【第三十三話】眠る首
理叶の話を聞いている間、時雨は難しい顔をしていた。そしてふっと柔らかい顔をする。
「理叶殿、俺はまだ答えを聞いてないぞ」
「え……?」
「南燕会に入らないか? もちろん妹の瞳子殿と一緒に」
「だって……! 俺、あんたを殺そうとしてんだぞ! それに瞳子は――」
「瞳子殿のことは大丈夫だ。要は蝉を潰す、あるいは上の葉川彗と龍を倒せばよいのだろう? なかなか激しい戦いにはなるだろうが。まさに黄塵万丈」
さらりとそう言ってのける時雨に、理叶は信じられないモノを見た様な顔をした。
「か、簡単に言うなよ……! 蝉の奴らは殆どが純血の鬼なんだぞ……! その中でも彗と龍はずば抜けてて……」
「だから何だと言うのだ。こちらには〝南燕会の時雨〟と〝天狗の宗志〟がいるのだぞ? まさに剛強無双。純血だか混血だか知らぬが敵わぬ敵ではない。それに、鳥野。俺らの中に蝉の輩に襲撃されてしまった者もいるよな?」
「はい。少なくとも五人は」
「奴らの行動は目に余る。泰平に話し合いで和解出来れば良いのだが、それも無理そうだしな。理叶殿、どうする?」
「……俺が入ってもいいのか……? 南燕会に……。あんたを殺そうとしたのに……」
当たり前だ、と言うかの様に時雨はふっと笑い自らの胸を拳で叩いた。その隣にいる鳥野も柔らかく微笑んでいる。
理叶は目を潤ませて上を向いた。そして何回か瞬きをしてから正座をする。そして額が地面に着くほど深々と頭を下げた。
「お願いします……! 俺を、俺を……! あんたの部下にしてください! そして……俺に力を貸してください……!」
「ああ、よろしく頼むぞ理叶殿。そうだ鳥野、あれを渡してやれ」
「御意」
しっかりと頷いてから鳥野は理叶の傍に寄りしゃがみこんだ。そして懐に手を入れる。そしてあるものを差し出したのだ。
理叶はゆっくりと顔を上げた。鳥野の掌に乗っている物が彼の視界に入る。それは南燕会の紋章が刻まれた額当てだったのだ。
「どうぞ。これで貴方は正式な南燕会の一員。私達は仲間よ」
「これ……俺なんかが貰っていいのか……?」
か細い声でそう訊ねる理叶に、時雨と鳥野は同時に頷いた。理叶はそれを壊れ物を扱う様に受け取ると、掌に包み込む。そして深く頭を下げた。
時雨は満足そうな顔をすると、辺りをぐるりと見回す。
「さて、今日の早朝には蝉へ向かうぞ。で、この庭は……瑞子殿に死ぬ気で謝るしかなさそうだな! 骨の一本や二本は覚悟せねばならなそうだが!」
時雨の言う様に趣向が凝らされた美しい庭は酷いものだった。水面に見立てて描かれた白砂の模様は言うまでもなく滅茶苦茶になっており、所々に植えられた草花は踏み潰されている。
当の本人である鳥野と理叶は決まり悪そうに肩を竦めていた。それに気づいた時雨は気にするなと言って笑って、二人に立つよう促す。
理叶は立ち上がると気まずそうに目を泳がせてから、意を決して真っ直ぐな視線を白臣へと向けた。
「白臣! その……ごめん」
「いいよ。だって、今から君と友達になればいいんだろう?」
「お前……! うん、ありがとな。だけどこれだけは分かって欲しい。勝手な言い分だけど。……確かに計画のためにお前を取り込んじまおうっていう下心は無かった訳じゃねぇ。でも、お前の髪をかっこいいって言ったこととか、お前とその……友達になりてぇって思ったことに嘘はなかった。演技のために瞳子の手紙を見せることなんて俺は絶対しねぇ」
「そっか、よかった。なんか嬉しい」
ふわっと白臣は微笑んだ。理叶はそんな彼女ににかっと笑いかける。少しの間、二人は顔を見合わせて笑いあっていた。
