25 魂が。
ごめん。そう謝る父さんは、いつも通りだ。
脱いだジャケットを腕に引っ掛け、ブイネックのシャツを着ている。だけどシャツには変な折り目が付いていて、それを見るのがオレはとても嫌だった。
「つい、懐かしくなってね。来ちゃったよ。最近の文化祭はすごいね。私の頃とは、比べ物にならない」
そう言いながらほがらかに笑って、父さんは笑顔で宗広先輩のほうを見る。
「二人は、寮で同じ部屋なんだってね。世話を掛けるだろうけど、よろしくお願いします」
「父さん!」
余計なことを言わないで欲しい。そんなふうに声を上げるオレの横で、少し眉をひそめて先輩が頷く。
「俺で力が及ぶなら、どんな事でも」
「……それは、ありがとう」
たまに出てくる宗広先輩の貴公子ぶりがここで出たか。できれば、今は遠慮して欲しかった。大げさな返事におどろいたのか、間を置いて礼を返した父さんが腕時計を見る。
「じゃあ、行くよ」
「もう?」
「今日はそろそろ終わりみたいだし、真樹も忙しいだろう? 元気そうな顔が見れてよかった。――それで、悪いんだけど、校門まで送ってもらえるかな。宗広くん」
自分がいた時代とは校舎が違うから、実は迷ってしまったと照れたふうに笑う。宗広先輩は、だから一度父さんと行った。
しかし途中で足を止め、廊下をずんずん引き返してきた先輩がオレの目の前に立つ。先に行く父さんは離れていたけど、まだ背中が見えている。だから、声が届かないようにか。
覆いかぶさるように大きな体を傾けて、オレに唇を近付けた。そして低く押し殺した声を、ほとんど直接耳に吹き込む。
「お前、どうかしてるぞ」
制服に包んだ体で視界を閉ざされ、耳に注がれた密やかな声にギクリとした。父さんを追うため素早く離れる一瞬に、わずかに合った宗広先輩の目の色が冷たい。
眉をひそめるでもない。憤りがにじむでもない。無表情とでも言うべきそれに、しかしこの人を怒らせたのだと言うことは解った。
だけど、オレの何が悪かった?
「……怒ってますよね」
根負けしたのはこっちだった。
先輩はずっと喋らなかった。学校の帰りも夕食も、まるで義務だと言うように一緒にいたけど何も言わず目も合わせない。
風呂から戻ったのをつかまえても、「別に」と言ってオレを見もせず寝床に入る。
「先輩!」
「うるさい。寝ろ」
ベッドの柵にしがみ付くと、宗広先輩は寝返りを打って背中を向けた。オレの不満がピークをむかえた瞬間だ。話もせずにふて寝って、夫婦ゲンカ中のダンナかあんたは。
作り付けの二段ベッドは、上の段が先輩だ。肩くらいまで高さがあって、ハシゴを使わないと登れない。だからオレが下の段をもらったのだが、何とか上がれなくもない。
右手で上のほうの柵をつかみ、ハシゴにはできるだけ高い位置で足を掛ける。逆の足で床を蹴り、ハシゴと柵で力任せに反動を付けてベッドの中に飛び込んだ。
すると先客は当然オレの下敷きになり、ああ、下敷きになったんだな、と言うようなうめき声を「ぐあっ!」と上げた。
「っ……てっめぇ……! 何やってんだ!」
「さあ、ゆっくり話そうじゃありませんか」
「ふざけんな。さっさと下りろ」
「いやいや、ちょっと待って下さいよ。オレ、先輩の左っ側じゃないと腕が痛くて」
「俺じゃねぇ! ベッドから下りろっつってんだろうが!」
まあ、それはシカトして、オレは体の右半分を下にして寝そべる。そうして隣にいる人を見ると、まだ湿った髪の下には困惑まじりの不機嫌そうな顔があった。
それが余りに見慣れた表情で、ほっとする。思わず笑うと、手をついて上半身を軽く起こした先輩がオレの頭をぺちりと叩いた。
「何なんだよ、お前は」
「それ、こっちのセリフですよ。話さないし見ないし無表情だし、迫力あり過ぎです。――父さんの、ことですよね」
あのタイミングだ。ほかにない。
問うと、片目がピクリと細まった。少しの間オレを見て、それから大きく息を吐く。体を倒し、先輩はあお向けに寝転んだ。
「オレ、うまく笑えてませんでした?」
「いいや、役者にでもなれ。死ぬほど巧く笑えてたぞ。……だからだ。笑いたくもない癖に、あんまり巧く笑ったりするな」
ベッドの低い天井を見ながら、宗広先輩は当たり前のことみたいに言う。
「自分を殺したら、魂が腐る」