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悪役令嬢にならないよう努力したのに、結局婚約破棄されました

作者: 金林明莉
掲載日:2026/08/04

 人は、生まれた瞬間から人生が決まっているのだろうか。

 もし決まっているのなら、努力に意味はあるのだろうか。


 五歳だった私は、その答えを知らなかった。


 けれど――。

 その日、私はすべてを思い出した。


     ◇


「クラリス様、お誕生日おめでとうございます」


 侍女たちが笑顔で頭を下げる。

 大きなケーキの上には、五本の蝋燭。


 父であるローランド公爵は珍しく頬を緩め、母は優しく私の髪を撫でていた。


「今日からクラリスも五歳だな」


「ええ。本当に大きくなりました」


 二人の声を聞きながら、私は蝋燭へ息を吹きかける。

 ふっと灯が消えた、その瞬間だった。


 頭の奥へ、膨大な記憶が雪崩れ込んできた。


 見知らぬ街。

 高い建物。

 手の中で光る薄い板。

 制服姿の学生たち。


 そして――あるゲーム。


「っ……!」


 激しい頭痛に思わず額を押さえる。


「クラリス!」


 母が駆け寄る。


「大丈夫か」


 父の低い声が聞こえる。


 心配そうな二人の顔を見つめながら、私は震えていた。


(思い出した……)


 ここは前世で遊んでいた乙女ゲーム。

 その名は『恋するロイヤルアカデミア』。


 魔法学院を舞台に、平民出身の少女ソフィーナが王太子アルフレッドと恋を育む物語。


 そして私は。


(クラリス・フォン・エーデルシュタイン……)


 王太子の婚約者。

 主人公を執拗にいじめる悪役令嬢。


 嫉妬に狂い、最後には婚約を破棄され、公爵家まで没落する。


 攻略本で何度も見た破滅エンド。

 その悪役令嬢が、私だった。


 背筋が冷たくなる。

 五歳の体なのに、心臓だけが嫌というほど速く鼓動していた。


(嫌……)

(そんな未来、絶対に嫌)


 悪役にならなければいい。

 主人公をいじめなければいい。


 ゲーム通りに動かなければ、きっと未来は変えられる。


 そうだ。私は、悪役にならなければいい。


「クラリス」


 父が私の前へ膝をつく。


「本当に大丈夫か」


 私は慌てて笑顔を作った。


「少し驚いただけです」


「そうか」


 父は安心したように息をつく。


 その姿を見て、胸が締めつけられた。


(この人も失う)


 ゲームでは、公爵家は娘の罪によって没落する。

 忠実だった使用人たちも散り散りになる。


 家族も幸せになれない。


(そんな結末にはしない)


 私は拳を握った。


(私は悪役令嬢にならない)

(誰も傷つけないし、優しく生きる)

(努力して未来を変える)


 それが、五歳の私が立てた誓いだった。


     ◇


 それから十年以上。


 私は、来るべき未来のために生き続けた。

 礼儀作法は誰よりも真面目に学んだ。

 教師への態度を崩さなかった。


 使用人には感謝を忘れず、失敗しても責めなかった。

 困っている人を見つければ手を差し伸べた。


 そして何より。


 未来の主人公――ソフィーナ・リーベルトを、決して敵にしないと決めていた。


 ゲームのクラリスとは、正反対の人間になる。

 それだけを胸に、私は毎日を積み重ねた。

 やがて月日は流れ、学院へ入学する年を迎える。


 ゲームが始まる年。

 本来なら、私の破滅が動き出す年だった。


 けれど私は、ゆっくりと息を吸う。


(大丈夫よ。十年以上頑張ってきたもの)

(未来はきっと変えられる)


 そう信じて、私は王立学院の門をくぐった。


     ◇


 王立学院。


 王侯貴族や成績優秀な平民だけが入学を許される、この国最高峰の学び舎。

 白亜の校舎は朝日に照らされ、磨き上げられた窓ガラスが眩しく輝いていた。


 広い中庭には色とりどりの花が咲き誇り、新入生たちは期待と緊張を胸に、それぞれの教室へ向かって歩いている。


 クラリスは学院の門を見上げ、小さく息を吐いた。


(ここから始まる)


