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血煙旅記  作者: 黒洋恵生
巫女編
22/69

【第十九話】掠れた悲願






 どれぐらい時間が経ったのだろうか。宗志が何もせずに規則正しい白臣の寝息を、ぼんやりと聞いていた時。障子が開いて、夕飯の支度が出来た事を伝えに葵が部屋に入って来た。それを聞いて宗志はぐっすりと眠っている白臣を起こす。そして二人は部屋を出て、葵に案内されるままに外廻廊を歩いていく。そして、とある部屋に通された。

 そこには玄米や和え物、汁物に焼き魚が乗せられた箱膳(はこぜん)が二つ並べられている。二人は葵に促されるまま、刀を腰から外してそれぞれの箱膳の前に座った。


「お口に合うか分からないけれど、良かったらどうぞ」

「すいません、こんなご馳走(ちそう)用意していただいて」

「一向に構わないわ。玄米と汁物はお代わりもあるのよ。遠慮なさらず召し上がってくださいな」

「いただきます」

「……いただきます」


 宗志と白臣はそれぞれ手を合わせてから箸を手に取った。白臣は和え物を口に運んだ。咀嚼(そしゃく)するごとに香り高さと、不快にならない程度のほどよい苦味が口いっぱいに広がる。


「葵さん、この和え物には何が入ってるのですか。初めて口にした味です」

「それは普通のほうれん草と鬼板菜(おにいたな)を茹でて味を整えたものよ」

「鬼板菜?」

「知らないのも無理はないわ。鬼板菜は恐らくこの地域にしかないんじゃないかしら。ここらの土地は少し特殊で水はけが異常にいいのよ。一刻ほど前、この鬼板菜を採りに行ったら、あれだけ降っていた雨がもう乾いてしまってたわ。だから、普通なら簡単に手に入る薬草が無くて困ったりしてしまうの」

「なるほど。僕も弟切草(おとぎりそう)が見つからなくて驚きました。そんなに珍しい草じゃないのに、って」


 そんな話をしながら箸を進めていった。

 そして二人は空になった食器が乗った箱膳(はこぜん)の前で手を合わせ、ごちそうさまでした、と口にする。葵は微笑みながらお粗末様(そまつさま)でした、と答え、二人の箱膳を部屋の隅に運んでから一礼をして部屋を出て行った。そして少ししてから二つの湯呑(ゆのみ)が乗ったお(ぼん)を持って部屋に戻ってくると、それを宗志と白臣の前に丁寧に置いていく。白臣は彼女にぺこりと頭を下げた。


「何から何まで(いた)れり尽せりで本当にありがとうございます」

「お気になさらず。ごめんなさいね、お茶を出してあげたいところなんだけど、高くて手が出なくて。白湯(はくとう)で勘弁してください」


 葵はそう言うと二人の前にちょこんと腰を下ろした。そして結った髪を()でてから白臣へと視線を向ける。


「白臣さんは何故(なぜ)、旅をしているのかしら? まだ十五にもなっていないでしょう?」

「あれ? 僕、年のこと言いましたっけ?」


 首を傾げた白臣に、葵は少しばかり目を見開いた。白臣は隣に座っている宗志に、自分の年を教えたのか、という疑問を込めて見つめる。彼はちらっと白臣を見ると首を横に振った。

 葵は少し視線をさ迷わせた後、微笑みながら口を開く。


「ほら、巫女の(かん)ってやつかしら。何となくそう思ったの。まさか当たるとは思わなかったわ」


 そう言って笑う葵に、凄いですねと白臣は愛嬌(あいきょう)良く笑う。宗志は少し眉間に(しわ)を寄せてすっと目を細めた。


「それで、白臣さんは何か目的を持って旅をしているのかしら?」

「僕の旅の目的ですか……。巫女さんにとってはなかなか物騒な話だと思うのですが、僕の旅をしている理由は父の(あだ)を討つためです。僕の母は僕が生まれてすぐに亡くなってしまったらしくて、父が僕を男手一つで育ててくれました」

