【第十六話】傷の合わせ目
「あらら、また天狗くんに助けられちゃった」
数十本の矢は三人に届く事無く燃え尽き、牆壁が消えた時には鏃のみが三人の周りに散らばっていた。
白臣の傍にいる宗志の息は先程より上がっており、ぐらりと傾きそうになる体を持ちこたえているのがやっとの状態である。
瀬快は威圧的な笑みを浮かべ、刀を抜いて構えた。そして傍にいる二人にだけ聞こえる程度の小声で告げる。
「いい? 俺が踏み込んだら君達はこの空き家の裏側にある獣道を真っ直ぐに進んで。しばらく真っ直ぐ進めば、洞窟がある。その洞窟を抜ければこの国を出られる。そして更に真っ直ぐ進めば振背村があるんだけど……洞窟を抜けたら休んだ方がいい。天狗くんの体のためにも」
「わかりました。瀬快さん達は大丈夫なんですか?」
「俺達の心配は無用。あ、そうだ、洞窟を抜けたら“頭草”と“地縛り”っていう薬草を潰したものを天狗くんに食べさせてあげて。って言っても分からないか」
「知ってます。どちらも多年草ですよね」
「そうそう、なら良かった。最後に振背村で葵って名前の巫女さんに会えたらよろしく伝えといて」
はい、と白臣はしっかりとした返事を返した。瀬快は二人にふっと笑いかけてから、那智組の者達を真っ直ぐ見据える 。
「二人とも達者でね!」
そう言うと同時に瀬快は地を蹴った。白臣はその背中に感謝の念を込めて頭を下げ、宗志を気付かいながら歩き始める。
「天狗が逃げるぞ!」
「逃がすな!」
「ちょっと君達、ここを通れるとは思わないでよね」
空き家の裏側に二人が回ると、瀬快の言っていた通りに獣道が鬱蒼とした森に続いている。足場の悪い所々ぬかるんだ道の上を確実に一歩一歩と踏み出して歩き続ける。
遠くから金属と金属がぶつかる様な高い音が聞こえ、那智組の者なのか雄叫びや唸り声が聞こえていた。しかし、それも歩を進めていくにつれて小さくなっていく。
「宗志、大丈夫か?」
「……ああ」
白臣は時折振り返り血が垂れてしまってないか確認し、血の跡が残ってしまっていれば足で踏み消した。
どれくらい歩いただろうか。長くも感じられたが、本当は小半時も経っていない様にも白臣には感じられた。
ようやく瀬快の言っていた洞窟まで辿りついたところで、白臣はちらりと後ろを振り返る。もう喧騒は聞こえなくなっていた。
洞窟に足を踏み入れると、湿っぽい匂いが白臣の鼻を支配する。だが、洞窟はそんなに長い距離が続いているわけではないらしく、遠くには既に光が見えていた。水溜まりも気にせず足を前に動かし続け、やっと洞窟を抜けることができ、白臣はとりあえずほっと胸を撫で下ろす。
どこか腰を下ろせる場所はないだろうかと探すと、大きな洞穴のある大木を見つける事が出来た。
「宗志、ひとまずあそこで休まないか?」
返事が無かった。白臣が心配そうに宗志の顔を見上げると、大丈夫だとでも言うかの様に宗志は目配せをする。ただ、もう話すことさえきついようだ。
白臣はもっと自分に体重を掛けてくれてもかまわないのにと、肩を使ってくれてもかまわないのにと、もどかしい思いがじわじわと心の底から込み上げるのを感じていた。
二人はゆっくりと足を進め、洞穴の中に入る。その中はひんやりとした心地よい木の匂いが充満していた。そして思っていたよりも広々としている様だ。
「大丈夫か?」
「ん……。悪りぃ、ちっと、寝か……せて、もらう……わ」
宗志は掠れて聞き取れないほどの声量で、ぽつりとそう漏らし、ぐったりと座り込み洞穴の木の壁に寄りかかった。そしてしばらくすると、不規則な寝息を立て始める。眉間には深く皺が刻まれており、時折苦しそうに息を漏らす。