 十年以上待ち続けた日。


 ゲーム『恋するロイヤルアカデミア』の物語が、今日から幕を開ける。


 本来なら、この学院で私は悪役令嬢として振る舞う。

 主人公を見下し、陰湿ないじめを繰り返し、周囲からも恐れられる存在になる。


 そして最後は婚約破棄。

 すべてを失う。


(もう違う)


 その未来を変えるために、私は生きてきた。


 自分へ言い聞かせるように胸の前で手を握ると、校舎へ向かって歩き始めた。


 その時だった。


「あっ……!」


 少し離れた場所から、小さな悲鳴が聞こえた。


 振り返ると淡い栗色の髪を揺らした少女が、人波を避けようとして足をもつれさせていた。


 手に抱えていた教科書が宙を舞う。

 このままでは転ぶ。


 クラリスは反射的に駆け出した。


「危ない」


 少女の身体を支える。

 数冊の本が足元へ落ちるだけで済み、少女は目を丸くした。


「す……すみません!」


 慌てて頭を下げる姿に、クラリスは優しく微笑む。


「お怪我はありませんか」


「は、はい……!」


 少女は頬を赤くしながら何度も頷いた。

 その顔を見た瞬間、クラリスは確信する。


(ソフィーナ・リーベルト)


 ゲームの主人公。

 王太子アルフレッドと恋に落ちる少女。


 本来なら、ここでクラリスは彼女を嘲笑い、転ばせたことを笑い者にする最初のイベントが発生する。


 だが、現実は違った。


「本が汚れてしまいましたね」


 クラリスはしゃがみ込み、一冊ずつ丁寧に拾い上げる。

 土が付いた表紙をハンカチで軽く払うと、ソフィーナへ差し出した。


「どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 ソフィーナは大切そうに本を抱え、何度も頭を下げた。


「私、緊張してしまって……」


「初日は誰でも緊張します」


 クラリスは穏やかに答える。


「どうか気になさらないでください」


 その一言に、ソフィーナはぱっと表情を明るくした。


「とてもお優しいんですね」


 その言葉に、胸が熱くなる。

 ゲームでは決して向けられなかった笑顔。


 それを今、自分は受け取っている。


(変わった)


 本当に変わった。

 胸につかえていたものが少しだけ軽くなる。


「私はソフィーナ・リーベルトと申します」


「クラリス・フォン・エーデルシュタインです」


「よろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


 二人は自然に微笑み合う。

 その光景を、少し離れた場所から眺める少女がいた。


 柔らかな茶色の髪。

 人当たりの良さそうな笑顔。

 誰もが好感を抱く穏やかな雰囲気。


 ミレイユ・カーター。


 ゲームでは、ソフィーナの友人として数回登場するだけの令嬢。


 彼女は笑顔のまま、小さく目を細めた。


(……違う)


 その笑顔とは裏腹に、胸の内では冷たい汗が流れていた。


(どうして助けたの?)

(ここは悪役令嬢が嫌味を言うイベントでしょう)


 思わず唇を噛む。

 何かがおかしい。


 ゲームと違う。


 いや、一つや二つではない。

 クラリスの雰囲気そのものが、知っている悪役令嬢とはまるで別人だった。


(まさか……)


 そんな考えを振り払う。


 偶然だ。

 最初のイベントが少し変わっただけ。

 そう思おうとしても、不安は消えなかった。


 遠くで談笑するクラリスとソフィーナを見つめながら、ミレイユはゆっくりと拳を握る。


(何かがおかしい)

(このままじゃ……シナリオが始まらない)


     ◇


 入学式を終えた新入生たちは、それぞれの教室へ案内されていた。


 教室には緊張した空気が漂い、あちこちで自己紹介や挨拶が交わされている。


 クラリスは窓際の席へ腰を下ろし、静かに周囲を見渡した。


 ゲームで見慣れた教室。

 けれど、そこに広がる光景は記憶とは少し違っていた。


 先ほど助けたソフィーナは、何人もの令嬢に囲まれ、緊張した様子で頭を下げている。


 その姿を見て、クラリスは自然と口元を緩めた。


(良かった……)