時雨は宗志に顔を向けてこほんと咳払いをする。
「さて、蝉に鬼退治に行くわけだが。宗志、もちろんお前は来てくれるよな? できれば弟の葉川龍の相手をしてもらいたいのだが。もちろん報酬もきっちり出すぞ」
「……なんでそんなめんどくせぇことしなくちゃならねぇんだよ」
「まあそう言うな。人助けだと思って、な? まさに天理人道!」
「……そんな性に合わねぇことする気ねぇよ。他を当たれ」
そう言うと宗志は気だるそうに建物へと歩いていく。そんな彼を呼び止めたのは白臣だ。白臣の声に彼は振り向きはしないものの足を止めた。
「宗志、力を貸してやってくれないか」
「何回も言わせんな。そんなめんどくせぇことに首突っ込む趣味はねぇんだよ」
「でも! ……わかったよ。もういい! 君が行かなくても僕は――」
「駄目だ」
有無を言わせない口調で宗志はそう言った。そして後ろにいる白臣にちらりと目をやる。
「お前、死にてぇのか」
「そうじゃない! でも力になりたいんだ」
「あのなあ……。妖怪と人間の混血を相手するのでやっとこのくせに、純血のしかも鬼をどうにか出来ると思ってんのか」
「そんなのやってみなきゃ分から――」
「分かった時はもう三途の川超えた時だ。友情だか何だか知らねぇが、その場の情で動く奴は身を滅ぼすんだよ。自分の実力をちったぁ弁えろ」
そう刺々しい言葉を残して宗志は宿の建物に入って行ってしまった。その背中に白臣は何か言い返そうとしたが、悔しいほどに彼の言った通りで何も言えなくなってしまう。
固く拳を握り俯いてしまっている白臣の肩に手が置かれた。彼女は顔を上げてその手の主を見る。その手の主は時雨だった。
「宗志の言った事は間違っていない。あいつはあいつなりに白臣殿のことを気遣っているんだ」
「分かってます。分かってるけど……悔しいんです」
白臣殿の気持ちも分かるが宗志の想いも分かる、と時雨は口にしてから言葉を続ける。
「以前とは比べ物にならん程、宗志は喜怒哀楽が出るようになったと思う。昔のあいつはまさに能面を常につけているかの様で、全くと言っていいほど物事に関心を示さなかった。それは人に対してもだ。……いや、そうではなかったかもしれん」
ふと時雨はそこで言葉を切った。そして少し考えてから再び口を開く。
「今思えば、あいつは関心を示さなかったのではない。物事や人から一線を引くことでかたくなに守ろうとしていたんだろう。己を、己の心を。……壊れてしまわぬようにな。そんなあいつを変えたのは、白臣殿。君なんだ」
白臣は静かに時雨の言葉を聞いていた。彼は自らの首筋を撫でてから言葉を口にする。
「あいつが白臣殿を蝉に行かせたくないのは痛いほど分かる。本当は俺だって鳥野を連れて行くのは危険だと思っているのだ。出来ることなら連れて行きたくない」
「……はい」
「白臣殿の友のために戦いたいという気持ちも痛いほど分かる。君は大いに見込みがある。まさに前途多望。だが、今は堪えてくれ。それは君のためでもあり、宗志のためでもあるんだ」
そう言って時雨は白臣の瞳を見つめる。彼女も充分なほど時雨を見つめ返してから、しっかりと頷いた。
「……分かりました。留守番、しています」
「白臣、ありがとな。お前の気持ちだけでも、俺すげー嬉しいよ」
へへっと笑う理叶は笑った。その顔は憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしている。彼の笑顔のおかげか、白臣も力になれないもどかしさが少しだけ軽くなった様に感じたのだった。
