【第二十話】握らせた偽り
「椿の死罪が再度決定した」
それを聞いて葵は反射的に振り返る。葵は頭を鈍器で殴られた様な衝撃を受けた。その反応に吉橋はにんまりと満足げに口元を更に吊り上げる。
「私も酷く悲しく思うぞ。椿の事を我が妹の様に思っていたのだからな」
「吉橋様。椿にはお侍様やお貴族様の助命嘆願の署名があるのですよ……! いくら、いくら貴女様でもそれを無下には出来ないはずです」
「随分と失礼な物言いだな。それではまるで私が椿を殺したがってるみたいではないか」
「……違うと仰るのですか」
「さあな。しかし長かった。私がどれほどこの後ろ盾を得るのに苦労したことか。どこの後ろ盾を得たか知りたいか」
無言で葵は吉橋を睨みつけた。吉橋は愉快そうに笑みを浮かべている。その表情に葵は嫌な予感で体が痺れるのを感じていた。
「葵、お前に教えてやろう。茅高家だ」
「そんな……!」
葵は悲鳴じみた声を上げた。茅高家というのは摂関家の次に権力のある家である。吉橋は京に数年ほど長期滞在をして、ひと月程前この村に帰ってきたのだ。茅高家の下文のがあれば、殆どの武士や貴族の助命嘆願の署名などを無効に出来るのである。
「椿は優秀な巫女だ。生かしておけぬのは非常に残念でならぬ。私はあいつに期待しておったというのに。なあ、葵。話は変わるがお前は私達を欺いておるな?」
「……何の事でしょうか」
「あんな気味の悪い髪と目の色をした子供、何人もいるわけない、そうは思わぬか葵。しかもその子供は藤生藍介という侍と共に暮らしているとか。そいつは確か、椿と至極親しい仲だったと私は記憶しているのだが」
「……私はあの日、自らの手で椿の子を殺しました。それは何かの偶然でしょう。世は広いものですから」
「そうか、それならばかまわん。お前が言っている事が誠であるならな」
動揺を悟られない様に葵は真っ直ぐ吉橋を見つめる。吉橋はそんな葵の心内を見透かす様に目を細め、低い声で言葉を紡いだ。
「椿を助けたいか、葵よ」
「……何をお考えなのですか」
「お前は私を疑っているのか? 言ったであろう、私は椿やお前を我が妹の様に思っていると」
含みのある笑みを浮かべたまま吉橋は懐に手を入れ、ある物を取り出して葵に突き出した。それは鞘に納められた短刀である。吉橋の瞳にぞっとする様な光が宿った。
「……殺せ」
「どなたを……」
「椿の想い人である奴だ」
「それって……」
「そう。藤生藍介だ」
吉橋は葵に近づいていき、彼女の手を取ると短刀をしっかりと握らせた。
「もしお前が屍と化したそやつを私に捧げたならば、椿の身の安全は保証してやろう。そうだな、椿を座敷牢から解き放ってやっても良い」
「……話が見えません。彼の死が吉橋様に何の利点があるのですか」
「大ありだな。そもそもあの藤生という侍が椿を贔屓したからいけぬのだ。大国の重臣が贔屓している巫女がいるとなれば、その下の位の侍達はその巫女を贔屓するに決まっている。武家で評判の巫女がいるとなれば、貴族の者達はその巫女が優れていると勘違いをするに決まっている。大方それが狙いで椿はあの侍に近づいたのだろう。呆れるほど強かな女だ」
椿が藍介を利用するために近づいた、という吉橋の物言いに、葵は険しい顔をする。それとは対照的に吉橋は鼻歌でも歌いだしそうな顔をして懐に手を入れた。
「疑い深いお前のために、見せてやろう。茅高家の下文を」
そう言いながら吉橋は懐から取り出した下文と思われる物を、小さくひらひらと振って見せた。それはきちんと丁寧に折り畳まれており、茅高家の家長である者の名前が書かれている。