(最初のイベントは回避できたみたい)


 安堵したのも束の間、教室の扉が開いた。


「アルフレッド殿下がお見えです」


 その一言で教室中の空気が変わる。


 王太子アルフレッド・レイン・アルヴァレス。


 長い金髪に澄んだ青い瞳。

 気品ある立ち居振る舞いは、幼い頃から何度も目にしてきたものだった。


「皆、これから同じ学院で学ぶ仲だ。身分に関係なく切磋琢磨してほしい」


 簡潔な挨拶。

 その視線が教室を一巡し、最後にクラリスで止まる。


 一瞬だけ目が合う。

 アルフレッドは小さく頷き、クラリスも静かに一礼した。


 婚約者として当たり前のやり取り。

 それ以上でも、それ以下でもない。


(変わっていない)


 少なくとも今は。


 ゲームでは、この先少しずつ二人の距離が離れていく。その原因を作るのは、本来なら私だった。


 授業が終わり、昼休みになる。


 クラリスは席を立ち、教室を見回した。

 ソフィーナは教室の隅で、一人きりで昼食を取ろうとしている。


 周囲の令嬢たちは話しかけようとはせず、どこか遠巻きに眺めていた。


 男爵令嬢。

 しかも貴族社会に慣れていない。

 話しかけづらいと思われているのだろう。


 クラリスは迷わず歩き出した。


「ソフィーナ様」


「えっ」


 突然声を掛けられ、ソフィーナは驚いたように顔を上げる。


「もしご迷惑でなければ、ご一緒してもよろしいですか」


「わ、私とですか」


「ええ」


 ソフィーナは目をぱちぱちと瞬かせたあと、慌てて立ち上がった。


「もちろんです! ぜひお願いします」


 嬉しそうな笑顔に、クラリスも自然と笑みを返す。

 二人は窓際の席へ移動し、昼食を広げた。


「お弁当、とても美味しそうですね」


「ありがとうございます。母が朝早く作ってくれたんです」


 そう言って照れ笑いを浮かべるソフィーナ。

 その笑顔は飾り気がなく、見ているだけで心が和む。


 食事を始めると、ソフィーナはナイフとフォークを持つ手を少し戸惑わせた。


「あの……」


「どうされましたか」


「学院の作法って、まだ慣れなくて……」


 クラリスは小さく頷く。


「焦らなくても大丈夫です」


 自分の手元を見せながら、ゆっくりとナイフを持つ角度を教える。


「このくらいの位置だと綺麗に見えます」


「なるほど……!」


 ソフィーナは真似をし、ぱっと表情を輝かせた。


「できました!」


「とてもお上手です」


「ありがとうございます!」


 無邪気な笑顔に、クラリスも思わず笑みを浮かべる。


 その様子を、教室のあちこちから令嬢たちが驚いたように見つめていた。


「クラリス様が男爵令嬢と……」


「随分親しげですわね」


 小さな囁きが聞こえる。


 クラリスは気にしなかった。


 それよりも目の前で楽しそうに笑うソフィーナの姿が嬉しかった。


 一方、その光景を教室の入口から静かに見つめる少女がいた。


 ミレイユ・カーター。


 穏やかな笑みを浮かべたまま、その瞳だけが冷えていく。


(また……)

(イベントが消えた)

(どうして)


 ゲームでは決して存在しなかった光景が、目の前で広がっていた。


 ミレイユは誰にも気付かれないよう、そっと拳を握り締めた。


     ◇


 学院生活は、穏やかに始まった。


 授業を受け、図書館で課題をこなし、放課後には庭園を散歩する。


 そんな何気ない日々の中で、クラリスとソフィーナは少しずつ距離を縮めていった。


「クラリス様、お待たせしました」


 放課後の中庭。

 ソフィーナは小走りで駆け寄ると、少し息を弾ませながら笑った。


「申し訳ありません。先生に呼び止められてしまって」


「お気になさらないでください」


 二人は並んで石畳の道を歩き始める。

 春風に揺れる花々を眺めながら、他愛もない話に花を咲かせた。


「クラリス様は本当に何でもご存じなんですね」


「まだまだ勉強不足です」


「そんなことありません。昨日も魔法史の授業で先生に褒められていましたし」


「たまたま読んだ本に載っていただけです」


「それでもすごいです」


 ソフィーナは尊敬の眼差しを向ける。

 その視線に、クラリスは少し照れたように微笑んだ。


(こんな未来もあったのね)