それから時雨は明日の算段を簡単に話す。その後四人は廊下で伸びている宿の人間を部屋に運んでやる。そして鳥野と理叶の治療を済ませてから、それぞれ部屋に戻って寝床についたのだった。
「……少し早かったか。今日は疾風怒濤の一日になりそうだ」
布団から上半身をお越した時雨は眠そうに目を擦った。まだ予定していた起床時間よりも少し早い。宗志も理叶もまだ寝ているようで、静かな寝息が部屋を満たしている。
恐らく朝が早い宿の者達もまだ眠りについているのだろう。部屋の外も静寂が保たれているようだ。理叶の話では眠り毒で眠らされた者達も朝になれば目を覚ますということである。
再び眠りつく気分にもなれなかった時雨は音を立てないように気を配りながら身支度を始める事にした。一旦額の包帯を外して櫛で青みがかった黒髪を簡単に梳かし、一本に結い上げる。そして再び包帯を額にきっちりと巻く。その時。なんとなく物音がして、時雨はちらっと目をやった。
「すまない、起こしてしまったか」
「いや。頭のせいじゃねぇって」
「そうか、なら良かった。理叶殿、ちゃんと眠れたか?」
「んー微妙。なんか落ち着かなくてさ」
「それは無理もないだろうな」
理叶はもぞもぞと布団から這い出すと、首を回してぐっと伸びをする。
その時、時雨はあることに気がついた。そして妙案を思いつき、先ほどまで自分が寝ていた布団の枕元にある刀を理叶に差し出したのだ。それを彼はきょとんとした顔で見る。
「理叶殿、剣の心得はあるか?」
「まあ、普通に」
「ならばこの刀をやろう」
「へ? 確かに素手で乗り込むのはきついとは思ってたけどさ……頭は? 頭はどうすんだよ」
「基本的俺は槍を使うのだ。だから刀がなくとも支障はない。受け取ってくれ」
時雨に礼を言って理叶はその刀を受け取った。がしかし、彼は目を丸くしたかと思うとその刀を時雨に突き返したのだ。
「受け取れねぇって! これ、相当高けーやつじゃん!」
「確かに俺が一生働いても買えはしないだろうな。まさに春宵一刻」
「なら尚更受け取れねぇよ! だってこれ……」
「矜伐長谷部。なかなか使いやすいぞ。切れ味も申し分ない。まさに古今無双」
「そりゃ……長谷部の刀だもんな……。本物初めて見たわ……」
受け取ろうとしない理叶に、時雨はやや強引に刀を押し付けた。
「受け取ってくれ。どうせ貰い物にすぎん。それに俺が持っていても錆び付いてしまうだけだ」
「……ありがとう。俺、この刀を持つに相応しい男になるよ。その……頭、みたいな……」
最後の方の言葉は小さくなってしまっていた。そして理叶は気恥ずかしさを誤魔化す様におどけた声を上げる。
「さーてと。ちょっと時間あるっぽいし庭で素振りしてくるわ。足引っ張んねぇようにしねぇと」
「そうか。時間になったら呼びに行こう」
理叶は軽く返事をすると後ろ手で手を振り、部屋を出て行ったのだ。
白臣が目を覚ました時には鳥野は寝衣から細身の戦闘装束に着替えていた。彼女は何やらクナイを布で丁寧に拭いている。手入れをしているようだ。ふと白臣の視線に気づいたのか、彼女はちらりと視線を向けた。
「おはようハクちゃん」
「おはようございます」
「早いわね。まだ寝てても大丈夫よ」
「いえ、なんかちょっと眠れなくて」
実際、白臣は眠りが浅くなってしまっていたようで、夜中に何度も目を覚ましていたのである。彼女も少し早いが身支度をしてしまおう、と布団から出た時だ。
開けてくれ、という時雨の声が戸の向こうから聞こえた。戸の側にいた鳥野は直ぐに開けると、焦りを隠せていない時雨の姿があったのだ。
