19 本題。
柔道場の中は静かだった。
エアコンは掛かってなかったが、そう暑くはない。全ての窓が開け放たれて、心地いい風が通り抜けているからだろう。
敷きつめられた畳の中央に、制服の男が正座している。オレを連れてきたヤツらは、この人を部長と呼んでいた。
「急に済まない。一度、話がしたかった」
その口調が折り目正しく穏やかであることに、少しおどろく。人をいきなり担ぎ上げ、力技で連れてきたヤツらの仲間だ。頭ごなしに怒鳴り付けるタイプでも、不思議はない。
オレはちょっとだけ男を見つめ、それからその人と向き合うように正座した。道場の後ろには、強そうな部員たちがぞろぞろと控えている。どうせ、逃げられそうにない。
「話って、何ですか?」
「本題から言う。宗広多貴さんと別れて貰いたい」
ゴゴン。
倒れ込むように畳に頭突きする鈍い音が、柔道場の中に響いた。
きれいに編まれたいぐさの上から額を離し、上半身をのろのろ起こす。その自分の顔に、仏像のようなアルカイックスマイルが浮かんでいるのを感じた。
そうか、人は古来から知っていたに違いない。事態が自分の理解を超えた時、何となくこう言う顔になる心理を。
体を張ったオレのリアクションに、柔道部の部長はわずかに目を見開いた。しかしその表情はすぐに消え、ふと影が落ちたように視線を伏せる。
「多貴さんは、ずっと柔道部だった。三年になると同時に引退したが、余裕がないと言われれば引き止める事もできなかった」
宗広先輩が柔道部だったと、今初めて知った。おどろいたが、意外ではない。無駄にでかいと思っていたあの体格は、理由があって培われたものだったか。
だが進級と同時なら、春だ。オレはまだ転校していない。関係ないはずの話だった。
「高三は、大事な時期だ。だから多貴さんも柔道を止めた。君は知っているか。候補を預る事が、どれだけの負担を強いるのか」
実際、春の時点で打診はあったが候補者を預かろうとはしなかった。余裕がないと部をやめたのだから、当然だ。なのに、なぜ? と、オレに聞かれても知るわけない。
男は伏せていた目をこちらに向けて、顔を歪めるように薄く笑った。
「今になって、君を預る理由が解らなかった。しかし君と多貴さんが交際していると聞いて、納得したよ」
「しないで下さい。交際なんかしてません」
「これ以上、足を引っ張る様な真似は止めて貰う。すぐに別れて、寮の部屋も移るんだ」
人の話聞きゃしねえー!
そんなに迷惑なら、部屋を移るのはまあ別にいい。でも付き合ってねえから。それだけは何としても解って欲しい。だけど話を聞こうともしない相手に、どうすればいいのか。
思わず頭を抱えていると、道場の後ろのほうから声がした。
「俺とこいつが別れるのは無理だぞ、白雪」
「……多貴さん!」
長い正座で、足がしびれたりしないのだろうか。目の前で、さっと立ち上がる姿に思う。
て言うか、白雪。今この人、白雪って呼ばれたよな。何て可憐な名前なんだ。ぜひ、石巌川と名字を取り替えてやって欲しい。
名前のわりに男らしい顔立ちの白雪部長は、オレの背後へ目を向けている。すでにしびれた自分の足を何とか崩してそちらを見ると、ひときわ大きな人影が柔道部員を蹴散らしているところだ。
いや、本当には蹴ってない。ずかずかと上がりこむ宗広先輩の迫力に、部員たちがざわつきながら道を空けているだけだ。
先輩はオレの近くで足を止め、白雪を見る。
「話があるなら俺に言え」
「自分はただ……」
何かを言い掛ける相手にはもう構わず、大きな体が片膝をついてオレに言う。
「行くぞ、立て」
「いや、それがちょっと足がしびれてまして。つーか先輩、別れるの無理ってなんすか」
この人はさっき、完全に誤解を招く言い方をした。それを責めると、意外そうな顔をして眉を片方持ち上げる。
「付き合ってないものは、別れないだろう」
うわ、くそ。絶対納得できないのに、何か正論っぽいこと言いやがって。確かにそうだ。それはそうだが、しかし世の中には外聞と言うものがある。
文句を言おうと口を開くが、オレが何か言うより先に白雪が衝動的な声を上げた。
「自分は!」
下を向いたその顔が、苦しげだった。
「自分はただ、貴方にずっと居て欲しかった」