「どうだ驚いたか。さあ、早く選べ。椿の命か藤生藍介の命か」
「しかし……」
「まだ迷っているようだな。では、そうだな。藤生藍介と共に暮らしている童をこの村で引き取ってもかまわんぞ。お前の話が本当ならば椿とその童に血の繋がりはないようだがな。しかし愛する者と子を亡くた椿の慰めとなるだろう」
葵の述べた事が偽りであると吉橋は看破しているのだろう。つまり吉橋が言いたいことは、この村で椿とその子が共に暮らす事を許してやる、という事なのだろうと葵は捉えた。吉橋は直ぐに返事を返さない葵に溜め息を吐くと、こう口にする。
「まあ良い。だが今夜までにはお前の意志を知らせろ。もし藤生という侍の元へ行くのを決めたならば、そやつがいる村を教えてやろう。そして旅立つのなら早めにしろ」
「……はい」
「あと他にも椿を救ってやりたいと思っている巫女がいるだろう。そいつらを全員連れていけ。もしもの時には心強いだろう」
冷笑を浮かべながら吉橋はそう言い捨てると葵に背を向けて歩いていった。葵はその背中が見えなくなるまで見つめた後、渡された短刀を握り締める。そしてそれを懐に仕舞いその場を後にした。
廊下を歩きながら吉橋の言葉が頭の中で、何度もちらついては消える。そして葵は自室に入って腰を下ろすと瞳を閉じて考えを巡らせた。藍介の顔、そして最愛の妹の顔を思い浮かべる。藍介と椿とその子供が三人が幸せそうに寄り添う図が自然と頭に浮かんだ。こんな事を夢見るのも最期になるだろうと葵には分かっていた。
そして葵はゆっくりと瞼を開く。その瞳にはもう迷いはなかった。
「……私は椿を助けたい」
小さい声でぽつりと葵は呟いた。藍介の命と引き換えに椿が助かったとしても椿が絶対に喜ばないことも、それは椿を失いたくない自分の身勝手な決断だとも、葵には全部分かっていたのだ。
もし椿がこの事を知ったら、憎まれるかもしれない。恨まれるかもしれない。二度と今までの様に笑い合えなくなってしまうかもしれない。それでも葵は椿が殺されるのを黙って見ていることなど出来なかったのだ。
葵は懐から吉橋に渡された短刀を取り出し、それをじっと見つめてからぐっと握り締めた。更に決意を固める様に強く強く。彼女の瞳には一つの意志しか宿ってはいなかった。
その後、葵は椿を助けたいと思っている巫女を集め、吉橋から告られた事を洗い浚い全て話す。彼女達はそれぞれ様々な反応や表情を見せたが、葵の決意に同意し共に行くことを決めたのだった。
そして葵は吉橋に意志を伝え、明日の早朝に出発する事になったのである。
まだ少し肌寒い春の朝、葵は自室で準備に取り掛かっていた。昨日渡された短刀をしっかりと懐にしまう。そして引き出しを開けて吹き矢を手に取った。
それは同期の巫女である志穂が内密で市場から取り寄せた物で、その針には蝶化人という妖怪のりん粉を元にした毒が塗ってあるのだ。その針が刺さればどんな人間でも眠りについてしまうのである。
葵達は藍介の剣の腕は一流であるという話は前々から聞いていた。そんな相手にただの巫女が真っ正面から仕掛けても結果は火を見るより明らかである。そこで葵と志穂は、この吹き矢を使って藍介を眠らせてから、短刀で心臓を一突きするという計画を立てたのである。それを葵は昨夜から何度も何度も頭の中で再現していた。失敗は許されないからである。
そんな時。葵様、と障子の向こうから声が聞こえてきた。葵が返事をすると、障子が半分ほど開けられる。
「こちらの支度は全て整いました」
「……分かったわ。行きましょう」
葵は静かに立ち上がり、自室を後にした。