「どうしたんですか、頭」
「理叶殿を見かけなかったか。理叶殿の姿が見えんのだ」
「いえ。私達はまだ部屋から出ていませんので」
「そうか。理叶殿は庭で素振りをすると言っていたんだが……。お前達も知らぬなら仕方あるまい。こっちの目で探してみるか」
時雨がそう言って額の包帯をずらそうとした時だった。彼に向かって廊下を走る人影があったのだ。 それは宿の主人である司であった。
「お頭さん方……!」
「どうしたのだ司殿。何があった?」
「とにかく全員宿から逃げて下さい……! 那智組の者が貴方達を探しに玄関のところまでもう来ているんです! 彼らに押し入られてしまうのも時間の問題で……!」
「くそ、こんな時に!」
「頭、ここは私が」
落ち着き払った声で鳥野は進言するが、駄目だと時雨ははっきりと言った。
「お前がここで体力を削る必要はない。それに此処に俺達が宿泊していた事実が露見してしまうと、たとえ今は奴らを追い払うことができても、この先この宿は目をつけられてしまうことにもなりかねん。酷い迫害を受ける可能性だってある。まさに刀杖瓦石。……ここは逃げるのが得策だろう。司殿、裏門などはあるか」
「はい。とっておきの抜け道がございます」
「司殿すまないな、面倒事に巻き込んでしまって。そして白臣殿。悪いが君を留守番させる訳にはいかなそうだ。白臣殿が普通の人間であることは重々承知だが、奴らが素直にはいそうですかと聞いてくれるとは限らん」
「分かりました。瀬崎さん宗志は?」
「ああ、すぐ呼んでくる」
そう言って時雨は隣の部屋に入っていったが、すぐに戻ってきた。彼の手には刃の部分が布で包まれた槍が握られている。彼の身長よりも長い物だ。
「宗志の奴もいなくなっている。……まあ、あいつなら上手くやるだろう」
「え……!? 僕探してきます!」
「大丈夫だ、白臣殿。あいつは頭も切れるし腕も立つ。まさに一人当千。心配は不要だ」
「でも……」
それでも納得のいかない白臣はきゅっと唇を結ぶ。不安な思いで顔を曇らせている彼女を安心させる様に優しく笑いかけて時雨は口を開く。
「あいつが烏合の衆の那智組にやられる訳なかろう。しかも奴らの頭領は不在だろうしな」
「土岐という男ですか」
「ああ。あいつがいれば宿に押し入る様な無粋極まる真似、狂悖暴戻な行為はさせんだろう」
時雨の言う通りだと思い白臣も頷いた。宗志にとって那智組はおそるるに足らない集団でしかない。それは自分がいなければなおさらだ、と彼女は少し自虐的な思いを抱く。
そんな白臣の思いに気づいたのか時雨は彼女の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。その時、女中の悲鳴の様な叫び声が聞こえた。
「司さん! もう無理です! 早く!」
三人は同時に頷くと司の背中に続いた。部屋を出て廊下を走り抜ける。そして少し走ったところで四人はとある部屋に入った。司はその部屋の襖に真っ直ぐ向かっていきそれを開けた。そこを開けると地下に続く階段があったのだ。彼は手早く手燭に立てた蝋燭に火をつけると時雨に手渡した。
「ここはもしもの時に瑞子を逃がすための道なんです。宿の裏に続いています」
「ありがとう、司殿!」
それぞれが礼を言いながらその階段を駆け下りていった。その背中を司は見送ってから襖の戸を閉めようとした時だ。階段の一段目に群れ飛び鶴の文様の巾着袋が落ちているのに気が付いた。
「お頭さん達の達の誰かが落としたのかな……?」