 ゲームでは、ソフィーナと笑い合う日は来なかった。


 互いに敵意を向け合い、最後まで分かり合えない存在だった。


 だが現実は違う。


 ソフィーナは真っ直ぐで優しく、人の良いところを素直に見つけられる少女だった。


 嫌いになる理由など、一つもない。


「そういえば」


 ソフィーナがふと思い出したように口を開く。


「今度、お茶会があるそうですね」


「ええ」


「私、少し不安で……」


「でしたら、私もご一緒いたします」


「本当ですか!」


 ぱっと花が咲くような笑顔。


 クラリスは小さく頷く。


「困ったことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」


「ありがとうございます」


 その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。


(この子を守りたい)


 ゲームだからではない。

 クラリス自身の意思として、そう思えた。


 その頃。


 校舎三階の廊下では、一人の少女が窓から中庭を見下ろしていた。


 ミレイユ・カーター。


 クラリスとソフィーナが楽しそうに笑い合う姿を見つめ、その笑顔は少しずつ消えていく。


(おかしい)

(どうして仲良くなっているの)


 ゲームでは考えられない。

 悪役令嬢と主人公が友人になるなど、あり得ない展開だった。


 ミレイユは奥歯を噛み締める。


(このままじゃ駄目)


 クラリスがソフィーナをいじめない。


 アルフレッドもソフィーナへ特別な感情を抱くきっかけがない。

 攻略対象たちも、それぞれのイベントが始まらない。


 物語そのものが止まってしまっていた。


(私の未来まで狂う)


 前世では、努力しても報われなかった。

 毎日残業し、真面目に働き、それでも評価されるのは要領のいい人間ばかりだった。


 だから神様は、自分にもう一度人生をくれたのだと思った。


 知っているゲームの世界。

 結末も攻略法も知っている。


 ここなら苦労せず幸せになれる。

 そう信じていた。


 なのに。


「全部、あの女のせいじゃない……」


 思わず漏れた声は、誰にも届かない。


 ミレイユはゆっくりと目を閉じる。

 そして、静かに決意した。


(悪役がいないなら)

(……私が作ればいい)


 その日から、ミレイユは動き始めた。

 誰にも気づかれないように。


 少しずつ。


 少しずつ。


 クラリスを”悪役令嬢”へ仕立て上げるために。


     ◇


 最初の噂は、あまりにも些細なものだった。


「聞きました?」


「クラリス様、笑顔でお話しされていたけれど、あとで男爵令嬢を馬鹿にしていたそうですわ」


「まあ……」


 昼休みの談話室。


 令嬢たちが紅茶を片手に声を潜める。


 それを耳にしたクラリスは足を止めた。


(私が……?)