とりあえず傷の具合を見なければ、と白臣は遠慮がちに宗志の着流しの合わせ目を掴むと、左右にそっと開いた。
「酷い……」
思わず声が零れた。特に胸から背中にかけて貫通した傷は、純血の人間ならば即死しているほどのものである。早くなんとかしなければ、と白臣は洞穴を出た。
「まずは、地縛りと頭草を探さなければ。あと弟切草も。本当は包帯もほしいのだけれど……」
白臣は溢れんばかりに緑で満ちている茂みの奥へと足を踏み入れていった。
どうしよう、と落胆を吐き出す様に白臣は溜め息をつく。力なく自分の手の中にある見つけることが出来た薬草を見つめた。
掌にあるのは頭草が少しだけ。こんなにも草花が生い茂っているにもかかわらず、白臣がいくら探しても見つからないのだ。
せめて弟切草だけでもあれば、と白臣はもう一つ溜め息をついた。弟切草は止血するのに必要な薬草なのだ。
(薬屋に行くにもお金が……無い)
仕方が無い、と白臣は立ち上がり膝についた土や草を軽く払う。そして出来るだけ大きな木の枝や蔓を拾いながら宗志のいる洞穴のある大木に向かう。
そしてその大木にたどり着くと、拾った大きめの木の枝や蔓で洞穴の入口を、出来る限り自然に見える様に隠す。
白臣は久野家がある国まで戻って薬を調達する事にしたのだ。もしかしたら、薬売りか誰かに事情を話せば少しばかり譲ってもらえるかもしれない、と考えたのである。
……でもさすがにそれはあまり期待できないかもしれないな、と白臣は本日何度目かの溜め息をついた。あの国では自分の様な容姿の者が近づいてくることさえ忌み嫌う様な雰囲気を人々から白臣は感じ取っていたからである。とはいえ、弟切草も地縛りも道端にでも生えている様などこにでもある草で、日雇いの少ない賃金でも十分にお釣りがくる程の値段しかしない。下手すれば国に戻っている最中に見つけることができる可能性だってあるのだ。
本当はあの様な状態の宗志を一人にしたくなかったが、背に腹は変えられない。あの洞窟を抜けてから那智組どころか人ひとりとして見かけてはいない事がせめてもの救いである。
「宗志、少し待っててくれ」
白臣は後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、洞窟を目指して走り出しだ。
――苦シイ痛イ悲シイ辛イ憎イ憎イ憎イ
――見るな見るな見る……な……
――そんな目で俺を見るなああああ!
弾かれる様に宗志は目を覚ました。掌が気持ち悪く感じる程に汗ばんでいる。心臓が速く脈を打ち、呼吸は激しく乱れ息苦しかった。
「宗志! 具合はどう? 何か凄く魘されていたけど」
「……あぁ、問題ねぇ」
「そっか、良かった」
宗志は気だるそうに首を回し、辺りをぐるりと回視する。自分達は大木の洞穴の中で休む事にしたんだっけな、とぼんやりとした頭で思い出した。
ふと不信な事に気づいて自分の着流しの中を覗く。胸や腹には丁寧に包帯が巻いてある。しかしおかしい事に痛みが全くと言っていいほど無いのだ。あれほどの傷はいくら妖怪の血が流れていようと、完治するのに五日はかかるはずである。
「ハク、ここに来てから五日以上経ったか」
「いや、一日と半日しか経ってない」
「そんだけしか経ってねぇのか。ところでこの包帯とやらは盗んできたのか?」
「まさか! ちゃんとお金払って買ったんだ」
「お前、金持ってたのか」
