【第十八話】細い雨の骨
「さあさあ座ってくれっちょ」
「失礼します」
外廻廊を少し進んでから、とある部屋に二人は通される。そこは隅に渋い橙色の座布団が数枚積み重なっているだけの素朴な内装であったが、掃除が行き届いた清潔感を感じさせる部屋だ。
老婆はその座布団を二枚ほど掴み、投げる様に置いて二人に座る様に促す。そして無言で老婆は部屋を出たかと思うと、すぐに戻って来た。その両手には湯呑が握られている。白臣は老婆に対して、ぺこりと頭を下げた。
「すみません、お気を遣わせてしまって」
「かまわん。餓鬼んちょが遠慮することないじょ。飲め飲め」
「では、いただきます」
湯呑の中には白湯ではなく、だいぶ黄色っぽいものが入っていた。白臣は手で仰ぐ様にして香りを嗅いだ後、そっと口をつけた。宗志もそれに続くようにして湯呑に口をつける。
「すごい、なんというか……不思議な味ですね。初めて口にした味です」
「……悪くねぇかもな」
「だりょだりょ! これの名は殺歯珍すぃー! ちなみに殺歯珍すぃーのすぃーは突然死のすぃーじゃぞ! れんこん十一本も入ってるんじゃぞ!」
「てか突然死のすぃーって何だよ」
「最近の若者は細かい事にぐちぐちとうるさいのぉ。ところでどうじゃどうじゃ? 元気はつらつするじゃろー」
ひょひょひょ、と老婆は笑ってから宗志へと顔を向ける。そして先程よりは低い、まるで腹の奥深い場所から絞り出される様な嗄れた声で言葉をゆっくりと紡ぎだした。
「小僧、お前が訊きたい事とはなんじゃ?」
「単刀直入に訊く。あんたは御潮斎の巫女か?」
「それが人にものを訊く態度か」
「……今までの無礼をお許し下さい。貴女は御潮斎の巫女ですか」
宗志がそう言い直すと老婆は満足そうに、にんまりと笑う。そして小枝の様な細い骨と皮だけの指で宗志を指さした。
「教えてほしければ腹を斬れ」
「はっ!?」
「なんじゃ、不服か」
「……駄目だ、この婆さん頭いかれてやがる」
話にならねぇ、と宗志は呆れを吐き出す様に溜め息をつく。気づけば外からは雨音が聞こえてきた。それは歌声である様な雨音から、群衆のざわめきの様な雨音へと徐々に喧しさを増し始める。
その激しい雨音に負けない程の声量で老婆は奇妙な笑い声を上げた。宗志は眉間の皺を更に深くする。
「何が可笑しいんだよ」
「お前が腹を斬れぬ事くらい、わしは分かっておる。そうじゃろ、天狗」
「……気味の悪りぃ婆さんだ」
「あの、他に巫女さんはいらっしゃらないのですか?」
このままでは何も分からぬまま日が暮れてしまう、と思い白臣は口を挟んだ。すると老婆はにんまりと上がっていた口角を急に下げてしまい、ふるふると小刻みに震え始める。その髪の毛に隠れた瞳から、きらりと光る雫が溢れている様に白臣には見えた。老婆はそして弱々しく語り始める。
「一昨日までは元気だったんじゃ……。老い耄れを一人にするなんて……」
「あ、あの……ごめんなさい」
「娘の様に可愛がっていたのに……一昨日、一昨日じゃ。晩飯の冷や奴を喉に詰まらせてしもうて――」
「大婆婆様! 勝手に殺さないでくださる?」
宗志と白臣の後ろにあった障子が、すぱんと勢い良く開いた。二人は振り返ってその人物を見上げる。その女性は巫女装束を着ており、風呂上がりなのか髪は湿っていた。彼女は微笑んで二人にゆったりとした仕草で軽く会釈をする。白臣もそれに合わせる様にして会釈を返した。
「はじめまして。ごめんなさいね、大婆婆様は人をからかうのが大好きなのよ。でも大婆婆様、お客様を困らせては駄目でしょう」
「ひひひっ、騙されてやんのー! 騙される馬鹿が悪いんじゃー!」
「こいつ……」
強い雨音の中でも、はっきりと聞こえる程の大きな溜め息を宗志はついた。その女性は丁寧に障子を閉めると再び老婆へと視線を向ける。
