07 じゅわり。
扇風機の風に浮き上がろうとするプリントをペンケースで押さえ、八つ当たりみたいにガリガリとシャーペンを走らせた。
ぬるい空気の入る窓から、運動部の声が遠く聞こえる。校庭に照り付ける太陽は、でき掛けの入道雲さえまぶしく焼いて目に痛い。
オレの夏休みが補習まみれになるだろうとは、始まる前から解ってた。以前の学校で病欠が長引き、その大きな穴を埋めなくてはならないからだ。
連日の補習を受け持って、しかし担任はちょっと泣いた。「俺の人生をどうしてくれる」と嘆く姿が気の毒で、悪いと思う。思うだけで、恋人にフラれても責任は持てないが。
「先生、あっつい」
「うるさいぞ倉持。文句を言う暇があったら、メールの返信が来る様に祈れ!」
寄り掛かるように両手をついて、真剣に見つめる教卓には携帯電話がのっている。メールも無視ってどう言うことだとぶつぶつ呟く担任に、体感温度がどっと上がった。
クーラーなしの教室で午前中いっぱい戦って、ふらふらしながら校舎を出ると一瞬で太陽にじゅわりと焼かれる。
やばい。このままでは、オレと言う存在が消えてなくなってしまうかも。この暑さで。
日差しを避けてあちこちの木陰を渡り歩き、もう少しで校門にたどり着く。そんな辺りで、「どうして」と。耳に飛び込む誰かの言葉。
明らかな非難を帯びる高い声に、思わず足を止めさせられた。何ごとかと、目を向けておどろく。校舎の裏にほとんど隠れて見えないが、チラチラ覗く短いスカートとつるんとした足は確実に女だ。
夏休みとは言え、男子校の敷地に女子がいるのは違和感が凄い。実際、まずいだろう。
何か言うべきか、それとも見ないふりして立ち去ればいいのか。いや、さっさと逃げるべきかと、迷った分だけ遅かった。
「倉持君、今帰り?」
目の前の女を押しのけるように、校舎の陰から顔を出したのは副会長だ。
休日登校にも制服着用の規定通り、半袖のカッターシャツにえんじ色のネクタイをきっちりと締めている。いつ見ても整った人だ。
きれいな笑顔を向けてくるから、つられてこっちもへらへら笑う。笑うけど、頭の中ではぐるんぐるんと悲鳴が響いていたりする。
あーあ。見ちゃダメなとこ見たな、これ。
「一緒にいい?」
「いいですけど、いいんですか?」
「お昼は寮に頼んであるから」
長期休暇は帰省する生徒で人が減る。
学校の食堂はやってないし、寮の食事は予約制だ。だからこの返事は、昼はどうせ寮に戻るからってことだろう。
しかし、オレの聞いた意味は違う。本人は完全に無視していたが、残された女が離れる副会長をすっげー見てる。話はまだ終わってないと、背中に向けて苛立たしげな声もする。
「先輩」
「あぁ……、そうだね」
放っといていいのかと見上げると、副会長は珍しく、ほんの少し眉をひそめる。表情の変化はわずかだった。しかし、元が元だ。
こんなきれいな人に嫌われたら、もう生きて行けないかも。そんな気分にさせられそうな顔のまま、女を見もせず横顔で言う。
「貴方はもう少し、場所と都合を考えるべきですね。お引取り下さい」
迷惑だ、帰れ。を遠回しに伝えると、副会長はオレの背中をそっと押した。うながされるまま校門を出る直前に、彼女が気になりチラリと窺う。やめて置けばよかった。
泣きそうな顔は見る間に強張り、憎しみを込めてにらまれる。副会長が去るのはオレのせいだと、邪魔者を責めているかのようだ。
車も人も通らない道を、三分も歩けば寮に着く。その途中、熱くなったアスファルトの上、じゅわりとしみ出る汗と一緒に疑念が勝手に口からこぼれた。
「オレ、邪魔したかなあ」
「どうして? 助かったよ」
首をかしげて言う人はもう、すっかり全部元通り。優しくほほ笑む副会長だ。
だから、かえって不思議だった。あの人だけを、何で冷たいくらいに扱ったのか。
聞いてみたいと見上げると、ひたすらきれいないつもの笑顔がそこにある。何でもないですごめんなさい。その顔を見てしまったら、疑問や言葉は全部どこかへ吹っ飛んだ。
そのことに、あ、と思う。唐突に解った。
相手の言葉は引き出すけれど、自分は何も語らない。それ以上は入ってくれるな。関るな。この美しい顔に浮かぶ笑顔は、そう言うタイプのものかも知れない。
だとしたら、と少し笑った。
何ともそれは、この人に似合いの秘密だと思う。