宗志がそう言うと、白臣は何か言いかけたが口を噤んでしまった。不審に思って宗志が眉を寄せると、白臣は取り繕う様に言葉を紡いだ。
「……日雇いで少し働いたんだ」
「あの久野家がある国でか?」
「うん。大丈夫だ、那智組に跡はつけられていないし……」
「別につけらてようが、つけられていまいがどうでもいいんだけどよ。お前を雇ってくれる様な店、あの国にあるようには思えなかったがな」
欠伸を宗志は一つして懐に手を入れ、しゅるしゅると包帯を外す。それを見て白臣は慌てた様な声を上げて制止しようとする。
「駄目だ、包帯を外しちゃ! まだ怪我は治ってないんだか――」
「もう治ってる」
「へ?」
宗志は着流しの合わせ目を片手で掴むと、大きく開いて見せた。傷は殆ど塞がっていて、肩から腹にかけての大きな傷も今では薄らと赤い線が残るのみである。
「そっか。君は僕達よりも傷の治りが早いのだな。あ、これを」
白臣は自分の懐に手を入れて何やら笹の葉で包まれた物を取り出す。それを取り出す時、白臣の鎖骨の辺りに大きな痣があるのに宗志は気づいた。
別に気にも止めるようなものでは無いような気もしたが、何故か何か引っかかるものを感じたのである。
「これは地縛りと頭草をすり潰した物なんだ……って、どうしたんだ? 僕の首に何か付いているのか?」
「いや……」
首を傾げて白臣は首元を撫でた。その時少し袖が少しずれて普段は袖に隠れている肌が一瞬、顕になる。それを宗志は見逃さなかった。やや強引に彼女の腕を掴んだ。
「……離してくれ!」
白臣は宗志の手を振り払おうと抵抗するが男の力に、しかも妖怪の血が流れる彼の力には敵わない。そして彼は無言で白臣の袖をすっとまくり上げた。
そこには白く細い腕に痛々しい痣がいくつも散らばっている。宗志が何となく引っかかっていた事が、はっきりとした輪郭で現れたのだった。
「お前……まさか、日雇いって……樺小屋に行ったのか?」
「……うん」
「あんなの……見世物小屋みてぇなもんじゃねぇか!」
「見世物小屋とは違う! 樺小屋は国を治める者が許可して国に置いてるものだ」
「何も違わねぇだろうが! 人を出し物にして富を得ている事には変わらねぇ」
宗志は苛立だしく舌を打つ。樺小屋というのは発散小屋の別名である。縛り付けられた人間を、金を払って殴る蹴るといった行為をするのが許された場所だ。殺さない程度というのが条件で、腹や頭に暴行を加えるのは禁止されている。それは樺小屋で暴行を受けて賃金を稼ぐ人々のためというよりはむしろ、樺小屋を経営する者がそう易々と従業員を殺されてしまっては経営が困難になってしまうから、という経営者のための決まりである。
樺小屋と呼ばれる様になったのは、樺国とを治める大名が初めて創設したからだ。樺国では重い年貢や棟別銭によって民衆が一揆を起こさない様に、不満のはけ口として樺小屋を無償で提供した。それ以来、樺国で一揆は二度と起こることはなかったという。
その話は全国に広まり、今では樺小屋は裕福な武士や商人が料金を払ってまで利用するまでになったのだ。
宗志はじろりと白臣の顔を一瞥する。二人を隔てる分厚い壁の様な重苦しい沈黙が暫く流れた。その沈黙に耐えられ無くなったのか、白臣はぎこちない笑みを浮かべて口を開く。
「しょうがなかったんだ。僕を雇ってくれる店なんて、君が言う様になくて……」
「だからって樺小屋に行く必要なんかねぇだろ」
「でもそれじゃ包帯も薬草も買えなかった。それに半日で帰してくれるって店主が約束してくれたし……」
