【第三十一話】眞紅の言葉
いきなり司は声にならない悲鳴をあげた。足はがくがくと震え、今にも座り込んでしまいそうな程である。震えた唇は金魚の様にぱくぱくと開閉していた。顔に恐怖が表れている。彼の目はどうやら宗志に向いてるらしい。
「あ、貴方は……貴方様は……て、て、天狗のそ、そ、そ……! す、すみませんでした……! い、命だけは……命だけは……! 死にたくない……! 私はまだ……死にたくなあああぃいいい!」
「はあ?」
いきなり大声を上げたかと思うと、司はとうとう地べたに額をつける勢いで土下座をし始める。その姿に周りの通行人の怪訝な視線が四人に注がれる。
白臣は那智組を呼ばれてしまわないか冷や冷やしていたが、通行人達は怪訝そうな顔をするだけで足早に通り過ぎて行った。時雨は怯える司に笑い声を上げると彼の顔を上げさせて立たせた。
「本当に司殿は相変わらずだなあ。大丈夫だ、宗志は貴方を取って食ったりしないぞ」
「ほ、本当ですか……? 主食は、人肉だと……視界に入った者全て斬り殺すお方であると……き、聞いていたのです、が……ッ!」
再び腰を抜かしそうな司の怯えっぷりに、さすがに宗志もむうと口をへの字に曲げる。時雨は笑いながら宗志の背中を数回力強く叩く。白臣も堪えきれずくすくすと笑い出す。
「……お前ら何が面白いんだよ」
「僕も那智組の本拠地に入った時、そこの人達が宗志のこと大木よりでかいとか、全身鋼の毛で覆われてるとか言ってたよ」
「安心しろ司殿! 俺は宗志と出会って次の日に、こやつが風呂で蒸されてる間、こやつの褌と着替えを女子の部屋に放り投げてやったが半殺しで済んだぞ!」
いやー半日は確実に布団から出れなかった、と時雨は声高らかに笑っている。そこでやっと司の震えは止まり、表情からも怯えの色が消えた。
そして時雨は今度は司の背中を数回叩く。
「司殿はこんなんでよく瑞子殿の旦那をやってられるものだなあ!」
「はい、いつもいつも怒られてばっかりです。息子も瑞子に似て、やんちゃでやんちゃで……」
「司さんも南燕会の方だったんですか?」
なんとなく口にした白臣の問に、司は首が取れてしまいそうな勢いで首を横に振った。
「と、とんでもない! 私は生まれも育ちもあの宿です」
「司殿と瑞子殿との馴れ初めを聞きたいのか、白臣殿? 聞きたいよなあ、白臣殿! 南燕会での仕事で瑞子殿がこの国に行く途中でな、彼女は那智組に出くわしてしまったんだ。瑞子殿程の女子なら那智組を追い払うぐらいどうってこと無いのだが、運悪く足を怪我してしまったんだ。まさに絶体絶命!」
「そこで那智組の追っ手から足を引き摺って逃げていた瑞子を私が連れ帰ったんです」
「瑞子殿が言ってたぞ。司殿は何もしてないのに土下座しまくってたと」
「今の瑞子も充分怖いんですけど、あの時はもう……今でも思い出すだけで鳥肌が……」
当時を思い出したのか司はまた震え出す。時雨は遠い目をしてから一人納得する様な顔をした。
「あの時の瑞子殿の人間嫌いは南燕会でも激しい方だったからな。まさに不倶戴天。その瑞子殿が純人間の男と所帯を持つようになるとは、非常に感慨深いものだ」
「ええ。あの時の瑞子は私の顔を見た途端に頭からは角が生えてくるわ、目を吊り上げて睨みつけてくるわ、本当に怖くて怖くて……終いには部屋をめちゃくちゃにするわで……」
「それでも司殿は瑞子殿の看病を続けてくれたのだよな」
「はい……。最初は怖かったんですけど……鬼と人間の混血なんて初めて見ましたし……でもなんていうか、これを言うと瑞子は怒ると思うんですけど、〝桃〟を思い出したんです」
桃? と首を傾げる白臣に、司は少し目を大きく見開いて説明を付け加えた。
「桃というのは私が子供の時に飼っていた猫です。桃が近所の子供達に虐められて弱っているところを私が拾ってきたんです。桃も大の人間嫌いで、ご飯あげようとしても引っ掻いてくるわ噛みついてくるわと大変でして」
「その人間嫌いの猫に瑞子殿が似ていると」
「はい。ある時気づいたんです。桃は人間が嫌いである以上に、人間を怖がってるだけないんじゃないかって」
時雨は小さく相槌を打つ。司は優しい目をして言葉を続けた。