「……素敵なお父様なのね」

「はい。父は物知りで剣の腕は一流で、そして何より本当に優しい人でした。こんな僕にはもったいない程の愛情を注いでくれたんです。……だから許せないんです。父を殺した人間が毎日朝を迎えていることが、今も何処かで笑っていることが」


 その白臣の声は、彼女の瞳には、強い憎悪の色が宿っている。しかしすぐにはっと我に返り気まずそうに微笑んだ。

 そんな白臣から葵は目を逸らし唇を固く結んでいた。白臣はなぜ彼女がその様な反応を見せるのか分からず狼狽(うろた)えを見せる。随分と長い沈黙が三人を押し浸していた。それは白臣の気を遠くさせる様なものである。その様な沈黙の後、葵は白臣の顔をじっと見つめて口を開く。


「ここで貴方に出逢ったのも定めなのでしょう。白臣さん、貴方の悲願は今宵(こよい)果たされるわ。でもその前に私の話を聞いてくれないかしら」

「……葵さん、どういうことですか」

「私の名は秋橋(あきばし)(あおい)。貴女の母、秋橋椿の双子の姉です」

「……どうして、どうしてそれを黙っていたのですか……?」


 白臣は喉から絞り出す様にそう口にするのが精一杯だった。葵は白臣から目を逸らし、震える小さな声で言葉を呟く。


「……私なの」

「え……?」


 重苦しい空気が三人の間に流れる。白臣は葵の言葉を聞きたい様な、聞きたくない様な、言いようのない不安と胃から込み上げてくる様な悪い予感に目眩(めまい)を感じていた。

 そしてある程度の間を置いて、葵は意を決した様に真っ直ぐ白臣の瞳をじっと見つめ、(かす)れた声で言葉を紡ぐ。


「……私なの。貴女の父親を、藤生藍介さんを殺したのは……私なの」


 その言葉を白臣は理解するのに随分と時間がかかった。異国の言葉を聞かされたのかと思ってしまう(ほど)に。喉から水分が無くなり、呼吸する方法を忘れてしまったかの様に、息を吸うことも吐き出す事も上手く出来ない。そんな状態で彼女はやっとのことで声を(しぼ)り出した。


「……やめてください。そんな冗談、笑えないです」

「冗談ではないわ、白臣さん」

「やめてくださいと言ったのが聞こえなかったんですか……? 第一、貴女に、貴女なんかに僕の父を殺せるわけがないじゃないですか……!」


 白臣は(かす)れた声で感情的にそう叫ぶ様に言い放つ。それとは対照的に葵はひどく落ち着いた眼差しで白臣を見ている。そして葵はゆっくりと口を開いた。


「藍介さんは穏やかな春の日に家の裏で、菜の花を握った状態で亡くなっていませんでしたか」

「……!」


 葵の言葉は、白臣の(まぶた)の裏に刻まれているかの様に何年経っても色褪(いろあ)せてはくれない記憶と結びついた。あの日の温度、風向き、匂い。全て体が覚えている。あの日の怒りや悲しみ。幼い頃は神へと向けたその感情は、あの日を(さかい)に父の(あだ)へと向けられた。新たに憎しみや恨みの感情を伴って。

 今まで積み重なった負の感情が体の奥底から湧き上がってくるのを白臣は感じていた。いったい体の何処(どこ)に蓄積されていたのか、と思ってしまう程に多量で尽きることを知らない憎悪。

 白臣の体の中でぷつり、と何かが切れた音がしたかと思うと、彼女は憎しみに身を任せて置いてある刀を手に取り、抜刀すると同時に斬りかかる。大きく振り上げられた刀は葵へと向かって振り下ろされる……はずであった。

