、それぞれざわざわと動き始める。
血溜まりを綺麗にしておくよう、土岐に指示された三人の那智組の者達以外の男達はぞろぞろと引き上げていく。宿の者達は騒ぎを聞きつけて集まって来た宿泊客に事情を説明するのに忙しい。
その喧騒の中で司と瑞子だけが、薄気味悪さに動けずにいたのだった。
「あの時雨はどこにいんだ?」
どのくらい時間が経ったのだろうか。宗志は白臣をしっかりと抱えたまま上空で進みを止めた。二人の眼下には巨大な堀と柵に囲まれた、極大な建物が見えてきたのである。それはちょっとした城のような作りだ。上からそれ見ただけでも蝉が並大抵の組織ではないことが白臣にも理解できた。
突風で二人の髪が巻き上げられた時。白臣が指を指した。
「宗志、あそこ!」
白臣が指さした先を宗志は目をやった。木が密生しているため良く見えないが、木々の間から確かに二人の姿があったのである。
突風に体勢を崩されない様に宗志は注意を払いながら、その場所へと降りていった。そして地に足をつけてから白臣の体をそっと降ろす。彼女が礼を口にすると宗志はそっけなく返事を返した。
二人の少し前には時雨と鳥野が、こちらに背を向けた状態で立っていた。木々の間から蝉の本拠地の様子を窺っている様である。二人の存在には気づいてない様だった。
宗志は足元の木の枝を蹴り微かな音を立てた。しかし時雨も鳥野も振り返らない。痺れを切らした宗志はぶっきらぼうな口調で言った。
「……おい」
「何だ、宗志」
「何だ宗志って、お前な……なんかもうちょっとなんかこう……もう少し驚けよ」
「驚くも何もお前達がこちらに向かってるのは随分前から見えてたぞ」
それに、と口にして時雨は振り返る。そしてふっと笑った。
「俺からしてみれば天邪鬼のお前のことだ。素直に初めからついて来るとは考えてないしな。どうせ遅れて来るだろうと宿から抜け出した時から思っていたのだ。どうだ? 俺の天才っぷりは! まさに脱続超凡! 驚いたか!」
「……なんか癪だ」
「素直に言うのだ、宗志! 瀬崎時雨は天才だと!」
「頭、声が大きいです」
やってしまった、と時雨は舌を出す。そんな彼に鳥野は冷徹な言葉を浴びせる。
「舌を出して許されるのは、裳着前の女の子だけですよ。大の男、裳着を迎えた女であるにもかかわらずそんな無様な仕草をする輩は早々に天に召されて欲しいものです」
「鳥野、辛辣! まさに冷淡無情!」
酷く傷ついたという顔をしてから、時雨はこほんと咳払いをした。そして真剣な声音で話し始める。
「さて、これからざっと戦略を話そうと思う。ただその前にまず宗志、報酬の件だが――」
「酒と団子」
「酒と団子か……何だ、宗志。お前甘い物は好いてないのではなかったか?」
にやにやとしながら時雨はそう訊ねる。宗志は別に、とそっぽを向く。時雨はそんな彼にさらに顔をにんまりとさせてから、真面目な顔に戻した。
「まず鳥野が先に行き上空から鱗粉をばら撒く。相手は純血の鬼だ。全員を眠らせるには至らないかもしれん。だが、純血の鬼とて皆同じ戦力、体力があるとは考えにくい。つまり蝶化人の鱗粉に弱い体質の鬼がいてもおかしくないということだ」
「また、眠らせることが出来なかったとしても、ある程度の痺れを相手に与えられることが考えられます。そうなれば後々の戦況は有利になるかと。ただ葉川彗と龍に影響を与えられるとは考えにくいですが」
「それはそうだろうな。そいつらは俺と宗志で何とかしよう。そして鳥野が戻って来しだい俺と宗志は正門から派手に突入する。さっき額の目で本拠地の中をみせてもらったのだが、葉川彗と龍は最上階の部屋にいる。俺達は暴れながらそこを目指す」
「俺は龍っていう鬼を殺ればいいんだろ」
「ああ、よろしく頼む。そして俺達が敵の目を引きつけている間に鳥野と白臣殿は裏から柵を超えて、地下にいる理叶殿を連れ出してくれ。理叶殿が地下に連れていかれるところまでは見えていたのまが……地下の様子は暗くて良く見えん。まさに如法暗夜。悪いが地下に行って探してくれるか? そして三人でその後、瞳子殿を探して救出してくれ」
しっかりと二人は同時に返事をする。その時強い風が森の中を駆け抜けた。それは激しく森の木々を揺らす。宗志は木々の隙間から覗く空を見上げてから、ちらりと白臣へと視線を向けた。