「大婆婆様、占いをして欲しいとお侍様がいらっしゃいました」
「嫌じゃ嫌じゃー! めんどくさいー!」
「駄々を捏ねないで下さいな」
「嫌と言ったら嫌じゃー! お前が行けー!」
「それは出来ないわ。大婆婆様をご指名ですもの。それにそのお侍様、大婆婆様のために鯖の干物を持ってきて下さ――」
「行く!」
「ふふ、じゃあお願いしますね」
大婆婆様と呼ばれている老婆は鼻歌を歌いながら、弾む様な足取りで部屋から出て行った。その姿を見届けてから、女性は老婆が座っていた座布団の上に腰を下ろす。
白臣はその女性に改めて一礼をして口を開いた。
「すいません、朝から押しかけてしまって。僕は藤生白臣と申します。隣にいるのは宗志です」
「私の方こそごめんなさいね、見苦しい姿をお見せしてしまって。私は葵と申します。今朝、野草を摘みに行こうと森に入ったらいきなり曇り空になってしまうんですもの。雨が降りそうなもんだから早く帰ろうと思っていたのに、帰り道の途中で降られてしまって。さっき慌てて着替えてきたところなの」
だから髪が湿っているのか、と白臣は一人で納得した。葵は左側にゆったりと結わえた黒く長い髪を撫でている。彼女は清楚で気品を感じられるが、なんとなくどこかもの悲しい感じの印象を受けた。
その時、はっと白臣はあのことを思い出す。
「あの葵さん。瀬快さんがよろしくとの事でした」
「まあ、瀬快が? 貴方達は瀬快のお友達なのかしら?」
「友達というか……、瀬快さんにいろいろお世話になったもので」
「そうなの。良かったわ、瀬快ったら今年に入ってから、めっきり姿を見せないんだもの。心配してたのよ」
「あの、葵さんと瀬快さんは、どのようなご関係なのですか?」
白臣の問に葵は遠くを見るような目をしながら、頬に張り付く湿り気を帯びた髪を疎ましそうに払い答えた。
「もう何年前の事かしら。瀬快がまだ子供の時の事よ。あの子、酷い怪我をして森に倒れていたの。特に背中の傷が酷くて。このままだと山犬に食べられてしまうと思って連れて帰って治療したのよ。それ以降はふらりと、年に何回か遊びに来てくれたりしたわ」
そこで葵は言葉を切ると安心したのか胸を撫で下ろし、白臣の事をじっと見つめて訊ねた。
「ねぇ、あの子は幸せそうだったかしら?」
「はい。いろいろあったと思うんですけど、これからは幸せにやっていけると思います」
「そう、それは良かった。あの子いつもにこにこ笑ってるでしょう。だけど何というか心から笑ってないというか、目の奥に影があるというか……。でも次会う時はやっと瀬快の本当の笑顔が見れるのね」
そう言って葵は心から嬉しそうに微笑む。その笑顔に白臣は何故だか焦がれる様な懐かしさを感じたのだった。
「あら、ごめんなさいね。貴方達は雨宿りにこちらに? それとも何かここに用事があるのかしら?」
「いや、僕達は少し聞きたい事があって」
「その聞きたい事とは?」
「あの、御潮斎の巫女ってご存知ですか?」
「御潮斎の巫女? その話が聞きたいのは宗志さんの方かしら」
葵は視線を宗志へと向ける。その視線を受けて彼は小さく頷いた。
「申し訳無いのだけれど、ここには御潮斎の巫女はいないわ。嘘なんかじゃないのよ、この振背村には私と大婆婆様しか巫女はいないの。これでも殆ど巫女が滅んだ今となっては珍しい事だとは思うのだけれど。でも御潮斎の巫女について私が知っている事は教えてあげられると思うわ」
二人の瞳に期待の色が浮かぶ。葵は湿った髪を撫でて言葉を続ける。
「御潮斎の巫女とは人間と神、神と妖怪、妖怪と人間を結ぶ者と言い伝えられてるの。妖怪と人の混血児がいつからこの世に現れたのか分からない様に、御潮斎の巫女がいつからこの世に存在しているのか詳しい事は分かってないわ。そして過去の文献によれば御潮斎の巫女と呼ばれた者が死んだその日に、別の地域では御潮斎の巫女が生まれているようね」