 天井へと剣先を向けたまま、刀はぴたりと止まったのだ。


「宗志、離してくれ! 離せ!」


 白臣が刀を振り上げた瞬間に宗志が腕を掴んだのだ。白臣は振り下ろそうと両手に力を込めるが、宗志の片手の力にさえも敵わず、剣先は天井を向いたままである。


「まさか、君は僕に復讐なんてやめろとでも言うのか? それとも復讐したところで父は帰ってこないとでも言うつもりか?」

「そんな反吐(へど)が出る様な事、死んでも言わねぇよ」


 そう言って宗志は掴む手の力を緩めず、静かに座っている葵を冷たい目で見下ろした。


「あんた、殺される前にこいつに話してぇ事があるんだよな?」


 葵は小さく(うなず)く。宗志は気だるそうに溜め息を吐いてから口を開いた。


「……この女を殺すのは話とやらを聞いてからでも遅くねぇんじゃねぇか。この女は自分の身を守るためにお前の同情を誘う様な適当な話をするとは思えねぇ。そもそも自分の身を守りたきゃ、んなこと馬鹿正直に言う必要ねぇからな。それにお前と俺の付き合いはそれほど長くはねぇが、今ここで話も聞かずにこの女を殺しちまったら後々(のちのち)お前は後悔する人間だってことは分かる。それでも今すぐ殺してぇってなら俺は止めやしねぇよ。好きにしろ」


 そう言うと宗志は掴む手を離し先程まで座っていた場所に、どかりと気だるそうに座った。

 白臣は刀の剣先を天井に向けたまま考えを巡らせている。その表情からは憎しみや怒り、様々な感情が滲み出ていたが悲しみが何よりも勝っている様だった。(しばら)くすると右手を柄から離し、力なく刀を脇へと下ろす。じっと葵を見つめてから意を決した様に先程まで座っていた場所に戻り腰を下ろした。そして刀は(さや)に戻さず抜き身のままで(みずか)らの目の前に横にして置く。

 葵は無表情の宗志と(うつむ)いている白臣を十分に視線を注ぎ込んだ後、固く結んでいた唇を開いた。


「私と椿は物心ついた頃に両親を亡くし、二ヶ月ほど物乞いをして命を繋いでいた時期があるの。そんな幼い私達は偶然、大婆婆様(おおばばさま)に出会い、この村に連れて来ていただきました。そして私達は巫女として生きる事になったの。これも何かの縁だと巫女として生きることを受け入れた私とは違い、椿はいつも自由を望んでた。あの子は裳着の式を終える頃までは何度も何度も脱走していたものだわ」


 彼女はそこで言葉を一旦切る。白臣は(うつむ)いたまま爪が食い込むほど(こぶし)を握り締めていた。葵は再び言葉を続ける。


「けれど椿は私以上、いやこの村で大婆婆様の次に強い霊力があったの。それはこの村の巫女達を治める十三人の巫女の(ちょう)にとっては自らの地位を(おびや)かすかもしれない脅威(きょうい)だった。そんな時、椿は藍介さんと出会い二人は()かれ合った」


 葵は遠い目をしてから一言一句(いちごんいっく)丁寧に言葉を紡いでいく。


「この村には巫女掟(みこおきて)というものがあるの。その掟には〝巫女たるもの生涯男と交わることなかれ〟というものがある。それは神への裏切り行為とみなされ、一番重い罪となるわ。それを破った巫女に待っているのは……死罪」


 その言葉にはっと白臣は顔を上げた。そして腹の底から絞り出す様な声で口にする。


「つまり……母は父と関係を持ったから……」

「違うの」

「……え?」


 はっきりと否定した葵に、白臣は困惑を隠し切れないようである。葵は言いづらそうに再び口を開いた。


「藍介さんは、巫女掟のことを知っていらっしゃいました。彼は椿に迷惑をかけないために、と椿を抱き締めることも手を握ろうともなさりませんでした。二人は毎日逢ってはたわいもない会話しかする事は叶わなかったけれど、とても幸せそうに見えたわ」

「……それじゃあ、僕はどうして……」


 葵は白臣から目を逸らして黙り込んでしまう。その姿に白臣の心臓はどくり、と嫌な音を立てた。


「このことは貴女は知らないほうがいいかもしれない。けれど私は椿ともし貴女に会ったら全て本当の事を教える、と約束したわ。貴女に真実を伝える事が椿の意思ならば私はそれに応える義務がある」