その場の情で動いたのは自分なのではないか、と後悔の念が掠めたのだ。眉間に皺を寄せた彼の心情を察したのか、時雨は風で靡く髪を煩わしそうに払い難しい顔をして口を開く。
「……白臣殿、本当にいいのか。あの柵の向こうは戦場になる。鳥野が君にはついている事にはなっているが……絶対生きて帰れる保障は出来ない」
「覚悟の上です」
即答してから、白臣は隣にいる宗志の顔を盗み見た。昨夜の時雨の言葉を思い出したのだ。
自分がもっと強かったら、と白臣は悔しさがせり上がるのを感じていた。きゅっときつく唇を結ぶ。
(僕がもっと強かったら、宗志を悩ませずに済むのに……)
そんな白臣の視線に気づいたのか宗志はちらりと横目で彼女を見る。彼女も目を逸らさずに宗志へと視線をぶつけた。その状態で暫く時間が流れる。
先に視線を逸らしたのは宗志の方だった。彼は深く息を吐き出してから、そっと白臣の頭に手を伸ばしたのだ。最初は軽く髪に触れるか触れないか程度に白臣の頭を撫でていた彼の手は、次第に髪をかき混ぜるようにして撫で始めた。その手には想いが籠っていたせいか、じんわりと熱を帯びている。
もしハクに何かあったら、と宗志はそれだけで身が縮まる思いを抱いた。一瞬、想像しただけでどうしようもない感情に縛られてしまう。実際にそんなことがあった時、何をするか分からない自分が怖かった。そして何より失うのが怖かった。
そんな心情の宗志に白臣は何を言うでもなく、されるがままになっていた。彼女はくすぐったそうに目を細める。
そして短い時間そうした後、宗志は白臣の頭を撫でていた手を止めた。少しばかり口元を緩めると乱れてしまった彼女の髪を軽く整えてやる。そして最後にぽんと軽く手を置いて小さく、だが力強い声で呟いた。
「……勝手に死ぬんじゃねぇぞ」
白臣はしっかりと頷く。彼女は胸がじんわりと熱くなるのを感じていた。そして生きて帰ることを彼女は心の中で誓う。宗志の手が頭から離れてくのが少し寂しく感じながら。
それから宗志は、鳥野さん、と呼んでから鳥野に体を向けた。そして深々と頭を下げたのだ。
「……こいつをよろしく頼みます」
黙ったまま鳥野は頷く。彼女の隣で時雨はそんな宗志を茶化すことなく感慨深そうに見ていたのだった。
そして宗志が頭を上げたのを見計らってから、時雨は人さし指を小さく天に向け鳥野に合図を送る。彼女はしっかりと頷き、背中に透き通った羽を生やす。そして空へと舞い上がったのだった。
鳥野が鱗粉をばら撒いている間、宗志と時雨は蝉の門のある西側へ、白臣はその反対側の東側へと向かいそれぞれ茂みで身を隠しながら待機をしていた。運が良いことに風は南から北へ吹いているため、鱗粉が風で流れて三人が吸ってしまう可能性は低い。
宗志は門番の鬼二人に注意を払いながら、隣で両目を閉じて額の目を光らせている時雨に小声で訊ねた。
「おい、中はどうなってんだ?」
「なかなかいい感じだぞ。ざっと眠りこんでしまったのは四分の一ほどぐらだろう。中は混乱状態、まさに雑然紛然。上手くいっている」
さて俺達もひと仕事始めるか、と時雨は閉じていた両目を開けた。宗志は気だるそうに首を回して小さく頷く。
宗志と時雨は鳥野が白臣の元に戻ってから正門から突入することになっていた。どうやら鳥野は上手く蝉の者に姿を見られることなく、一つ目の任を果たすことが出来た様である。
二人はちらっと顔を見合わせてから茂みを出た。門番達はどちらもがたいが良く、背丈も宗志はもちろん時雨よりも大きい。そして頭部からは立派な角が生えている。
門番達は二人の姿を見た途端、目を吊り上げ怒鳴り出した。
「お前ら何者だ! 怪しい奴め!」
「ここが何処だか分かってんのかあ? 悪いことは言わねぇから金目の物置いてさっさと消えな!」
「宗志、ここは俺に任せてもらおう」
そう言って時雨が足を一本前に出した時だ。踏み込もうとする彼を宗志が制止したのである。彼が不思議そうに宗志の顔を見ると、宗志はにやりと口元を吊り上げた。
「派手にやったほうがいいんだろ?」
「まあ、そうだが」
「ならそこで見てろ」
「何そこでごちゃごちゃやっている!」
今にも攻撃を仕掛けてきそうな勢いで鬼達は金棒を威嚇するかのように振り回している。