「つまり御潮斎の巫女って奴はこの世に一人は必ずいるって事だな」
「その通り。御潮斎の巫女は妖怪の血が流れている者を、純人間にも純妖怪にもする事が出来るわ。この話は一般的に知られている事ね。ただ、もう二つ御潮斎の巫女には特別な力があるわ」
「その力とはどのようなものなのですか?」
「一つ目は妖怪の血が流れる人間の傷口に御潮斎の巫女の血を注ぐと、傷を早く癒す事が出来る力。そして二つ目は目抄化してしまった者を……って、目抄化はご存知?」
はい、と白臣は返事を返し、宗志は小さく頷いた。葵は再び言葉を紡ぐ。
「二つ目の力は目抄化した者の自我を取り戻させて、正常な状態に戻す力」
「ちなみにその巫女の力って、具体的にどの様な事をして純人間にしたりするのですか?」
「純人間にするのも純妖怪にするのも、目抄化した者の自我を取り戻させるのも彼女達がする事はただ一つ。己の血を飲ませる事」
「血を……?」
「そう。その時に気をつけなければならないのは、目抄化してしまった者に御潮斎の巫女の傷口から直接血を啜らせてはならない事。これは御潮斎の巫女に限らず誰もが絶対させてはならない事だわ」
葵は真剣な眼差しで二人を交互に見る。それがあまりにも真剣なものだったので、白臣は自分の心が張りつめるのを感じた。
「目抄化してしまった人間は限りなく純妖怪に近くなる。治癒力、筋力、そしてそれぞれの妖怪としての能力は格段に上がるわ。けれど純妖怪であれば抑えられる妖怪本来の本能に、自分の意志では逆らえなくなってしまうの。妖怪に取って吸血行為は人間にとっての食欲、睡眠欲、性欲に並ぶ、いいえ、それ以上の強い欲求となるわ。普段はその欲求は奥底に隠れているけれど、一度血を口にしてしまうと、その欲求は抑える事は不可能になって、その人間の血を飲み干すまで口を離す事が出来なくなってしまうのよ。稀に目抄化してなくても妖怪の血が濃い場合、その様な事態を引き起こしてしまう方もいるらしいけど」
「……じゃあ、御潮斎の巫女って奴は血をどうやって妖怪と人の混血児に飲ませんだ?」
「湯呑か何かの容器に血を入れて飲ませるらしいわ。文献によれば純人間にするにも、純妖怪にするにも、目抄化した者の自我を取り戻させるのも、湯呑一杯分の血で事足りるらしいわね」
そこで葵は言葉を切ると申し訳なさそうに眉毛を下げた。
「貴方達が一番知りたいであろう、その御潮斎の巫女の居場所なんだけど……ごめんなさいね、私は知らないの。でも、今日たまたま巫女である友人が遠くからやって来る予定だから、話を訊いてみるわ。確か今夜にはここに到着する予定よ。もしかしたら、いい話を訊けるかもしれないから」
「本当ですか? 良かった……ありがとうございます」
「お礼を言われる様な事は何もしてないわ。力になれなくて、ごめんなさいね。訊きたい事は他にないかしら」
「あの、もう一つ訊きたい事があって……。僕の私情なんですが……僕の母、秋橋椿をご存知ないですか?」
「秋橋椿……」
葵は記憶を辿っているのか暫くの間、黙り込んでしまった。それを白臣は期待を隠しきれない様子で見つめる。
「ごめんなさい、知らないわ」
「そうですか……。僕の父、藤生藍介もご存知ないですか……?」
「……いいえ。私は何も」
「あの、この村で霜月の十三日に不可思議な髪色、瞳の色をした子供が生まれたって聞いたんです。どんな小さい情報でもいいので何かご存知ないでしょうか」
「ごめんなさい、本当に何も知らないの。私はずっとこの村にいるわ。この村でおきた事は全て把握してるつもりよ。だから、その話は何かの間違いだと思うわ」