「あのな、その約束とやらを破ると店側の奴は死ぬのか? 違うだろ。店側がそれを守る保証なんてどこにもねぇだろうが! 解放されず監禁されたらどうするつもりだったんだ? 下手すりゃ見世物小屋に売り飛ばされるかもしれねぇ。そうなった時のこと考えてたのか!」
「それは……」
「……お前は甘いんだよ、言動も考えも何もかもが!」
苛立ちに任せて宗志は自分の頭をくしゃくしゃと掻く。白臣が自分のためにした事だとは分かっていた。だが無性に沸き上がる苛立ちを抑える事が出来なかったのだ。
その苛立ちは誰をも信じて疑わない白臣に対してでもあったが、もっと別のものに対してである様な気も宗志はしていた。しかし、それが何かは今の彼には分からなかったのだが。それが彼の苛立ちを更に倍増させていたのだった。
「確かに甘かったかもしれない。でも、ちゃんと帰してもらえたんだ」
そう言って白臣は大丈夫だ、とでも言う様に笑った。それを宗志は無言でちらりと横目で見る。
こいつは殴られている時もぎこちなく笑ってたんだろうな、となんとなく思った。嘲笑されても罵声を浴びせられても唾を吐きかけられても。それを思うと腸がちぎれそうなほどの怒りを宗志は感じるのだった。
「本当に僕は大丈夫だ。見ての通り少しばかり痣が出来ただけで特に体に異常はない。それに顔に痣は出来てないみたいだし……」
「お前、顔殴られたのか?」
「あ、いや……その……」
宗志は白臣の答えを待たずにすっと立ち上がった。そのただならぬ殺気に白臣は宗志の前に立ち塞がる。
「そいつはどこのどいつだ?」
「……そんなこと君が知ってどうするんだ」
「決まってんだろ、二度と拳を握れねぇ体にしてやんだよ」
「そんなの駄目だ! 彼らは店にちゃんとお金を払ってやってるんだ。……それに別に悪い人達ではないと思う」
「何を勘違いしてるか知らねぇが、俺の殺す基準は善人か悪人かじゃねぇ。んなことは俺にとっちゃどうでもいい事だ。もう一度言う、どけ」
ぎろりと宗志は行く手を遮る白臣を見下ろす。だが彼女は臆することなく一向に動く気配はない。宗志は鋭い視線を向けながら言い放つ。
「どけって言ってんのが聞こえねぇのか」
「嫌だ。そんなに行きたいなら……僕を殺して行け!」
「お前さ、俺がお前に刀を向けねぇとでも思ってんのか? ならそれは思い違いだ。痛い思いしたくねぇなら、どいた方が身のためだぜ?」
「……信じてるんだ」
そこで一呼吸間を置いて白臣は続ける。
「信じてるんだ。君が僕を斬ったりしないって。僕を殺したりしないって」
あまりにも真っ直ぐすぎる白臣の瞳を見ていられず、宗志は視線を逸らした。調子が狂う、と苦々しく吐き捨てると先程座っていた場所に再び座り込んだ。
暫く沈黙が流れてから、宗志の様子を伺う様に白臣はぽつりと呟く様に言った。
「やっぱり……迷惑だっただろうか。それとも薬が体に合わなかっただろうか」
宗志の前に立ち塞がった時の堂々とした態度とは打って変わり、俯きぎみで心做しか小さくなってしまった白臣を見て、宗志はくしゃくしゃと頭を掻いて溜め息をついた。
白臣が自分のためにしたことも、白臣が人のためなら後先を考えずに行動することも宗志は分かっていた……つもりだ。それは最初に那智組の牢獄での事からも導き出せる彼女の気質である。それでも宗志にはその行動が理解しがたくて声を荒らげてしまったのだ。それが自分のためだとしたら尚更である。だが、小さくなってしまった彼女を見るとその怒りも何処かに消え失せてしまった。
しょんぼりと縮こまってしまった白臣に宗志はふいっと顔を逸らして、溜め息を吐いてからぶっきらぼうに言葉を紡いだ。