機会があったら返そう、と司はそれを拾い襖を閉めて瑞子達の元へと走っていった。
「足元気をつけろ!」
細く暗い地下道に時雨の声が響いた。階段を下りきると平坦な道が続く。そこを三人は時雨を先頭に駆け抜ける。三人の足音がやけに大きく響く。
そして走り続けるとその道は行き止まりとなっていた。時雨は他の二人を制止する。白臣が辺りをぐるりと見回すと天井を見上げたところで視線が止まった。どうやら天井に隠し扉があるらしい。
二人が止まったのを確認して時雨は額の包帯を首までずらした。
「頭、外の様子は?」
「あれは……くそ、那智組の者か。ざっと八人……いや十人ほどだ。仕方あるまい。お前達、気を引き締めろ」
鳥野と白臣は静かに頷く。そして白臣は刀に手を掛け、鳥野は懐に手を入れたその時だ。ふっと時雨は笑ったのである。不思議そうに顔を見合わせる二人に彼は口元に笑みを湛えたまま口を開いた。
「俺達の出る幕はまだ先になりそうだ」
そう言って時雨は槍の刃と反対の部分である石突きで天井にある隠し扉を押し上げるようにして開けた。そこから光が雪崩込んできて、あまりの眩しさに白臣は目を細める。
時雨はひょいっと飛び上がってその穴から地上へと出た。首を傾げながらも鳥野はそれに続く。そして白臣は二人に手を貸してもらい、なんとか地上へと出ることが出来た。
地上へと出た白臣の目に入ったのは気絶して倒れている那智組の者達と、その中で気だるそうに首を回している宗志の姿だ。彼は三人にちらりと視線を向けるとぶっきらぼうに口にする。
「……安心しろ。こいつらは俺がここに泊まってたなんて知りやしねぇよ」
「なんだ宗志。朝早くから熱心だな! まさに率先躬行!」
「別にそんなんじゃねぇ。厠に行くついでだ」
「……そうか」
「何にやにやしてんだよ」
むっとして睨む宗志に時雨は品のある女性の様に口元に手を当てて笑った。そして裏声で口にする。
「この子ったら本当に素直じゃないんだから。しぐ子は全てお見通しよ」
「……そうか。お前女になるなら足の間にぶらさがってるもんたたっ斬る必要があるな」
「ちょっ……冗談ではないか! まさに滑稽諧謔! 聞こえてるか? 宗志くーん? 刀仕舞おうか、ね?」
「頭、今はそのような事をしている場合ではないかと」
「なら鳥野! 宗志の気を静めてって……いやぁあああああ! 宗志、お前本気で刈り取るつもりか!」
大事な場所を手で庇いながら逃げ回る時雨。二人の間に入ったのは、 白臣と鳥野だ。
「宗志も瀬崎さんも落ち着いて下さい! 那智組が近くにいるんですから!」
「頭も宗志さんも落ち着いて下さい。そして頭、良い機会です。一物捨ててしまいなさい」
「鳥野!?」
何だかんだでとりあえず二人は落ち着いたようである。時雨はこほんと咳払いをして両目を閉じた。額の目だけがぎょろりと動いている。
「頭……?」
「今、理叶殿を探している。……ん? あれは……」
「見つかったのですか!」
「……まだ……いや、あれは理叶殿だ! 方角は西! 理叶殿は……気を失っているのか、そうじゃないのか……何者かに担がれている。あれは……蝉だ!」
そう言ってから時雨は両目を開ける。険しい顔をして額に包帯ではなく額当てを巻いた。それは南燕会の紋章が刻まれた物である。
「恐らく、蝉の者は理叶殿を連れ戻しにきたのだろう。那智組に俺らの居場所を漏らしたのも蝉かもしれん」
「彼らが頭の視野から外れるまでどのくらいでしょうか?」
「そう長くはない。奴らの足の速さだと長くて半刻程だ。まさに転瞬倏忽」
