30 あんたには。
変な汗をかいてたし、胃の辺りがしくしくじわじわと落ち着かない。峰岸が何をするつもりかは解らないけど、何してもおかしくないとも感じてた。正直、恐くて仕方ない。
だけどオレは、こうだから。
二度と笑えないようにしてやると言われて、しかし途端に笑ってしまった。扉も窓も締め切った倉庫に、思い切り大きな笑い声がバカみたいに響く。
完全に虚をつかれたらしい。あっけに取られている男に、叫ぶように教えてやった。
「あんたには無理だ!」
うまく行かないもんだと思う。
二度と笑うなと、幸せになるなと。
そんなふうに憎んで欲しいと思う人は、すでにオレを許してしまった。
突然――、でもないか。
峰岸が、オレの顔をバシンと叩いた。頬がしびれ、熱くなる。
侮られたとでも思ったようだ。不快そうに、オレに問う。
「ナメてんの?」
いいや、まさか。これは、自分に対しての失笑だ。
つい、言いたくなる。そんなことは無理だ。あんたには無理だ。だってオレはすでに一度、全部捨ててここにいる。
「オレはねえ、とっくに後悔してるんですよ。楽しいことなんか、一つもいらないはずだった。絶対一生後悔してて、二度と笑ったりしないって思ってもいた。……だけどオレは自分で思うよりずっとずるくて利己的で、結構楽しくやっちゃってるんだ。でしょ? あんたがむかつくくらい、普通にね」
わけが解らないと言う顔で、それとも興味がないと言う顔で、峰岸がオレを見る。まあ、どちらでもいい。どうせ伝わらないだろう。
だから最後に、こう付け足した。
「自分のためでも無理なのに、あんたのせいで不幸になんかなれないっすねえ」
ぶふっ。
誰かが、音を立てて吹き出した。
「ばか」
「だって、今のはむりだろー」
もめる声がごにょごにょと聞こえて、倉庫の扉が重たくきしむ。レールに土が入り込んでいるようだ。二枚の引き戸が左右に完全に開くまで、途中で何度も引っ掛かった。
雑然と放り込まれた運動用具が、新しい空気に洗われる。大きく開いた扉の形に太陽光が差し込み、中の暗さを眩しく焼いた。
倉庫の中からそちらを見ると、逆光に浮かぶ人影がいくつか。ウサギみたいな耳を揺らして、その内の一人がふざけて言った。
「はいはーい、執事が助けにきましたよー」
それが槻島だと解っても嬉しいような気がするんだから、人の心は本当に不思議だ。
こうして見付かっても、峰岸には慌てる様子さえない。人を食ってへらりと笑う。
「なに? もうバレちゃった? まだ遊べると思ったのになあ」
「今更懐かしむほど、学校を好いていたとはね。知らなかったよ、峰岸」
槻島の横で腕組みをして、執事の格好をした旭副会長が言う。言葉は静かだったけど、どこかピリピリしていると思う。余裕がないと言うような、その空気におどろいた。
「懐かしむ! じょーだんだろ?」
解らないのか、それとも承知でバカにするのか。ゲラゲラと笑う男の近くを、ふいっと誰かがすり抜けた。
大きな体は目立つのに、通り過ぎてからその存在にやっと気付いた。そんなふうに、峰岸の目が一瞬遅れて人影を追う。
宗広先輩はその視線を背中に浴びながら、古い跳び箱に座ったオレを見下ろした。
「忙しいな、お前は」
「ええと……。ご迷惑お掛けしてます」
何かもう、本当に。ほかに言葉が思い付かない。頭を下げると、先輩が手を差し出した。つかまれと言うことか。
何も思わず手を伸ばし掛け、はっとする。自分の右手が真っ白い。そうだ。オレは全身粉まみれ。思わず引っ込め掛けた手を、宗広先輩が強くつかんだ。
「汚れますよ」
「馬鹿か。行くぞ」
その手にぐいぐい引っ張られ、倉庫から出ると金田がいた。白っぽく汚れたオレを見て、複雑そうな顔になる。
「倉持、それって無事なのかな」
「さあ、どうだろう」
とりあえず、服に関してはこれから野谷に怒られる。何をもって無事と言うのか、それは意見の分かれるところだ。
「腫れてる」
宗広先輩が不意に言い、手を伸ばした。
あごに触れて上向かせると、確かめるようにオレの頬に指先を滑らす。無表情に見下ろしているその顔は、絶対に、怒ってた。