宗志は時雨を下がらせると掌を上にして手を突き出した。するとその掌の上に炎が燃え始めたかと思うとその炎はみるみる大きくなり宗志の体を包む。そして炎は彼の体にな翼を生やすかの様に広がっていく。
炎の中で宗志が掌を閉じた時。一瞬で彼を包んでいた炎は消え去った。それと同時に彼の頭上には燦爛たる火の鳥が鬼達を見据えていたのである。それには流石の鬼達も怯んだ様で、振り回していた金棒の動きがぴたりと止まる。
「さて、派手にいくとするか」
にやりと宗志は口元を吊り上げ、指を鳴らす。それを合図にその火の鳥は門へと向って羽ばたき突撃したのだ。
「止まれぇえええ!」
門番の鬼達の怒号も爆発音に飲み込まれる。その火の鳥は門番を吹き飛ばし門を突き破ったのだ。轟々と音を立てて火の鳥は敷地内を蹂躙する。そしてそのまま天へと昇っていった。辺りは煙で満たされる。
煙の中で時雨は宗志の肩を軽く小突く。
「やるな、宗志。まさに国士無双!」
「当たりめぇだ」
そんな短いやりとりを交わした後、二人は蝉の中へと踏み込んで行った。
彼らが蝉の敷地内に入った時。煙は薄くなっており、そして二人を取り囲む様に人影が見えた。宗志は荒々しく舌打ちをする。
「……やっぱ一筋縄じゃいかねぇみたいだな」
「そのようだ。しかし、宗志。初っ端からあんな大技使っていいのか。炎の鳶のようなものなど」
「どうせ城の中に入っちまったら使えねぇしな。……それと、鳶じゃねぇ鳳凰だ馬鹿野郎」
「大した違いではなかろう。似たようなものだ。まさに大同小異!」
場に似つかわしくない笑い声を時雨は上げた。大違いだ、と宗志はムスッとして言葉を返す。その時には煙は完全に消え去っていた。やはり二人を囲む様に各々武器を持った鬼達がたっている。
時雨は槍の刃を包んでいた布を取り投げ捨て、堂々とした口調で周りの鬼達に告げた。
「俺の名は南燕会の頭領、瀬崎時雨である! 南燕会頭領として仁義を通しに参った! 俺達が用があるのは葉川彗と龍である! 無駄な殺しはしたくない故、直ちに道を開けよ!」
その言葉に鬼達は一瞬静まり返ったが、どっと笑い声が湧いた。げらげらと腹を抱えて笑っている者もいる。
「ばっかじゃねぇーの! 葉川さん達に会いたいんだとよ!」
「妖怪の出来損ない風情が頭が高いわ!」
「俺達とお前らじゃ生まれた時から優劣は決まってんだよ!」
一向に収まらない笑い声。もう始めていいか、と宗志は時雨に横目で訴える。しかし、彼は小さく首を振った。そして周りの鬼達を見回してから堂々とした口調で再び告げる。
「もう一度言う。道を開けよ!」
「しつけぇな、てめぇ! てめぇら生きて帰れると思うなよ、なあ!」
「……そうか。ならば仕方あるまい」
瞬きほどの一瞬だった。時雨の槍が一人の鬼の首を貫いたのだ。彼は槍をゆっくりと引き抜いた。その鬼は崩れる様に倒れてしまう。そして彼は槍を構え静かに叫んだ。
「もう一度言おう。道を開けよ。さもなくば……斬り捨てる!」
絶命した鬼から血溜まりが広がっていく。宗志はにやりと笑って刀を抜き時雨に背中を合わせた。逆上した鬼達は口々に叫び、咆哮を上げる。
「出来損ない風情がぁあああ!」
「殺してやるッ――!」
「捻り潰してくれるわぁあああ!」
振り下ろされる刀。それを宗志は左手で持った刀で受け止める。そして間髪を入れずに右手で作った炎の渦でとどめを刺す。
その後ろから同時に斬りかかってきた二人の鬼。それを一太刀で斬り上げる。腹を大きく斬られた二人の鬼は動かなくなった。
時雨に飛びかかる鬼。その刀を彼は槍で弾く。そしてその鬼が着地した時。わずかな隙を彼は逃さない。躊躇いなく槍で突き抜く。
ほとんどの鬼が時雨の間合いに入る事なく倒れていった。彼は次々に急所を確実に貫いていく。
二人は背中を合わせ、お互いの状況を確認する。少し体温が高くなってはいるが、まだどちらも息は切れていない様だ。
「時雨、足引っ張ったら承知しねぇぞ」
「馬鹿者、それは俺の台詞だ!」
向かってくる敵。それを二人は次々と斬り伏せていく。金属と金属がぶつかる高い音が響く。
血飛沫が上がる音。骨が砕ける音。そして断末魔の叫び声。それらが鼓膜を震わせる。