「……世話になった。その……なんだ、あ、ありがとな」
言葉が返ってこない。宗志はちらりと目だけで白臣を見ると、彼女は心底嬉しそうに笑っていた。それはあまりにも眩しすぎて宗志は目線を再び逸らす。そしてぶっきらぼうの口調のまま付け加える。
「だが、二度と俺なんかのためにこんな事するんじゃねぇ。分かったな」
「君が怪我しなければね」
「なっ……!」
白臣の言葉に宗志は大きな溜め息を一つ零す。そんな宗志に白臣は先程取り出した笹の葉の包みを手に取り、それを丁寧に広げて宗志に突き出した。
「はい、これ。自分で食べられる?」
「……これは?」
「頭草と地縛りっていう薬草をすり潰したものだ。瀬快さんが別れ際に君に食べさせるようにと言っていたから、たぶん体の内側の損傷を癒してくれるんだと思う。ま、体に良いものである事には間違いない」
宗志はそれを受け取ると、添えられていた竹箸を使って少しばかり口にはこんだ。ぬめっとした舌触りと共に草特有の青臭さと苦味が口いっぱいに広がった。
「……不味い」
「そりゃあ美味しいものではないだろう。良薬は口に苦しって言うから。そうだ!」
白臣は何か思いついたのか軽やかに立ち上がった。そして思いっきり伸びをする。
「お腹空いてないか? さっき湖を見つけたんだ、結構近くに。そこで魚捕ってくるよ」
「俺も行くか?」
「大丈夫だ。それに君はまだ動かないほうがいいと思う」
「……じゃあそうさせてもらう。溺れんじゃねぇぞ」
その言葉に白臣はどこか拗ねた様に宗志を軽く睨みつける。その表情は彼女の幼さが残る顔つきをさらに幼く見せた。
「君は僕を何だと思ってるんだ。確かに君よりは年下だがもう元服だってちゃんと終えてる。そんなに子供扱いされるのは心外だ」
「……悪かったな」
「笑っただろ、今!」
更に剥くれてしまった白臣に宗志はふっと口元を緩める。凛とした顔をしたかと思えば子供の様な無邪気な顔をしたりと、白臣は宗志にとって掴めない存在であった。
「まあいい。君はくれぐれも傷が開く様な事はしないように。あと、薬が不味いからってそこら辺に捨てちゃだめだからな」
「んな餓鬼みたいな事しねぇよ」
「それもそうだな。じゃあ行ってくる」
「……ハク」
背を向けた白臣を宗志は呼び止めた。白臣は不思議そうな顔をしてゆっくりと振り返って首を傾げている。
「金輪際俺に気を許すな。信用なんぞしちゃならねぇ」
「……僕が誰を信じようと信じまいと君にとやかく言われる筋合いは無い。違うか?」
そう言って眩しいほどの笑顔を残して白臣は洞穴を出て行った。宗志は溜め息を零して手元の薬草へと視線を落とす。
「ったく、敵わねぇな……」
宗志は竹箸を使って黒い様な緑色の様な物体を、おずおずと再び口に運んだ。
「苦っ……」
白臣はのんびりと木漏れ日を感じながら湖へと続く道を歩いていた。宗志の力に少しでもなれた事が嬉しくて自然と頬が緩む。乾いた地面の上を軽やかに足を進めていく。
ふと、なんとなく視線を左側へと向ける。そこには特に変わった事はなく青々と草木が茂っていた。だが、何気なく気になって目を凝らして見ると、木々の奥の方に男が一人何をするでもなく立っていたのだ。
あの洞窟を抜けてから人ひとりも見かけなかったので、気に掛かって足を止めた。男はこちらに気づいていない様に見える。
男の出で立ちは遠目なのではっきりと見えないが、黒紫色の髪に、腰には刀を差しており武士だという事が見て取れる。
(こんなところで何やってるんだろ……?)