ごめんなさいね、と葵は再度謝った。それに対して白臣はぶんぶんと首を横に振る。
「そういえば、貴方達は今夜は泊まっていくでしょう? 外はこの雨だもの」
「いいんですか?」
「ええ。大歓迎よ、こんな古い神社で良ければだけど。本当は近くの国とか案内出来ればいいんだけど、生憎この雨だし、何より今日は暇がなくて」
「いいえいいえ! お気になさらないでください」
「そう言っていただけるとありがたいわ。御手水はこの部屋を出て左手に真っ直ぐ進むとあるわよ。御夕食の時間になったら呼びに来るわね。それまで自由にしててくださいな」
そう言って葵は二人の飲み終わって空になった湯呑を持って立ち上がる。そして障子に手を掛けたところで動きを止め、振り返って二人に顔を向けた。
「そうだ、御夕飯まで手持ち無沙汰でしょう。何か欲しい物とか必要な物とかあるかしら? できる限り用意するわ」
「僕は大丈夫です」
「そう。じゃあ宗志さんはどうかしら?」
「……無けりゃ構わねぇが、目釘抜と拭い紙と打粉と油、出来れば丁子油だと有難い」
「刀の手入れ道具一式が必要なのね。用意するわ。他に何か欲しい物はあるかしら?」
宗志は隣で欠伸を噛み殺している白臣をちらっと横目で見る。
「……あと肌掛けみてぇなのがあれば」
「分かったわ。では少しばかり待っててくださいね」
そう言葉を残し葵は部屋から出ていった。雨が屋根を打ち付ける音だけが部屋の中を満たしている。
二人が何もせず、雨音にぼんやりと耳を傾けた。雨音は少し弱くなったかと思えたが、少し時間が経つと、屋根を打ち破るのではないかと思わせるほどの強さに徐々に変わっていく。そんな雨の音の変化に意識を向けるのが飽きてきた頃。
障子がゆっくりと開かれ、葵が微笑みを浮かべながら部屋に入ってきた。彼女は右手には刀の手入れ道具一式が入っていると思われる取っ手付きの木箱を、もう片方の手には肌掛けを持っている。宗志はその二つを彼女から受け取り、礼を返す。彼女は宗志と白臣の顔に丁寧に視線を向け、ごゆっくり、と一礼をして再び部屋から出て行った。
葵が出て行ってから、宗志は持っている肌掛けを、欠伸を噛み殺している白臣に頭から被せる。彼女は肌掛けから顔を出し、きょとんとした瞳で宗志を見た。
「いったいなんのつもりなんだ、君は」
「寝ろ」
「へ? 君が使うんじゃないのか」
「違げぇよ。寝れる時に寝とけ。寝れなかったんだろ、昨夜は」
「そうだけど……でも、お邪魔している場所で朝から寝てしまうのは心苦しいというか何というか……」
白臣はごにょごにょと言葉を漏らしている。しかし欠伸は堪えられない様で、また一つ小さな欠伸を零した。
「別に構わねぇだろ。それに屋内で寝れる事なんざ、そうそうねぇんだ」
「そうだけど……」
「何かありゃ起こしてやる。それまで寝てろ」
それでも白臣は寝る事に抵抗がある様だったが、睡魔には勝てないようで、おずおずと横になった。横になってからは早く、いつの間にか規則正しい寝息を立てている。寝返りを打って払い除けられてしまった肌掛けを、宗志はそっと直してから木箱に手を伸ばしたのだった。
どれくらい時間が経っただろうか。宗志が脇差の手入れが終わり、本差を鞘から抜いた時。
部屋の障子が開かれ、湯呑が三つ乗った盆を持った葵が入ってきた。彼女は膝立ちをして宗志の邪魔にならない場所に湯呑を置き、そのままちょこんと正座をする。
「良かったらどうぞ」
「ああ。悪りぃな」
宗志は打粉を手に取ると、それを刀の刃に軽く打ち付ける。葵は湯気が立ち上っている湯呑を両手で持ち、ゆっくりと口に運ぶ。そして小さくなって寝ている白臣を優しい眼差しで見つめてから、宗志にふわっと笑いかけた。