 もちろん身に覚えはない。


 誰かと話したあと、そのような発言をした覚えなど一度もなかった。

 けれど、話しかける令嬢はいない。


 クラリスが視線を向けると、彼女たちは慌てて口を閉ざし、その場を離れていく。


 まるで本人に聞かれてはいけない秘密を話していたかのように。


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


     ◇


 放課後。


 クラリスは図書館で本を借りると、中庭へ向かった。

 いつものベンチには、ソフィーナが座っている。


 クラリスに気づくと、ぱっと顔を明るくした。


「クラリス様!」


「お待たせしました」


 二人は並んで腰掛ける。


 ソフィーナはクラリスの表情を見るなり、心配そうに首を傾げた。


「何かありましたか」


「え?」


「少し元気がないように見えて……」


 誤魔化そうとしたが、ソフィーナの真っ直ぐな瞳を見ていると嘘はつけなかった。


「少し、不思議な噂を耳にしまして」


「噂ですか」


「私があなたを見下している、と」


 その瞬間、ソフィーナは目を見開いた。


「そんなこと、あるわけありません!」


 思わず立ち上がるほどの勢いだった。


「クラリス様は、入学初日に助けてくださいました」


「作法も教えてくださいました」


「困っていたら必ず声を掛けてくださいます」


「そんな方が私を見下すなんて、絶対にありえません」


 あまりにも力強い言葉に、クラリスは目を丸くした。


「ありがとうございます」


 その一言しか出てこない。

 誰か一人でも信じてくれる人がいる。


 それだけで胸が軽くなった。


「気にしないでください」


 ソフィーナは笑う。


「きっと誤解です」


「すぐに分かっていただけます」


 クラリスも小さく笑みを返した。


「そうですね」


 そう。

 きっと誤解だ。


 私は何もしていないのだから。

 時間が経てば、自然と消えていく。


 その時のクラリスは、本気でそう信じていた。


     ◇


 一方、その日の夕方。


 人気のない旧校舎裏。

 一人の侍女が小さな袋を受け取っていた。


「約束のお金です」


 袋の中では金貨が小さく音を立てる。

 侍女は周囲を見回し、不安そうに唇を噛んだ。


「本当に……これだけでいいんですか」


「ええ」


 柔らかな笑みを浮かべた少女が頷く。


「あなたは『クラリス様がソフィーナ様を陰で笑っていた』と話すだけ」


「それだけで構いません」


「でも……」


「大丈夫」


 少女は優しく微笑む。


「誰もあなたを疑いませんから」


 侍女は震える手で金貨を握り締めた。

 少女は踵を返し、その場を去る。


 夕日に照らされた横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


 ――ミレイユ・カーター。


 その日の夜。


 寮の自室へ戻ると、彼女は机の引き出しから一冊のノートを取り出した。


 革張りの古びた表紙。


 誰にも見せたことのない、大切な記録帳。

 羽ペンを手に取り、一行書き加える。


第一イベント修正完了


侍女一名買収


「クラリスは陰でソフィーナを見下している」という噂の流布開始


順調


 満足そうにページを閉じる。


「この調子」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


「ゲームは、ちゃんと元に戻るわ」


     ◇


 噂は、まるで水面に落ちた一滴の雫のように広がっていった。


 最初は半信半疑だった者たちも、同じ話を何度も耳にするうちに、少しずつ疑い始める。


「クラリス様は表では優しいそうですけれど……」


「陰では違うらしいですわ」


「男爵令嬢を見下しているとか」


 廊下ですれ違えば、囁き声が聞こえる。

 談話室へ入れば、話題が途切れる。


 クラリスは何も言わず、そのたびに静かに頭を下げ、その場を離れた。


 身に覚えのない噂に反論しても、かえって言い訳だと思われるだけかもしれない。


 そう考えていた。


     ◇


 そんなある日。


 魔法実技の授業でのことだった。

 二人一組で魔力制御を行う課題が出される。


「ソフィーナ様、ご一緒しましょう」


 クラリスが声を掛けると、ソフィーナは嬉しそうに頷いた。


「はい!」


 二人は向かい合い、魔力を球体へ流し込む。