 そう前置きをしてから葵は視線を白臣に戻して言葉を続ける。


「白臣さん、貴女は椿の子だけれど、藍介さんの子ではないの」

「嘘だ!」


 白臣は反射的に叫んだ。嘘だ嘘だ、とまるで自分に言い聞かせる様に(つぶや)いている。その唇は小さく震えていた。葵はそんな白臣を見ていられなかったのか、再び目を伏せてしまう。


「満月の夜のことです。椿は何者かに(さら)われ、翌朝に傷ついた状態で見つかりました」

「ってことは……」

「ええ。その時に授かったのが白臣さん、貴女なの」


 葵は静かにそう告げる。白臣は言葉を発することが出来ず、ただただ葵を凝視(ぎょうし)した。嘘であって欲しいと願わずにはいられなかったのだ。体の中の臓器全てを(しぼ)られている様な苦しみや痛みを白臣は感じ、それに耐える様に歯が砕けてしまうのではないかと思うほどの強さで食いしばった。


「男と交わる事は死罪。椿の様なことは前代未聞(ぜんだいみもん)だったの。けれど両者同意の上ではないにしろ、巫女の(ちょう)達に疎まれている椿は死罪を見逃してもらえるのか分からなかった。椿を助けたいと思った私とその他の巫女達は、椿は重い(やまい)にかかってしまい他国で療養する事になった、と大婆婆様(おおばばさま)以外の巫女の長達を(あざむ)いた。そして椿を隠れ家に連れて行ったの」


 そこまで葵は一息で語り、少し間を開けて言葉を続けた。


「私達は椿に子供を()ろさせて、この件は無かった事にしようと考えたわ。それが椿の身を考えると一番だった。(みん)からの渡来物である漢方や鬼灯(ほおずき)の根を内密に集め、椿に飲むように何度も強く言っては聞かせたけれど、あの子は首を縦に振ろうとしなかった。〝自分の子供である事に変わりは無い〟と産むと言って聞こうとしなかったの」


 葵の(ひざ)に置かれた手は小さく震えている。それでも彼女は言葉を止めようとはしない。


「決心の固い椿を見て私達は大婆婆(おおばばさま)に相談をした上で、私達は椿の子をその隠れ家で育てて行く事を決意した。その後、椿は貴女を産んだわ。けれどその時だった。私達の中に密告者が出て巫女の(ちょう)に全て暴かれてしまったの。私は赤子だった貴女を抱え藍介さんの元へ走って行った。私達が頼れるのはもう彼しかいなかった。巫女の長に()らわれてしまえば、親子共々生き埋めになってしまうから」


 白臣は葵の話に名付け難い感情が腹の底からせり上がるのを感じていた。葵の言葉一つ一つが白臣に突き刺さる様である。


「私は藍介さんに全て話したわ。けれど一つだけ私は彼に嘘をついた。それは椿は既にこの世の者では無くなってしまった、というもの。藍介さんは心優しい方ですので、椿が生き埋めとなると知ったら助けようとして下さるでしょう。でも当時この村は巫女狩(みこが)り対策をして、多くのお侍様を雇っていた。椿は藍介さんと我が子を危険な目にあわせたくないと、私にそう彼に告げるよう頼んできたの。彼は椿が亡くなったと聞いて悲しんでいらっしゃいましたが、黙って私の話を聞いて二つ返事で椿の子である貴女を隠し育てる事を快諾してくださった。彼は大国のお殿様の重臣でしたが、地位も家も名誉も全て捨てて赤子の貴女を連れて、国を出て行ったと私達は後になって知ったの」


 そう口にしてから葵は伏せていた目を、ゆっくりと白臣へと向けた。白臣の(のど)はからからに乾き、ただ呆然と葵に視線を注いだ。葵は再び口を開く。


「椿はこの村へと戻り死罪が一度は決定したものの、椿の巫女としての力を頼りにしてくださるお侍様や、お貴族様が助命嘆願をしてくださり死罪は(まぬが)れる事となった。そして私は巫女の長達に〝椿の子は自分の手で殺した〟と虚言をしたの。巫女の長達の目が子に向かない様にと。でもこれで穏便に済む事は無く椿はその後、座敷牢(ざしきろう)から出る事を許され無かった。あの子は〝死ぬつもりだったから全然平気だ〟と笑っていたけれど。その時はまだ私は知らなかった。十年後、自分の手で妹が愛した人を殺す事になると」





