43 バカかよ。
事故と怪我についての描写があります。
ご注意ください。
最後に見たのは、母さんの手だった。
オレを守ろうとするように、伸ばされた手だった。
夕方だった。車はほかにもたくさん走っていた。なのに、それは母さんの運転する車に突っ込んできた。
夕食の準備が遅くなっちゃう。
そんなふうに言いながら、ハンドルをにぎる母さんが突然強い光に照らされた。対向車のヘッドライトが、真っ直ぐにこちらに向かって伸びていた。
その日は雨だった。
それは春のことだった。
オレは高校に入学したてで、四月になったばかりの頃だ。
雨が嫌だった。新しい制服で、雨の中を帰るのは気が重かった。
だから、むかえにきてよ母さん。
高校に入って新しい機種に変えたばかりの携帯で、家に電話を掛けて無理に頼んだ。
バカかよ、オレは。
やっとそう思ったのは、事故のずっとあとだった。
この左腕は一度、完全に切断されている。
それを手術で、何とかくっつけたと聞いた。
事故のあとオレの意識はしばらく戻らず、目が覚めたら覚めたでまともに考えられる状態ではなかった。
一度切れた神経がまたつながるには時間が掛かる。痛いのは治っているサインだ。痛みがない場合、正常に治癒しない可能性がある。だから確認のために、鎮痛剤は打てない。
医者が色々言ったけど、その時は少しも理解できなかった。腕は二十四時間絶えず痛んで、そのせいでろくに眠れない。判断力なんかないに等しい。正常に考えられるわけがない。死んだほうがマシだと、考えない日はなかった。誰にでも声を荒げて当り散らした。
その左腕以外には、キミに大きな傷はない。
そう言ったのは、誰だったか。
お母さんに守られたんだね。――こんなことを、解ったように言ったのは。
葬儀も納骨も終わったあとで、母さんは死んだと教えられた。
「……バカかよ」
エンジンの音に紛れそうな呟きは、しかし届いてしまったようだった。帽子をかぶった運転手が、ミラー越しにこちらをチラリと確かめた。
終点だと言われて、バスが止まっていることに気付く。
学校を抜け出して適当に乗ったが、最初はほかにも乗客がいた。それが段々と減って行き、いつの間にか一人になった。
暖房の効いた車内から出ると、冷たい空気が頬や鼻を刺した。なるほど、と思う。
高台の、公園らしい。
空が広い。背の低い街並みが遠くに見える。
見晴らしはよかった。だがこの景色のためにわざわざ昼間、足を運ぶ人は少ないだろう。
あるのは柱と屋根だけの小さな小屋と、いくつかのベンチ。一面は雑草まじりの芝生で覆われ、緑の端には腰の高さの柵がある。それから先は地面がなかった。
エンジン音が離れて行くのを、背中で聞いた。バスが道を戻って行くと、寂しいようなこの場所にはオレだけが残された。
息を吐く。息を吸う。肺に冷たい空気が入り込む。そうして呼吸しているはずなのに、胸が苦しい。
ネクタイを外して、投げ捨てた。左腕からアームホルダーを抜き、それも捨てる。歩きながら脱ぐブレザーは、足に引っ掛かってから芝生に落ちた。
公園の端までたどり着く。柵につかまり、叫ぼうとした。遠い景色の中の誰かに、叫びたかった。
――けれど、オレを包むのは静寂だ。
風の音がする。こすれる葉っぱの音がする。遠い景色に、街の気配がかすかにあった。
叫びたいのに声が出ない。泣きたいのに涙も出ない。
苦しみと悲しみと、怒りや後悔。そう言うもので自分の体がぱんぱんに張りつめ、すぐにも裂けてしまいそう。だと、思うのに。
これでは、まるで。空っぽみたいだ。
カッターシャツはすっかり冷えて、痛いような空気と同じ温度で体温を奪った。
このまま凍えてしまえばいいのに。心ってヤツが、何も感じずに済むくらい。
かじかむ手足を縮めて丸まり、芝生の上に転がっていた。そこから横向きの風景を見たまま、どれくらいを過ごしたか。
背後で、携帯の音が聞こえた。標準設定の着信音がぷつりと途切れ、声がする。
「旭か。あぁ、見付けた。――ちょっと待て」
青い葉っぱを柔らかに踏み、視界に大きな足が現れた。スニーカーが、オレを突っつく。
「生きてるか? 真樹」