広場に行くとそこは四十人程の巫女と四十頭程の蛇笏馬が並んでいる。蛇笏馬というのは妖馬の一種で、全身はこの世のものとは思えぬほど白く輝き、尾が本来生える部分には白い蛇が生えているのだ。蛇笏馬は別名〝時をかける馬〟とも呼ばれ、陸続きである場所であれば半日もかからずに何処にでも行く事ができるのである。
本来ならば蛇笏馬は超高級馬で、四十頭も集める事など帝や摂関家、はたまた大国を治める大名の財力を持ってしても不可能と思われる事だが、何百年も昔、この村の巫女達が帝から褒美として授けられた二頭の蛇笏馬を上手く繁殖させ、ここまで頭数を増やす事に成功したのである。
葵が蛇笏馬に乗ろうとした時。彼女の耳に自分の名前を呼ぶ声が入り、はっとして振り返った。
「大婆婆様!」
「葵、本当に……行ってしまうのか」
「ええ。もう決めた事ですから」
「すまんのぉ……お前の綺麗な手を汚させる羽目になってしもうて」
「大婆婆様、お気になさらないで。私は大丈夫ですから」
「この老い耄れが代わりになれたらええのに……」
「駄目よ、大婆婆様。遠出なんかなさったらお体に悪いわ」
「しかし……そうじゃ、これを持って行け。御守り代わりになるじゃろう」
手渡された物は、正式に巫女になった事を証明する首飾りだった。これは振背村だけの風習であり、その首飾りには異国から渡来した美しい石があしらわれているのである。
それを葵は礼を言って受け取り、自らの首にかけた。そして、行って参ります、とその短い言葉に万感の思いを込め小さく一礼をする。
そしていよいよ出発の時。今度は別の方向から葵の名を呼ぶ声がする。そこには同期の巫女である志穂がいた。彼女の手には麻縄と折畳んだ分厚い布がある。それは遺体を包んで持ち帰るためのものだ。
志穂は心配そうに眉を顰めている。
「葵、椿には会ってきたの……?」
「いいえ。会おうと思ったけど止めたわ。だって会わせる顔がないもの」
「……ねぇ、やっぱり代わろうか」
「心配は無用よ。貴女がついて来てくれるだけで心強いわ」
まだ納得のいかないような表情を浮かべている志穂に、葵は小さく微笑みかけた。
そして蛇笏馬の背にしっかりと鞍が設置してあるか確認してから、馬に乗った時に足を掛ける部分である鐙に左足を掛ける。その後、両手で体を引っ張り上げるようにし、右足を大きく上げて馬体を跨いだ。そして馬を落ち着かせるために、優しく首あたりを撫でる。
葵が馬に乗ったのを合図に他の巫女も次々と馬に跨った。葵は周りの巫女の準備が整ったか辺りを見回して確認する。
「行きましょう」
「はい!」
四十人程の巫女が一斉に返事をする。そして葵を先頭に蛇笏馬を南西の方角に走らせた。
馬の速度は徐々に上がっていき、前方の景色が矢の様に後ろへ飛んでいっては消えていく。振り落とされないように馬の首にしがみつくので精一杯だ。
次第に光の靄で視界がいっぱいになっていく。そして完全に視界の全てが真珠色の光で埋め尽くされた時、右と左も、天と地さえも分からなくなっていた。現実と夢の狭間にいるような感覚に葵は目眩と吐き気を覚える。それでも馬の速度を落とすことはせず、光の中を駆け抜けたのだった。
「着いた……ようね」
ぽつり、と葵は蛇笏馬から下りながら呟いた。太陽が真上よりも少し東に傾いていることから、まだ正午にもなっていないことが分かる。
葵は気だるい体に酸素を取り込むように大きく息を吸って吐いた。蛇笏馬に乗っていた時間は、ほんの一瞬だったような、何ヶ月も乗っていた様な奇妙な感覚を感じていたのである。