「瑞子も同じなんじゃないかなって思ったんです。そんな自分を周囲に悟られてしまわないように、自分自身気づかないふりをして強がってだけなんじゃないかなって。そう思ったらなんだかとても……」
そこまで喋ると司は頬を赤らめた。そして一旦俯いてから少しして顔を上げる。先程よりは頬の赤みは薄くなったようだ。
「すいません、長々とつまらない話をして。少々お待ちいただけますか。宿の者を呼んでこの米俵を――」
「良いのだ、司殿。俺達にしてみれば米俵の一つや二つどうってことないのでな。まさに自家薬籠!」
任せてくれと言うかの様に時雨は歯を見せて笑った。司は申し訳なさそうに眉を下げる。そしてお辞儀をして感謝の言葉を述べた。
それから四人は宿を目指して歩き始める。歩いていくうちに通りにはだんだんと人が増えていく。終いには少し歩いただけで肩と肩がぶつかってしまう程に通りは人でごった返していた。
うねるような人の流れに飲まれないように四人は足を進めていく。そして自然と司を先頭に、時雨、宗志と続き、最後を白臣というように一列になって歩いていた。
宗志は自分の後ろを歩く白臣にちらっと目を向ける。
「おい、はぐれんなよ。迷子になっちまうから」
「別に僕は一人でも宿に戻れる。それは無用な心配だ」
「……どうだかな」
「笑っただろ、今!」
むすっと拗ねた顔をしている白臣に宗志は口元を緩める。そんな二人のやり取りを聞いていた時雨は笑い声を上げた。
「あの宗志がここまで過保護な男だとは知らなかったぞ! だが、白臣殿相手では無理はない。世話したくなるものだ」
「別にそんなんじゃ――」
「俺も白臣殿の世話をしたいぞ! 食事の世話、排泄や入浴の……痛っ!」
「後ろ見んじゃねぇ。前見て歩け」
「髪の毛! 禿げる、禿げるっ!」
そんな時雨の叫び声も雑踏に飲み込まれたのだった。二人の掛け合いに白臣がくすくすと笑っていたその時。
人と人との間をすり抜けていく様にして向かいから歩いていく人物の姿があった。その人物は編み笠を目深に被り、鋭い視線を周囲に飛ばし殺気を放っている。白臣はその人物を凝視した。
間違いない、その人物は理叶だったのだ。彼は周囲を警戒しながら大通りを外れ脇の路地へと入っていった。
「理叶!」
普通ではない雰囲気の理叶の姿に思わず白臣は叫んだが、理叶は立ち止まることもなく路地の奥へと消えていった。
白臣は心を決め、前を歩いている宗志に気づかれないように気配を殺す。彼女は体勢を低くして人の間をすり抜けて進み、理叶の入っていった路地に足を踏み入れたのだった。
路地裏を白臣は理叶を追って足音を立てない様に進む。そして細い道を出て林の中に入っていった彼の背を見失わない程度に距離を保ち、白臣も林へと足を踏み入れる。
しかし。林に入って少ししたところで白臣は理叶の背中を見失ってしまったのだ。一瞬冷やりとした考えが彼女の頭を過る。
(もしかしたら理叶は僕が跡をつけていたことに気づいたのかもしれない。……撒かれたか? それとも僕を誘きよせて……)
白臣はとっさに刀に手を掛けて神経を尖らせる。彼女は昨晩に宗志が言っていたことを思い出していた。〝臭うんだよ、あいつ〟〝あいつの前で気を抜くな〟と。
そんな時、鋭い気を放つ白臣の耳に入ったのは幼い笑い声だった。
「お兄ちゃん、すごーい!」
「これぐらいどうってことないって」
茂みにしゃがんで隠れ、白臣が様子を覗うと、子供達が大木の根本に集まっている。その木の上の辺りには理叶がいた。
理叶は更にするすると木を登ると太い枝にぶら下がる。その枝の先には朱色の手拭いが引っ掛かってしまっているようだ。そして彼は片手を離し、その手を手拭いへと伸ばす。
その手拭いを理叶が掴むと、子供達の歓声が上がる。それから彼は枝からその幹へと移り、滑る様に下りたのだった。
木から下りてきた理叶に子供達は更に黄色い声を上げる。理叶は照れくさそうに頬を掻いてから、朱色の手拭いを一人の女の子へと差し出した。
「ほら。もう離すんじゃねーぞ」
「うん、お兄ちゃんありがとうっ!」
その女の子は手拭いを抱く様にして持つと、ぺこりと頭を下げた。他の子供達も瞳を輝かせて理叶のことを見つめている。