その時。男の頭部から銀色の尖った耳、同時に銀色の八本の尾が生えた。そしてぎろりと男がこちらを向いたかと思うと、男の顔が目の前にあった。白臣は反射的に間合いを取る。男からは全身を舐められる様な、喉元に爪を立てられている様な、彼女が今までで経験した事のない殺気を放たれている。
刀に手を掛けてもいない男に対して白臣はどうしようもない恐れを抱き、今にも背を向けて逃げ出したい衝動を必死に抑える。この男に背を向けたら最後、確実に殺られる気がしたのだ。
男は口元を吊り上げ、白臣を舐める様に見てから喉の奥を鳴らす様な笑い声を上げて口を開いた。
「人間の女にしてはちったァ動きはましなほうだなァ」
「何を……それに僕はおと」
白臣が言い終わらないうちに瞬間的な激痛が腹に走ったかと思うと、体は猛烈な勢いで吹き飛ばされ木に打ちつけられた。
地面に蹲る様にして腹を抑え、激しく咳き込む。立ち上がろうとするが体が思う様に動いてくれない。恐らく蹴られたのだろう、と白臣は働かない頭でそう解した。確信を持つ事が出来ないのは、男の動きを白臣が全く目でとらえる事が出来なかったからだ。
そんな状況の白臣の頭上から男の声が聞こえてくる。
「男ねぇ……てめぇのお遊びに付き合ってやるほど俺は寛容じゃねぇんだ、女」
白臣は腹を抑えて激しく咳き込んだままで顔を上げることすら出来ずにいた。男はその姿を舌なめずりをして見下ろしている。
「痛てぇか? 力加減が上手くできねぇんでなァ。腹ぶち抜かれなかっただけありがたく思え」
「お前は誰――」
「あ?」
男はしゃがみ込み白臣の前髪を左手で掴んで引っ張り、無理矢理顔を上げさせた。
「ただの人間の女ごときが俺の名を問うてんじゃねぇよ」
そう言って男は口元を吊り上げながら嘗める様に白臣を見る。彼女はその男を翡翠色の瞳で睨みつける。
「そんな目ができるなんざ肝が据わってるのか、ただの身の程も知らねぇ馬鹿のどちらかか……。それにしても気味の悪りぃ色の髪と目玉だなァ」
「お前は何が目的なんだ」
「目的? 目的ねぇ……強いて言うなら俺の傑作を駄作にしやがった女を葬りに来たってところだな」
ククッと男は喉を鳴らして笑っている。男の言っている事が白臣に全くと言っていいほど理解出来なかったが、この男の言う〝女〟が自分を指している事だけは理解出来た。逃げなければと彼女は思うものの、この状況から抜け出す策が見当たらない。目の前の男に隙というものが存在する様には思えなかったのだ。
「俺の芸術を穢した罪は重い。あいつを狂わした女に興味がなくはねぇが……」
男の瞳に妖しい光が宿った。男は右手を白臣の首へと持っていき力を込めると、その首を締めたままの状態でぐっと立ち上がる。白臣の足は地から離れてしまう。
「あいつを狂わした女がどんな面でどんな鳴き声を上げ、くたばるかの方が興味があるんでなァ」
「ッ……あ、……くッ……」
「そそられるじゃねぇか、悪くねぇ鳴き声だなァ。女は大人しく鳴いてりゃいいんだ。どうだ苦しいか、苦しいよなァ。てめぇに選ばしてやらァ。このまま扼死するのか首の骨折られて死ぬか」
「ぁ……ッ、……くッ、ぁ」
「そうか、これじゃ答えられねぇか。ならこのまま死んで逝け」
白臣は両手で男の手を外そうと試みるが、男の手は緩まる気配がない。足を必死にばたつかせるが虚しく空を蹴るばかりである。口からは呻き声が漏れ出す。次第に生理的な涙が溜まっていき視界がぼやけてくる。それに伴う様に思考も朦朧としてきた。
苦しい苦しい苦しい……もう駄目かもしれない、と本能的に感じとった時。