彼女達が着いたのは、藍介が子と共に住んでいるという村の隣にある宿場町だ。大勢でその村に行ってしまうと藍介に気づかれてしまい、取り逃がしてしまう可能性があるからである。なのでここからは葵が一人で藍介のいる村へ向かう事となった。葵は心配そうに顔を曇らせた志穂に大丈夫だと笑って見せ、宿場町を後にしたのだった。
吉橋から受け取った地図を頼りに歩いていくと、村の端の方に小さな家があった。地図が正しければ、この家が藍介達の家だ。葵が家の中を覗こうとした時。戸の方からばたばたと物音が聞こえ、葵はとっさに近くの茂みに隠れた。
戸が開いて出てきたのは、間違いなく藍介と赤い髪の椿の子であった。だが、椿の子の性は女である。なのに葵の目の前にいる童は男である様な装いをしていたのだ。葵は不思議に思い首を傾げた。
赤い髪の童は翡翠色の瞳を輝かせて元気な声を上げる。
「父上! 行ってきますっ」
「行ってらっしゃい。日が暮れる前には帰ってくるんだよ? あと、川より向こう側には行っては駄目だからね」
「はいはーいっ!」
「こら。返事は一回でよろしい」
「はい!」
ぶんぶんと手を振っている我が子に、柔らかい微笑みを浮かべて藍介は手を振り返している。そしてその子供が背を向けてからも藍介はその場に留まり、見守る様にその背中を見つめていた。
狙うなら今しかない、と葵は藍介の首に向けて吹き矢を構える。吹き矢は彼女が幼少の時から訓練してきたものだ。自信なら有り余るほどである。ここで外したら次はない、と覚悟を決めて彼女は吹き矢を放った。
「そんな……!」
思わず葵は声を漏らした。藍介の首に刺さるはずであった吹き矢の矢は、彼に人差し指と中指の間に挟む様にして受け止められたのである。
藍介はその矢を手で扇ぐようにして香りを嗅ぎ、なるほど、と呟いて葵がいる茂みの方に向き直った。
「一瞬、黄泉の国から椿が迎えに来たのかと思っちゃいました。……どうなされたのですか。貴女には似つかわしくない物をお持ちのようですが。ねぇ、葵さん」
そう言って藍介はにっこりと微笑んだ。もう計画を続行するのは不可能であると悟った葵は、茂みから出て小さく一礼する。申し訳なさで藍介の顔を真面に見ることが出来ない。そんな椿に藍介は微笑みを困った様な笑みへと変えた。
「何か深い訳があるのでしょう。ここではあれですから場所を変えませんか。本当は家に通すべきだとは思うんですけど……先日頂いた食べ物の整理がついてなくて。申し訳ないのですが、家の裏まで来て頂けませんか」
藍介はそう言うと葵に背を向けて歩き出した。その後を葵は続く。前を行く藍介に斬りかかったところで勝ち目など無い事は、葵には解っていた。
家の裏へと回ると藍介は振り返り、穏やかな声で葵に事情を尋ねる。葵は目を伏せて言おうか言わまいか迷ったが、藍介に再度尋ねられ、意を決して全ての事情を話し始めた。
椿が本当は生きている事を葵が告げると藍介は心底嬉しそうに顔を綻ばせたが、椿が幽閉されている事を話すと藍介は表情を曇らせる。葵が全ての事を話し終わるまで藍介は目を閉じて静かに聞いていた。
そして葵が全てを話し、口を閉じた時。藍介はゆっくりと瞼を開き、ふわっと葵に微笑みかけた。
「事情は良く分かりました。つまり私が死ねば椿は自由の身になり、しかも白臣……娘と共に暮らす事が出来るという事なんですね?」
「……はい」
「ならばこの命、喜んで貴女に差し上げましょう」
驚きのあまり葵は目を見開く。そんな彼女に藍介はふふっと笑ってから、どこか憂いを感じさせる眼差しで彼女から視線を外した。