「お兄ちゃん、あんなにたかい木にのぼって怖くないっ?」
「全然」
「オレも大きくなったら、お兄ちゃんみたいにたかい木にのぼれるようになる?」
「ああ、きっとな」
「わたし、お兄ちゃんみたいな人のおよめさんになる!」
「お嫁さんって、気が早ぇーな」
へへっと理叶は笑う。子供達もきゃっきゃっ、と高い声で笑っている。
茂みからその様子を覗いていた白臣は、理叶のことを疑ってしまったことへの罪悪感を感じていた。彼のあの笑顔に邪気はないと思ったのだ。
宗志達のところへ戻ろう、と白臣がゆっくり立ち上がった時だった。女の子の叫び声が聞えたのだ。
「あぶないよ、そうくんっ!」
「うるさい! おれだってこんな木ぐらいのぼれるし!」
「おい、やめとけって」
周りの子供達や理叶の制止する声も聞かずに、その男の子は大木に飛びつくと登っていってしまう。皆が口々に下りるように言っても、その男の子は耳を貸さずにどんどん登っていってしまう。
そしてその男の子はあっという間にけっこうな高さまで登ったところで止まった。周りの子供達の安堵の息を吐き出している。理叶は上を見上げて大きな声で呼びかけた。
「おーい、大丈夫かあ? 早く下りて来いよー!」
「そうくーん、下りてきてー!」
しかしその男の子は返事を返さない。なかなか下りてこない彼の姿に、子供達の一人が心配そうに言った。
「もしかして、そうくん。怖くて下りられないのかも……」
その子の言葉を裏付ける様に、そうくんと呼ばれた男の子は登ろうとも下りてこようともせずに止まってしまっている。遠目でよく見えないが、その男の子は固く目を瞑っている様に見えた。
「おい、そこで待ってろ! すぐに……あ――ッ!」
理叶の叫び声と子供達の悲鳴が林に響いた。男の子の手が滑ったのだ。体勢を崩した彼の体は真っ逆さまに落ちてしまう。
白臣は思わず茂みを飛び出したが、理叶の方が速い。彼は男の子を受け止める体勢を取ったのだ。
世界の動きが鈍重となったかのようだった。
「痛てぇ……お前、大丈夫かあ?」
理叶は男の子を受け止めた際に体勢を崩し、男の子を腕で抱いた状態で地面に倒れてしまっていた。男の子には特に目立った外傷はないようで、茂みから一歩ほど前に出ていた白臣はほっと胸を撫で下ろす。
しかし、その男の子は理叶の顔を見た途端、凄まじい勢いで彼の腕を振り払い立ち上がった。理叶は訳が分からない様子でゆっくりと体を起こしたが、すぐに男の子の目線の先にあるものに気がついたのだ。
理叶の銀色の髪を隠していた編み笠が、さっきの衝撃で脱げてしまっていたのである。彼は前髪を触った後、転がっている編み笠をちらっと横目で見てから男の子へと視線を移す。男の子の目は理叶も、そして白臣もよく知っている目だった。
それは恐怖と嫌悪で染まった目だったのである。その男の子だけではない。周りにいた子供達みんなが同じ目をしていた。
「こいつふつうじゃない……!」
「気持ちわるい……」
「ひッ……! こっちみないで!」
「ばけものだ! にげろ――ッ!」
誰かがそう叫んだかと思うと子供達は悲鳴をあげて一斉に走り出した。理叶はゆっくり立ち上がり、それを何を言うでもなく見ていた。
その時、子供達の最後を走っていた女の子が足を滑らせて盛大に転んでしまったのだ。前を走る子供達はそれに気づいてないのか、そのまま走っていってしまう。その子は足を挫いてしまったようで、なかなか立ち上がることが出来ないでいた。
理叶はその女の子に駆け寄ると、小さく声をかける。
「……大丈夫か?」
「こないで! 気持ちわるいから……! あっちいって……!」
その女の子は差し出された理叶の手を掴むことなく、やっとのことで立ち上がると足を引き摺りながら、よろよろと走っていった。
理叶はその女の子の背中を見えなくなるまで、じっと見ている。そんな彼の姿は白臣が思っていたよりもずっと小さく見えた。彼女の心に遣る瀬無い想いが重石の様に沈んでいく。
その女の子の姿が見えなくなったところで、理叶はふっと視線を白臣へと向ける。そして決まり悪そうに笑った。
「……見てた、よな」
「……ごめん」