 柔らかな光がゆっくりと大きくなり、教師も満足そうに頷いた。


「素晴らしい制御だ」


 その一言に、ソフィーナは照れくさそうに笑う。


「クラリス様のおかげです」


「あなたの魔力が安定しているからですよ」


 授業が終わると、ソフィーナは何度も礼を言いながら教室を出て行った。


 その姿を見送り、クラリスも荷物をまとめ始める。

 すると、近くにいた令嬢が小さく呟いた。


「本当に仲が良いのね」


「表向きは、ですけれど」


 別の令嬢が肩をすくめる。


「ソフィーナ様も、お気の毒ですわ」


 クラリスの手が止まった。


 やはり噂は消えていない。

 むしろ、以前より強くなっている。


     ◇


 その日の放課後。


 王太子アルフレッドは執務室の一角で書類へ目を通していた。


「失礼いたします」


 側近が一礼する。


「何だ」


「学院で少々、気になる話が」


「話してみろ」


「クラリス様に関する噂です」


 アルフレッドの手が止まる。


「どのような」


「ソフィーナ・リーベルト嬢への態度が表と裏で違う、と」


「……噂だろう」


「はい。しかし複数の証言があります」


 側近は慎重に言葉を選ぶ。


「侍女や生徒からも似た話が出ております」


 アルフレッドは小さく息をついた。


「クラリスは、そのようなことをする人ではない」


 幼い頃から知っている。


 真面目で努力家。

 礼儀正しく、誰に対しても誠実だった。


 そんな婚約者が陰で人を傷つけるとは思えない。


「引き続き様子を見よう」


「かしこまりました」


 側近が退室すると、アルフレッドは窓の外を眺める。


(何かの間違いだ)


 そう結論づけようとした、その時だった。

 執務室の扉が再び叩かれる。


「失礼いたします」


 現れたのは、ミレイユだった。

 柔らかな笑みを浮かべ、一礼する。


「殿下、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「構わない」


 ミレイユは一瞬だけ言い淀む素振りを見せた。


「本来なら、お伝えすべきではないと思っておりました」


「しかし……ソフィーナ様のご友人として、見過ごせませんでした」


 アルフレッドは静かに続きを促す。


「クラリス様は、誰も見ていないところでソフィーナ様へ冷たい言葉を掛けておられます」


「それは事実なのか」


「私は……この目で見ました」


 悲しそうに目を伏せるミレイユ。


「どうか、ソフィーナ様をお守りください」


 そう言い残し、静かに部屋を後にした。

 執務室に沈黙が落ちる。


 アルフレッドは深く考え込んだ。


 先ほど側近から聞いた噂。

 そして、ミレイユの証言。


 どちらも信じたくはない。

 それでも、胸の奥に小さな棘が刺さる。


(……一度、クラリス本人に聞くべきか)


 そう思いながらも、その機会はなかなか訪れなかった。


     ◇


 学院祭を一か月後に控えた頃。


 クラリスを取り巻く空気は、目に見えて変わり始めていた。


 廊下ですれ違えば会釈は返ってくる。

 けれど、その笑顔はどこかぎこちない。


 以前なら自然に誘われていたお茶会の誘いも減り、気づけば周囲には見えない壁ができていた。


 理由は分からない。

 何がきっかけだったのかも分からない。


 ただ一つ確かなのは、少しずつ周囲との距離が広がっているということだった。


     ◇


「クラリス様」


 昼休み。


 廊下を歩いていたクラリスを、ソフィーナが呼び止めた。


「今日は中庭でお昼をいただきませんか」


「ええ、喜んで」


 二人はいつものように中庭のベンチへ向かう。

 他愛もない話をしながら昼食を広げる。


 その時間だけは、学院に流れる重苦しい空気を忘れられた。


「この前、お母様からお菓子が届いたんです」


 ソフィーナが小さな包みを差し出す。


「良ければ召し上がってください」


「ありがとうございます」


 一口食べると、優しい甘さが口いっぱいに広がった。


「とても美味しいです」


「本当ですか」


 ソフィーナは嬉しそうに笑う。


「今度、作り方を教えてもらってきます」


「楽しみにしています」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。

 その様子を、校舎の窓からミレイユが見つめている。


(まだ足りない)