「私は椿の娘、あの夜に貴女から託された子供を〝白臣〟と名づけて今日まで育ててきました。本当は普通に女の子として普通の生活をさせてあげたかった。けれどこんな世がそれを許してはくれなかった。……なんてただの言い訳ですよね」
そこで藍介は言葉を切った。そして眩しそうに空を見上げている。空には煙の様な薄く白い雲が流れていた。
藍介は視線を葵に向けると再び口を開く。
「白臣を母親である椿と共に暮らせるようにしてあげる事が、私が父親としてあの子にしてあげられる最初で最後の事だと思うんです」
「でも……!」
「大丈夫ですよ。貴女の手を汚させる様な真似はするつもりありませんから。受け取ったという短刀を貸していただけませんか。私が腰の物でもいいのですが……その短刀に血の臭いがつかないと、貴女が手を下したかどうか怪しまれてしまうかもしれませんし」
短刀を貸してください、と藍介は微笑みを浮かべたまま葵に再度頼んだ。その口調は穏やかでありながら、有無をいわせないようなものである。葵は震える手を懐に入れ短刀を取り出す。そしてそのまま藍介に渡そうとする……が、すぐに手を引っ込めてしまう。そんな葵の様子に藍介はきょとんと不思議そうに彼女を見つめた。
少しの間、葵は俯いて、じっと黙り込む。藍介は彼女に落ち着いた眼差しを向けて彼女が口を開くのを待っていた。
静かな時が流れる。漸く葵は顔を上げて言葉を紡ぎ始めた。
「……これを、この短刀を貴方にお渡しする事は出来ません。……貴方を、椿が愛した貴方を死に追いやりながら、自分の手さえ汚さないなんて……」
「葵さん、貴女は何もしなくていいのです。私だって椿を助けたい想いは貴女に負けないくらいに強いものだ。それに、私とて武士の端くれです。忠義のため何人もの人を斬り、何人もの人を殺めてきました。今更、自分を殺める事に迷いも躊躇いも無いのです」
葵は静かに首を横に振る。そしてしっかりと藍介の瞳を見据えて口を開く。
「それでも、この短刀をお渡しする事は出来ません。私がやらなければならないんです。……そしてこの罪は生涯、いいえ、地獄の業火で灰となるまで背負っていきます」
その言葉に藍介は少し目を見開き、その後すっと目を細めた。その葵の姿は椿と非常に重なって見えたのだ。もともと二人は双子であるので姿かたちは非常に似ており、それは何ら不思議な事では無い。だがその事は彼を驚かせるものだった。
ふふ、と藍介は小さな笑い声を漏らす。そんな彼の様子に葵は何か見当違いな事を言ってしまったのか、と視線をさ迷わせた。
「葵さんもご存知だと思いますが、椿は一度こうと言ったら絶対に曲げないんです。やはり姉妹なんですね」
藍介にとって葵は天真爛漫な椿と比べると、だいぶ大人びているように見えていたのだ。二人は姿かたちが等しいだげで性分については対極的であると思っていたのである。どうやら根っこの部分は同じであったようだな、と藍介は懐かしく恋焦がれる想いを抱いたのだった。そして藍介は葵の強い意志が宿る瞳を十分に見つめ、しっかりとした口調で彼女に告げる。
「分かりました。お願いします」
「……はい」
「あ、ちょっと待っていただけませんか」
短刀を震える手で鞘から抜く葵に藍介はそう言うと、彼女に背を向けて少しばかり歩いて行った。そして直ぐに戻ってくる。右手には黄色い花が一本握られていた。
「藍介さん、その花って……」
「菜の花です。椿が好きでしょう、この花。あの世とやらは花々で溢れているとは聞きますが、菜の花があるかは分からないじゃないですか。だからこれをあちらに持って逝けたらと思いまして。そしていつか椿が天寿を全うして、あちらで逢う事ができた時には渡したいなぁと思うんです」