他に何て声をかけて良いか分からず白臣は俯いてしまう。理叶はそんな彼女の反応に、今度は困った様に笑った。
「何でお前がそんな顔すんだよー! 別に俺はこーゆーの慣れてっから平気だって」
理叶は白臣に近づいていくと彼女の顔を覗き込んで、にかっと笑う。白臣もそれにつられる様にして小さく笑ってみせた。
そして理叶はその場所にごろりと横になる。白臣もその隣にゆっくりと腰を下ろした。暫くしてから彼女はぽつりぽつりと言葉を口にする。
「僕もさ、よくああいうこと言われる。気持ち悪いとか化け物とか」
「まあ確かにお前の頭は目立つよなあ。俺には羨ましいけど」
「羨ましいの?」
「だってすげぇーかっこいいじゃん! 俺もどうせならそーゆー色だったら良かったなあー。俺なんか銀髪じゃん? なんか光の辺り具合で白髪みたいに見えてかっこわりぃーもん」
そんな軽口を叩く理叶に白臣は笑い始める。理叶は笑っている彼女を見上げていた。
「でもさ実は俺、この髪好きなんだ。もし仏様って奴が普通の髪色にしてくれるって言ってきても絶対断るわ」
「そうなんだ。僕だったらたぶん……普通にしてくださいってお願いすると思う」
「どうしてだよ! そんなことしたらもったいねぇって!」
「そう……かな? でもなれるなら普通になりたいな、僕は。君は人と違うことを好むの?」
「んー、そういう訳じゃねぇーんだけど。……俺の髪を好きって言ってくれたんだ、母ちゃんと瞳子が」
瞳子ってのは俺の妹なー、と理叶は言葉を付け加えた。そして彼は遠い目をしてから一語一語丁寧に紡ぎ出す。
「俺の髪が星の色みたいで綺麗だって言ってくれてたんだ。もう母ちゃんは死んじまったから会えねーけどな」
「そっか。……妹さんとは一緒にいるの?」
「いいや。今はちょっと事情があって会えてねーんだ。でももうすぐ会える。会えるんだ、瞳子に」
そう噛み締める様に理叶は呟いた。そして急に明るい声で見せたいもんがある、と白臣に言うと自らの懐に手を入れる。そしてそこから小さく折り畳まれた紙をいくつか取り出した。
「これ、瞳子からの文なんだ。いつも少しだけ持ち歩いてる。見てみろよ、白臣! これが瞳子がくれた初めての手紙で……」
一つ一つ理叶はそれを広げ白臣に説明していく。その彼の生き生きとした表情に、白臣の中にあった最後の一欠片の警戒心は綺麗に消え去ってしまっていた。
「これが、瞳子が俺の誕生日にくれた手紙で……こっちのは一番最近にもらったやつ。あいつまだ十三にもなってないのに字綺麗だろ?」
「うん。僕が知らない漢字もたくさん書いてるし、凄いと思う!」
「だろ? 俺なんかミミズが這った様な字しか書けねーのに。ほんとすげーよな! ちなみにさ、瞳子からの手紙は友達になった奴にしか見せねーって決めてんだ、俺」
「……てことは、僕と理叶は友達ってこと?」
「そーゆーこと! 歳も同じみてぇーだしな」
嬉しい、と心の底から嬉しそうに顔を綻ばせている白臣に、理叶は不思議そうにきょとんとした。
「お前、やけに嬉しそーだなあ」
「……僕さ、友達出来たことないんだ」
「へ? 天狗とか頭は? 鳥野さんだっていんじゃん」
「宗志は僕にとって大切な人だよ。だけど……友達って感じじゃないと思う。それは瀬崎さんも鳥野さんも同じ。本当は子供の頃に友達ってたくさん出来るのかもしれないけど……僕が近づくとみんな逃げて行っちゃったから」
「ああ、……そっか」
君は友達多そうだね、と白臣は理叶に言った。彼はぱっちりとした大きな目を更に丸くする。
「あ、ああ。そうだな。……そうだ。今度お前にも俺の友達紹介してやるよ。あいつらいい奴らだし、お前とも年近けぇーし」
「ほんと? ありがとう、嬉しい」
そう言って白臣は微笑んだ。理叶はそんな彼女をまじまじと見つめる。理叶の視線に気づくと、今度は彼女が目を丸くしてきょとんとした。
「……どうしたの?」
「あ、ああ、いや……綺麗だなって思ってさ」
「綺麗?」
「お前の目、お天道さんの光が反射してきらきらしてる。……宝玉みたいだ」
静かな声で理叶は呟く様に言うと小さく笑う。その笑い顔は、泣くのを堪えているようにも白臣には見えた。彼女は正視することが出来ず、目を伏せてしまう。その理叶の笑い方は宗志とよく似ている様に彼女には思えていたのだった。