「人違いだったらごめんなさいね。宗志さんって黒い天狗で巷で有名の、あの宗志さん?」
「……やっぱりあんた知ってたんだな」
「ええ。だって貴方は有名人だもの。この村は余り情報が入ってこないから、たまに町に出て情報集めに高札を見に行ったりするの。その時に貴方の手配書をたまたま見たんだと思うわ」
「へぇ。じゃあ、俺がどういう奴か知ってんだろ」
「手配書に書いてある事ぐらいわね。あと、噂話ぐらいなら」
そう言って葵はまた湯呑に口をつける。宗志は目線を刀から彼女へと移した。
「……それを知ってて何でそんな処に座ってられんだ? 俺は抜き身を持ってんだぜ」
「それはどういうことかしら」
「だから、何でそれを知ってて俺の前に、抜き身を持った俺の前に、呑気に座ってられんだってことだよ。斬られちまうとか考えねぇのか」
「だって、貴方は優しい人だもの。それに私は人は自分の目で判断する主義なの」
「俺が優しい?」
葵の言葉に宗志は怪訝そうに眉を顰めた。そんな彼を見て葵はくすくすと笑っている。
「俺ほど優しいって言葉から程遠い奴はいねぇんじゃねぇか」
「あら、もしかして無意識かしら? さっきから白臣さんが寝返りを打って肌掛けを払い除ける度に、直してあげる人が優しくないわけないわ」
「……べ、別にたまたまだ」
さっと刀に視線を戻す宗志を見て葵はふふっと笑う。そして打粉を軽く叩き付けている宗志の手元を微笑みながら見つめている。宗志はふと、思った事をなんとなく口にした。
「あんた、この手入れ道具は村の奴から借りてきたのか」
「いいえ。この手の物はここには沢山あるから」
そう言って、葵は左側にゆったりと結わえた髪を撫でてから言葉を付け加えた。
「巫女狩りってご存知かしら」
「ああ」
「昔はね、巫女狩り対策のために巫女も武術を習わされたの。こう見えて、私の薙刀の腕はなかなかのものなのよ。おかしな話でしょう? 神に生涯仕える巫女が自分を守るために人を傷つける術を覚えるなんて。とは言っても、私は実戦した事は無いのだけれどね」
「……いいんじゃねぇの。今の時代、女だって自分で自分を守れるに越したことはねぇ。それに生に執着する事に、巫女だろうが、そうじゃなかろうが関係ねぇと思うぜ」
「そうかしら? まあ、そうかもしれないわね。でも、私は無理に死に抗う必要は無いと思うの。もう十分に醜く生きながらえてしまったから……」
ちらっと宗志は刀から葵に顔を向けた。彼女は宗志の方では無く、寝ている白臣を慈しむ様に見つめている。その眼差しは憂いを含んでいる様にも宗志には見えた。宗志の視線に彼女は気付くと、彼女は取り繕う様に微笑んだ。
「さて、私はそろそろ仕事に戻ります。お話出来て良かった。湯呑はそこら辺に置いておいてかまわないわ。では、ごゆっくり」
そう言葉を残して葵は自分の飲み終わった湯呑を持って出て行った。気付けば、叩きつける様な音は聞こえなくなっている。どうやら雨は止んでしまった様だ。宗志は葵が出て行った障子を少しばかり見つめたあと、刀へと視線を落としたのだった。
暫くして宗志は本差の手入れを終え、それを鞘に納める。そしてぐっと伸びをしてから、すやすやと眠っている白臣へと目をやった。
「……ほんと、餓鬼みてぇ」
また肌掛けを払い除けている白臣の姿に宗志はふっと口元を綻ばせる。南燕会の屋敷で二人で同じ布団に寝た時は、ここまで掛けてある物を払い除けたりしなかった、と宗志は南燕会の屋敷での事を思い出す。気を遣わせちまってたのかもしれねぇな、と彼は苦笑する。
そして肌掛けに手を伸ばした時、白臣の少しばかりはだけてしまった襟元から覗く痣に目が留まった。宗志は苦々しい思いで、はだけた襟をそっと整える。その後、払い除けられた肌掛けを白臣に掛け直したのだった。