 葵の瞳から(しずく)が、静かに(こぼ)れ頬を伝い畳に染み込んでいった。





「椿? 入るわよ」


 そう一声掛けた後、葵は食事が乗せられた(ぼん)を脇に置き戸が開かないようにかけられている(かんぬき)を外してから戸を開ける。その途端、湿っぽい臭いが椿の鼻につきまとった。部屋は殺風景であり、明障子(あかりしょうじ)はいくつかあるものの、椿の(てのひら)ほどの大きさがあるかも怪しいものである。

 葵の顔を見ると椿は輝く様な笑顔を見せ、葵から盆を受け取った。


「毎回ありがとね、葵」

「全然構わないわ。何か不自由な事はない? 出来る限り力になるわよ」

「ううん。今は特に大丈夫」


 そこで会話は途切れた。葵は遠慮がちに椿に視線を注ぐ。もう十年もこんなまともに日の当たらない場所にいるせいか、もともと雪のように白い肌が更に白さを増している。心做(こころな)しか痩せてしまったようにも葵には見えた。

 子を十七の時に産んでから狭い部屋に閉じ込められている唯一の血の繋がった妹を見るたびに、葵の胸は裂ける様に痛む。出来る事なら自由にしてあげたい、と葵だけではなく椿と親しい巫女は皆切望していた。椿を逃亡させる話も出たが、椿がその話に首を縦に振らないのだ。そして、いつもこう言うのである。もう誰にも迷惑をかけたくないと。

 いろいろな思いを馳せている葵の視線に椿は気付き、困った様にぎこちなく笑った。


「ちょっと、何そんなしけた顔してるの。葵が思うほど、ここでの生活はそんなに悪くないよ。だって(ほとん)どただ飯みたいなものだし。本当、申し訳ないぐらい」

「椿……」

「それに巫女をやってる時点で自由なんて夢のまた夢でしょ。少しばかり日が当たらないだけ。大差ないよ」


 椿はそう言って葵に生き生きとした笑顔を見せる。何も知らない者がこの状況を見たとしたら、椿ではなく葵が自由を奪われた者だと思ってしまうだろう。

 それでも椿の笑顔は随分と陰りがあるものへと変わってしまった事が、葵には分かっていた。何かが違う気がするのである。昔の椿の笑顔を思い出そうと葵がした時、ふとある事が気になった。

 最後に椿の泣き顔を見たのはいつだったかという事だ。いくら記憶を(めぐ)ってみても思い当たらない。

 あの日傷つけられてその翌朝に見つけられた時でさえ、椿は困った様に笑っていた事を葵は昨日の様に覚えている。死罪を言い渡された時も、ここに閉じ込められる時もだ。辛くない訳がないのに何故この子は泣きごとも苦しいとも言わないのだろう、と葵は椿のいじらしさに胸が詰まる思いを抱いた。

 藍介さんなら……、と葵はあの優しい侍を思い浮かべる。椿にどんな言葉をかけてやるのだろうか。椿も彼の前ならば感情のままに涙する事が出来るのではないか、と葵は根拠はないがそう思ったのだった。

 暫くの沈黙の後、椿は誰に告げるでもなくぽつりと言葉を(こぼ)す。


「私、一生ここから出れないのかな……」

「そんなことない!」


 思わず葵は声を張り上げた。椿はそんな葵を少し驚いた様に目を見開いた後、小さく微笑んだ。葵はゆったりと横で()わえた黒髪をそっと撫でてから口を開いた。


「大丈夫よ。今、大婆婆様(おおばばさま)が貴女をここから出してもらう事を他の巫女の(ちょう)の方々と交渉してくださってるわ。それに貴女の力を必要としてくださってるお侍様やお貴族様がいらっしゃるという話もあるのよ。だから大丈夫」