「おお! 今夜はうけ煎汁か!」
夜、宿の中居に案内された部屋に入るやいなや時雨は嬉々とした声を上げる。そして一つの箱膳の前に座った。その隣の箱膳の前に鳥野は腰を下ろす。そして宗志と白臣は二人に向かい合う様に置いてある二つの箱膳の前にそれぞれ座った。
箱膳の上の大きめの汁椀には、魚のすり身でできた団子がごろごろ入っている。その隣には白いご飯が湯気を立てており、山菜などの和え物や漬け物があった。
白臣は部屋をぐるりと見回して時雨に訊ねる。
「瀬崎さん、理叶はどこにいるんですか?」
「ああ、理叶殿は腹を下しているようでな。厠から出てこれないらしい。まさに至険至難! だから先に食べていてくれと言っていたぞ」
今頃厠と〝お友達〟になっているだろう、と時雨は笑った。だが白臣の隣にいる宗志は不審そうに眉を顰める。そして彼女の前に座っている鳥野も不審げに月明かりが差し込む障子に目をやっていた。
時雨はそんな二人の反応に困った様に笑い、自らのうなじを撫でた。
「鳥野も宗志もそんな怖い顔するな。そんな顔じゃ上手い飯も不味くなってしまうぞ!」
いただきますと時雨は大袈裟に手を合わせた。鳥野ははっと我に返り、取り繕う様に微笑む。だが宗志はさらに眉間の皺を深くしたのだった。
その後、それぞれいただきますと手を合わせる。そして箸を進めていった。
「白臣殿、美味いか?」
「はい、とっても。白いご飯なんて久しぶりに食べました」
「それはそうだろうな。放浪の旅に身を置いているのだから! まさに一所不住! どうだ、白臣殿。俺と愛と体を深め求め合うさすらいの旅に……って怖っ! 宗志冗談だから! 本気じゃないから! 刀納めてってば!」
「……黙って汁の具になれ」
「いやあああああ! 助けて鳥野!」
鳥野に縋りつく時雨。それに対し彼女は仏の様な慈愛溢れる微笑みを浮かべた。
「……助太刀します、宗志さん」
「そんなああああ! 白臣殿、白臣殿だけは俺の味方だよな……!?」
「……頑張ってください」
「そんな……嘘だ……! まさに――」
「四面楚歌」
「鳥野、それは俺の決め台詞ぅうう!」
こんなふうな和やかなやり取りをしていた時だった。ん、と白臣が小さな声を漏らしたのだ。彼女の瞳はとろんとし始め、今にも瞼がくっついてしまいそうだった。身体は振り子の様に小さく揺れ始めている。
そんな白臣の異変に気づいた宗志は、彼女の顔をを覗き込んだ。
「どうした?」
「……なんか、とても眠くて……」
そう呟くと白臣の体はぐらりと大きく傾いた。それを宗志は倒れないように支えてやり、彼女の体をそっと畳に寝かせる。
そんな白臣の姿に時雨も鳥野も心配そうな表情をした。
「白臣殿、どうしたんだ? 流行り病にでもかかってしまったのか……?」
「いや、熱はなさそうだ」
白臣の額に手を当ててから、宗志は自分の額に手を当ててそう言った。彼女の呼吸は少しも乱れてはおらず、寝顔も穏やかである。
疲れが溜まってたのだろう、と時雨が結論づけた時。今度は鳥野の体が崩れる様に傾いたのだ。それを彼は支え、そっと寝かせてやる。鳥野の呼吸も乱れてはいないようだ。
あまりにも普通ではない事態に二人は咄嗟に立ち上がった。そして神経を尖らせる。
「時雨!」
「分かっている」
そう言うと同時に時雨は額に巻いてある包帯を一気に解いた。彼の額には眞紅の瞳が爛々と光っている。
時雨が両目を閉じると額の眞紅の瞳はぎょろりと動きだす。その時。
「上だ!」
そう叫ぶと同時に時雨は宗志を突き飛ばす。宗志はその衝撃で畳に腰を打ちつけてしまった。箱膳はひっくり返り、残っていた汁が畳に染み込んでしまっている。
宗志が時雨の方を見ると、彼の体は糸が切れた傀儡の様に倒れてしまった。彼も苦しそうな様子は見当たらない。部屋には三人の穏やかに寝息が響いている。
瞬時に立ち上がった宗志は一気に刀を抜いた。そして天井を木っ端微塵に叩っ斬ったのだ。ばらばらと落ちてくる木の破片。それと共に落ちてくる人影があった。その人物は空中で体勢を整えると綺麗に着地する。月に照らされた髪が鋭く光っていた。