心底その時を待ち望んでいるかの様に微笑んでいる藍介を葵は見ていられず、握っている短刀に視線を落とした。鼓動が体の先まで響き、唇がふるふると震え出す。そして刃先を藍介の胸へと向ける。その動作だけで体の力を全て使い切ってしまったかの様に、短刀を握る両手に力が入らない。
藍介は穏やかな微笑みを少しも崩すことなく、短刀を握る葵の手を左手でしっかりと握った。
「……葵さん、貴女が私を殺したとしても貴女の清い手は汚れる事はないでしょう。そして貴方は地獄に堕ちる事もないはずだ。だって神様や仏様は慈悲深く、悟っていらっしゃるのだから。貴女は正しい事をなさろうとしています。だからどうかご自分を責めないでください」
握る手に藍介はそっと力を込める。葵は涙を堪えて唇を噛み締め、彼の顔を見つめた。
「葵さん目を閉じてください」
「……はい」
「そう、それでいいのです。後はその手を真っ直ぐに突き出すだけだ」
「……はい」
「最後に、椿と白臣を……頼みます」
歯を食いしばり葵は手を突き出した。震える両手には生暖かいものがかかり、葵の手をしっかりと握っていた藍介の手は力が抜ける。そして葵はそのまま短刀を真っ直ぐと引き抜く。暫くして彼女は恐る恐る目を開けた。
藍介の胸の傷口からは、どろりと夥しい血が吹き出ており、さっきまで優しい口調で話をしていた彼は、もうぴくりとも動かなかった。
どっと溢れる涙と共に込み上げる吐き気に葵は襲われる。罪悪感なんて言葉では片付けられない、心臓を鷲掴みにされ捻り潰される様な痛み。彼女は声にならない悲鳴を上げ、茂みに駆け込んだのだった。
……どれほど茂みの中にいるのだろうか、と葵は血に染まった自らの両手を呆然と見つめながら考える。早く他の巫女を呼ばなければならない、早く藍介の亡骸を誰かに見つかる前に運ばなければならない、そう頭では理解できるものの体が動いてはくれなかった。
その時だ。震えた叫びが葵の耳に入ったのである。
「……嘘だ……父上……父上!」
しまった、と思い葵が茂みの中から覗き見ると、白臣が藍介の亡骸を目の前にして呆然と立っていた。そうかと思うと、そのまま崩れる様に倒れてしまったのだ。葵が茂みから出て白臣の元へ駆け寄ると、朱に染まった父親を目にした衝撃が原因なのか、気を失ってしまっている。
葵は白臣の体を起こしてやると、顔や手に着いてしまった血を拭き取った。そしてそのまま抱き抱え、ひとまず家に運ぼうとした時だ。あるものが葵の目に止まった。
藍介の懐から紐のような物がはみ出ているのだ。葵は抱き抱えた白臣をいったん地面にそっと寝かせると、その紐を引っ張り出す。
それは葵の見覚えのある首飾りだった。それもその筈、これは椿の首飾りだからである。彼女が正式に巫女になった時に授かった物だ。椿は川に落としたと言っていたが、やはり藍介に渡していたのだろう。
その首飾りに付着した血を葵は手ぬぐいで拭き取ると、瞼を閉じている白臣の首にかける。そして葵は幼い彼女を抱き抱えると家の中へと入っていった。
葵が白臣を家の中で寝かせて家から出ると他の巫女達が集まっていた。それぞれが影のある表情を浮かべつつも、手際良く藍介の亡骸を分厚い布で包み麻縄で縛り、それを蛇笏馬にくくりつける。
白臣を振背村に連れて行くのは彼女の意識が戻ってからの方が良いだろうと、この村に巫女を三人程残す事になった。幼い子供一人でいるのは危険だからだ。葵はその巫女の一人に風呂敷に包まれた金を渡す。面倒な事がおきてしまった時に、それで解決するためである。
そして葵達は振背村へと馬を走らせたのだった。