「そっか。ありがとね、葵。何か元気でた。……私ね、もしここから出れたら、まず藍介さんに会って、ちゃんと謝りたいんだ。そしてもしも、もしもだよ? 藍介さんが他に想う人がいなかったら、藍介さんが私をまだ想ってくれてたなら、藍介さんと娘と私で三人で暮らしたいな……ってやっぱり無理かな」

「……無理なんかじゃないわ。神様は見てくださってるはずよ。そして、護ってくださるわ。だから――」

「希望を捨てるな、でしょ? それ大婆婆様にも言われた」


 くすくすと椿は笑い声を上げた。そして少し遠い目をする。


「私さ、娘の名前さえ知らないんだよね。そんな奴が母親面なんか烏滸(おこ)がましい、か」

「そんな事無いんじゃないかしら。椿みたいな綺麗な人が母親だって知ったら喜ぶと思うわ」

「それ遠回しに、自分を綺麗って言ってるの気づいてる?」

「あらやだ。本当だわ」

「葵ってそういうとこ抜けてるよね。はあ、もうあの子も十歳かぁ。可愛い女の子なってるんだろうな。ねえ、葵。私、あの子は天女様の生まれ代わりなんじゃないかって思うんだけど」


 確かに、と葵はその言葉に同意する様に頷いた。(たたり)だ、と言う人達も少なくはなかったが、愛しい妹の娘である贔屓目(ひいきめ)()()いても、翡翠色(ひすいいろ)の瞳や赤い髪は神秘的で美しいと思えたのだ。

 そんなたわいもない話をしていると、戸を叩く音が聞こえた。それは椿との面会時間の終わりを告げるものである。葵は椿に一声掛けて、立ち上がった。椿は太陽の様な眩しい笑顔でひらひらと手を振る。

 そして葵が椿に背を向け部屋を出ようとした時。


「……葵」

「どうしたの?」

「ごめんね、それとありがとう」

「何よ、いきなり。改まっちゃって」

「何か言いたくなった。私ね、多分(たぶん)葵がいなかったら、こんな世界でやっていけなかったと思うんだ。葵のお(かげ)なんだよ、私がまだ頑張ろうって思えるのは」


 葵は戸から手を離して振り返り、椿に微笑みかけた。


「私だって同じよ。ひたすら前向きで明るい椿に何度救われたことか。貴女がいるから私は明日を待ち望む事が出来るんだわ」


 そう言って葵は微笑みを残して部屋を出る。部屋から出て面会時間の終わりを知らせてくれた女中(じょちゅう)に礼を言って、戸に(かんぬき)をかけ、葵はその場を後にした。

 廊下をちょうど曲がった時だ。廊下の少し先の方にとある巫女が一人、壁に寄り掛かって立っていた。まるで葵を待ち伏せしていたかの様に。葵はその巫女に一礼をし、そのまま通り過ぎた時。後ろからその巫女に呼び止められた。


「葵、妹の様子はどうだったか」

「……どうと言われましても、特に変わった様子はありませんでしたが」


 振り返らずに葵は慎重に言葉を返した。葵の後ろにいる巫女の名は吉橋(よしばし)京香(きょうか)。巫女の(ちょう)のうちの一人であり、椿を最も憎み、疎ましく思っている巫女である。

 巫女の長を務められるだけもあり実力の点では申し分無いのだが、彼女の自尊心は山よりも、いや天よりも高いものであった。彼女は吉橋という公家の血筋であり、そのお陰でいくつかの貴族の家の後ろ盾もある。それは彼女の自尊心を更に肥太(こえふと)らせた。

 そんな吉橋にとって目障りな存在、それが椿である。物乞(ものご)いから巫女になったのにも関わらず、椿は成長とともに頭角(とうかく)を現し、今では誰の目から見ても巫女としての(ちから)は椿の方が上だった。おまけに吉橋の占いの古参の客は椿へと流れ始めたのである。それは吉橋の肥太った自尊心を傷つけるのには十分すぎるものであった。

 吉橋は振り向かずに言葉を返してきた葵に特に気にする様子も見せず、意味有りげに笑い声を上げる。


「お前に悲しい知らせをせねばならぬ」

「……その知らせとは?」


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