15 これはまずい。
あ、思い出しちゃった。
それだけは、不思議に冷静な頭で思う。けれどもそう解った時にはすでに遅くて、記憶が重たく胸を潰した。息が苦しい。
普段は目を逸らして生きているのに。それで全部、きれいに忘れたようなつもりになるのに。思い出すだけで全身が冷たくなるような、そう言うものは急激に心の底から浮かび上がって目の前に現れる。
何もかも投げ出して逃げたのに、これだけはオレを離してくれなかった。
いつの間にか、一人だったはずの部屋の中に自分ではない気配を感じる。そう思うのとほとんど同時に、宗広先輩の声がした。
「倉持」
肩に、大きな手が軽く触れる。その感触に応え、オレは膝にのせた頭を上げた。
いつの間に赤い夕日は消えたのか、窓には青黒く沈んだ空だけだ。立てた自分の両足を抱えるような格好で、腰を下ろした床の色さえ解らない。
蛍光灯のスイッチが入れられ、部屋の中が明るくなった。その光に照らされて、スイッチ近くの壁際でこちらを見下ろす顔が恐い。
怒ったみたいな厳しい視線がざくざくと刺さり、オレは多分、ちょっと縮んだ。
「具合でも悪いのか」
「……ええと、悪くないです」
まるで慌てて投げ捨てたみたいに、床に放り出された大きめの紙袋が目に入る。この人が洗濯のために留守にしていたのだと、それを見て思い出した。
「洗濯室すいてました?」
「倉持、何かあるなら言え」
「何って、別に。つい寝ちゃったんです」
その嘘に、先輩がぴくりと目を細める。けれども責める言葉はなくて、「そうか」と小さく言うだけだ。
オレから離した目を落とすと、足元の紙袋を拾う。乾かしたばかりの服を取り出し、自分のクローゼットにぽいぽいと放り込んだ。
そうする間も眉間のしわが消えないのは、心配してるってことかも知れない。
だけど、どうかな。この人はいつでもこう言う顔だ。オレにはよく解らない。機嫌がいいのか悪いのか、何を考えているのかも。
「一ついいか」
クローゼットをぱたんと閉じて、宗広先輩はその扉を見つめるようにして言った。
「お前は……、誰にも本心を言ったりしないのか? それとも俺には言えないだけか?」
言えるわけがない、と。飛び出し掛けた言葉を、とっさに飲み込む。
嫌なことを思い出して、消えたくなってたとは言えなかった。どうしたらいいか解らない、なんて言われても困るだろう。
どんなつもりでそれを問うのか、やっぱりオレには解らない。
よっこらしょ、と声に出して立ち上がる。財布をジャージのポケットに突っ込んで、ドアの取っ手を持ちながら聞いた。
「ちょっと飲み物買ってきます。何か、いります?」
明らかに逃げたわけだが、止められはしなかった。仕方ない。これ以上一緒にいたら、余計なことを言いそうだ。お互いに。
腕の重さで肩に食い込むアームホルダーを直しつつ、スリッパをぱたぱたさせて廊下を歩く。
寮の一階には自販機がいくつか設置された場所があり、その前にはベンチが並べられていた。すぐ向かいが洗濯室で、寮生がそこに座って洗濯が終わるのを待っていたりする。
しかし今は、誰もいない。
――いや、違うな。誰かいそうだけど、姿は見えない。こう言うのが正しそうだ。
無人のベンチには洗濯物の入ったバッグが置きっ放しで、ガラスの引き戸で仕切られた洗濯室にも人影はない。ほぼ全ての洗濯機が使用中で、その音はガラス戸を閉めてあっても外までうるさい。
だから声がしたとか、そう言うことではなかったと思う。
騒音対策だろう。寮の洗濯室は建物の端だ。自販機とベンチが並んだその先の角を曲がると、非常口につながる細い通路がひっそりとある。それは一応知っていた。
本当に、何となくだ。どう考えても、それ以外の言葉が思い付かない。
何となく気になって、オレは角の向こうをひょいっと覗いた。その細い通路に顔を出し、おどろいたのはこっちだって一緒だ。
一番奥の扉の上に非常口を示す緑色の明かりがあるだけで、通路の中は暗かった。洗濯室からこぼれる光に、相手の顔が見えるかどうかと言う程度。
通路には、人がいた。それも四人も。
これはまずい。
反射的に思うのとほぼ同時に、Tシャツの首をつかまれ通路の奥に引きずり込まれた。