そしてそれは時雨にとっても、聞き慣れた音だった。なのに。相手に対する情がふっと湧いてしまったのだ。斬られても斬られても向かってくる鬼達。それが本当に自らの意志でそうしているのか。無理矢理戦わせられているのではないか。
彼らにも家族がいて、帰りを待ち望む者がいるだろう。彼らが死んだら悲しむ者もいるだろう。彼らにだって平穏な日常があるだろう。
そんな考えが時雨脳裏に掠めた。ほんの少し槍を振る腕に躊躇いが生じてしまう。
しかし戦場ではその一瞬が命取りだった。
槍が大きく払われたのだ。そして瞬時に鬼は時雨との距離を詰める。振り下ろされる刃。それは時雨の目前まできている。
「ッ――!」
しかし。その刃は時雨に届くことはなかった。宗志が二人の間に入り振り下ろされる刀を弾いたのである。下から上へ刀を弾いた彼は、そのまま鬼へ刀を振り下ろす。その刹那、両端から二人の鬼が金棒で攻撃を仕掛けてくる。それを舞うように宗志は斬りさばく。
そして宗志は刀で空斬り血を払い、荒く舌打ちをした。
「お前、死角ねぇんだろうが! 何ボサっとしてやがんだ!」
「……すまない」
二人は再び背中を合わせた。そして互いに前を見据える。顔についた返り血を手の甲で拭うと宗志は溜め息をついた。
「……余計なこと考えてんじゃねぇよ。んなこと蝉を出でからでも遅かねぇ」
「……ああ」
「それと……死ぬな。……ハクが悲しむだろうが」
背中を合わせている時雨にしか聞こえない程の小さな声で宗志はぼそりとそう呟いた。時雨はふっと口元を緩める。
「……お前は悲しんではくれぬのか」
「……むしろ清々するわ」
宗志は鋭い眼光を飛ばし、刀を握る手に力を込めた。二人を囲む鬼達はじりじりと間合いを詰め、斬りかかる瞬間を狙っている。
「なあ、宗志」
「あ?」
「俺は少々平和ボケしていたようだ。……そうだ、俺は今も昔も外道であった。だが……」
そこで時雨は槍を軽やかに回して叫んだ。
「外道にしか護れぬものもある……!」
「……そうこなくっちゃな!」
二人は同時に地を蹴り、敵に向かっていったのだった。
「頭達、上手くやってくれてるみたいだわね」
鳥野はひらりと羽を動かしながらそう口にした。彼女に横抱きされている白臣は緊張した面持ちで頷き上から下の様子を見下ろす。
二人は蝉の敷地内の上空にいた。そこからだと鬼達が宗志達のいる建物の正面側に集まっている様子がよく見える。そして理叶が連れて行かれた地下牢へと続く扉がある建物の裏側に鬼達がいなくなった時。鳥野は白臣を抱き抱えたまま人目につかないよう慎重にと下降していった。
鳥野はゆっくりと着地する。そして抱き抱えていた白臣を下ろす。彼女は鳥野に礼を小声で礼を言うと辺りを見回した。
白臣達の周りには寝息を立てた鬼達が何人も転がっている。彼らは蝶化人の鱗粉に弱い体質なのだろう、と彼女は一人で納得した。そしてそこに起きて活動している鬼は一人もいない。
どうやら宗志達のいる正面側に全員集まっているのだろう。白臣は心配そうに眉を顰めて口にした。
「宗志と瀬崎さん、大丈夫でしょうか……?」
「頭に関しては大丈夫だわ。あの人はこんなところで死ぬような人ではないから。宗志さんだってこんなところで死ぬような方じゃないって、ハクちゃんが一番よく知ってるんじゃないかしら」
「はい」
「なら信じましょう。不安な気持ちも解るけれど、私達は与えられた役割を果たさなければね」
力強く白臣は頷く。そして二人は最大限に神経を尖らせて慎重に歩みを進めた。鳥野は音を立てないよう注意を払いながら、隣にいる白臣にしか聞こえないほどの小声で告げる。
「私の毒は本来なら月が登る頃まではもつはずなんだけど……相手は純血の鬼、いつ目覚めるか私にも分からないわ。だから極力寝ている彼らを刺激しないように。それと、いつ攻撃を仕掛けられても反応できるようにね」
こくこくと白臣は何度も頷いた。そして気配を殺して慎重に足を動かしていく。
倒れている鬼の脇を歩かなければならない時は息を止めて歩く。焦って駆け出してしまいたい気持ちを白臣は必死で抑えた。建物を挟んだ正面側からは金属と金属がぶつかる高い音や、咆哮や叫び声が聞こえてくる。
不安な気持ちが再び湧いたかと思うと、白臣の胸に沈み込んだ。大丈夫みんな大丈夫、と彼女は自分に言い聞かせ余計な事を考えないように足の動きに意識を集中させ歩いていったのだった。