時雨はそうはっきりと断言してから宗志と白臣へと顔を向けた。
「お前達は御潮斎の巫女を探しているのだろう?」
「はい。神庫国に向かう予定です」
「神庫国……海を超えるのか。随分と長い旅になりそうだな。まさに兆載永劫。宗志、白臣殿。体には気をつけるんだぞ! 拾い食いして腹壊したりするんじゃないぞ! また何処かで会おう!」
そう早口で時雨は言い、鳥野はぺこりと頭を下げると凄まじい速さで走り去っていった。宗志と白臣は土埃に包まれる。
そして土埃が落ち着いた時には時雨も鳥野の姿も見えなくなっていた。暫く宗志と白臣はそこに立っていたが、彼は気だるそうに首を回すとくるりと向きを変えて歩き始める。だが白臣は動かずに時雨と鳥野が向かって行った方をただただ見つめていた。
「何やってんだ、置いてくぞ」
「あ、うん……」
白臣は先を歩く宗志を追いかけ横に並ぶ。そして二人は無言で歩き続けた。
少し時間が流れる。二人の間を押し浸している沈黙を破ったのは宗志だった。
「いつまでしけた面してんだ、お前は」
「だって……。ねぇ、宗志」
「あ?」
「大丈夫、だよね……? 瀬崎さんも鳥野さんも大丈夫なんだよね……? 理叶も酷い目に合わされたりしないよね……?」
宗志は黙っている。白臣の心には不安が重くのしかかっていた。彼女の口からは堰を切ったように不安が溢れ出す。
「純血の鬼って強いんだろう……? 瀬崎さんも鳥野さんも強い事は知ってるけど……純血じゃないんでしょ……? 二人とも大丈夫なんだよね……? 理叶も理叶の妹さんも蝉から出れるんだよね……? みんな怪我しないよね……? ……誰も死んだり、しないよね……?」
静かに宗志は息を吐き出して立ち止まった。そして突然翼を広げたかと思うと、いきなり隣にいた白臣を脇に抱えたのである。
「宗志、え……!?」
「しけた面した奴を連れ回す趣味はねぇんだよ。……大人しくしてろ」
そう言うかいなや物凄い勢いで上空に上がる。そして歩いていた方向とは真逆の方角へと飛んで行った。もちろん時雨達が向かった方角である。
二人を急き立てるかのような追い風に乗り、宗志は力強く黒い翼を羽ばたかせたのだった。
時は少しばかり遡る。宿の門を押し破った那智組の者達は宿の玄関にまで押し寄せていた。今にも土足で宿に上がりそうな勢いの男達を止めたのは、宿の女将である瑞子である。
その那智組の男達と瑞子の睨み合いが続いていた。宿の者達は彼女の後ろで不安そうに視線をさ迷わせている。彼らの顔は怯えの色で染まっていた。その中で瑞子だけが凛とした顔をしている。
那智組の男達の中から一際態度がでかい男が一歩前に出ると瑞子を見下ろした。彼女も負けじと睨み上げる。
「聞いているのか、貴様! ここに南燕会の頭領と天狗がここに潜伏していると情報が入った! さっさと我々を通せ」
「ここにそんな奴らいないよ。それにここは旅の者を癒してやる宿屋だ。あんたらみたいなのに踏み荒らされちゃ困るんだよ」
「なんだと!?」
「いいかい。ここは宿屋だ。金さえ払ってくれさえすれば化け物だろうが殿様だろうが、地獄の閻魔様だろうが死神だろうが泊めて饗すのが宿屋だ。それをあんたらにとやかく言われる筋合いはないんだよ。旅の疲れを癒しているお客様の邪魔をするような無粋なあんたらを通すわけにはいかないね」
「き、貴様……! 女風情が生意気な!」
その男は瑞子を突き飛ばした。不意を突かれた彼女は体勢を崩してしまう。その時、宿の者達の間を割って入って来た人影があった。その人物は後ろから倒れそうになった彼女を支えている。