 これだけでは、二人の関係は壊れない。

 もっと決定的な出来事が必要だった。


     ◇


 その日の夕方。


 ミレイユは人気のない廊下を歩いていた。

 手には、一通の封筒。


 封蝋には、公爵家の紋章が押されている。


 もちろん、本物ではない。

 精巧に作られた偽物だった。


 彼女は静かに笑う。


「次はこれね」


 封筒の中には、一枚の便箋。

 そこにはクラリスの筆跡を真似た文字で、こう記されていた。


『あの程度の作法も知らない方が、王立学院へ通われるなんて驚きました。


ご自分の立場をお考えになった方がよろしいのではありませんか。』


 誰が読んでも、ソフィーナを侮辱した内容だった。

 ミレイユはその手紙を丁寧に畳み直す。


「これで殿下も動くでしょう」


 そう呟くと、封筒を制服の内ポケットへしまった。


     ◇


 一方その頃。


 アルフレッドは学院の廊下を歩いていた。


 今日こそクラリスと話そう。


 噂の真偽を本人に確かめよう。

 そう決めていた。


 ちょうど前方に、クラリスの姿が見える。


「クラリス」


 声を掛けようとした、その時だった。


「殿下」


 横からミレイユが現れ、一礼する。


「少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「急ぎの用件か」


「……はい」


 その表情はどこか思い詰めているように見えた。

 アルフレッドは足を止める。


 その間に、クラリスは角を曲がり、姿が見えなくなってしまった。


 ミレイユは小さく視線を伏せる。


「実は、これを……」


 懐から取り出したのは、例の封筒だった。


「落ちていたものです」


「誰のだ」


「クラリス様のお名前が書かれていました」


 アルフレッドは封筒を受け取る。

 封蝋には見慣れた公爵家の紋章。


 違和感はなかった。


「中をご覧ください」


 一瞬ためらったものの、アルフレッドは封を切る。

 便箋を開いた瞬間、その表情が固まった。


 そこに書かれていたのは、ソフィーナを見下す言葉の数々。


 静かな沈黙が流れる。


 ミレイユは悲しそうに目を伏せた。


「私も……信じたくありませんでした」


「ですが、このままではソフィーナ様がお気の毒です」


 アルフレッドは何も答えない。

 ただ、便箋を見つめたまま立ち尽くしていた。


 その胸に、小さな疑念が芽生え始めていることに、自分自身まだ気づいてはいなかった。


 その手紙を読んだ夜。

 アルフレッドは自室の机に便箋を置き、長い間動けずにいた。


 何度読み返しても、そこに書かれている言葉は変わらない。


 ソフィーナを見下し、身分を理由に侮辱する内容。


 幼い頃から知るクラリスの姿とは、あまりにもかけ離れていた。


(本当に、クラリスが……)


 信じたい。

 いや、信じるべきだ。


 そう思う一方で、ここ数か月耳にしてきた噂が脳裏をよぎる。


 侍女の証言。

 生徒たちの噂。

 そして、この手紙。


 一つだけなら信じなかった。


 だが、同じ話が何度も積み重なると、人の心は揺らいでしまう。


「……直接、聞かなければ」


 誰よりもクラリスを知っているのは、自分のはずなのだから。


     ◇


 翌日の放課後。


 クラリスは図書館で借りた本を抱え、一人で廊下を歩いていた。


「クラリス」


 聞き慣れた声に振り返る。


「殿下」


 アルフレッドが真っ直ぐこちらへ歩いてくる。

 何か話があるのだろうか。


 そう思った矢先だった。


「殿下!」


 明るい声が廊下へ響く。

 ミレイユだった。


 慌てた様子で駆け寄ると、深く頭を下げる。


「申し訳ございません。至急ご相談したいことが」


 アルフレッドは眉を寄せる。


「今はクラリスと話が――」


「ソフィーナ様のことです」


 その一言で、アルフレッドの表情が変わった。


「……分かった」


 クラリスへ向き直る。


「すまない。また後で話そう」


「承知いたしました」


 クラリスは静かに頭を下げた。

 アルフレッドはミレイユと共に歩き去っていく。


 その背中を見送りながら、クラリスは小さく首を傾げた。


(何かお忙しいのかしら)


 深く考えることはなかった。


 約束を破る人ではない。

 きっと後で話せる。


 そう信じていた。


     ◇


 しかし、その「後で」は訪れなかった。


 翌日も。

 その翌日も。


 アルフレッドが話しかけようとすると、絶妙なタイミングで誰かが現れる。


 教師。

 側近。

 そして、ミレイユ。


 偶然にしては出来すぎていた。


 けれど、誰もその不自然さには気づかない。


     ◇


 一方、ミレイユは寮の自室で静かにノートを開く。

 羽ペンを走らせる。


第二イベント修正成功


手紙の偽造完了


殿下との接触阻止


疑念形成開始


 さらさらと書き終えると、ページを眺めて満足そうに微笑んだ。


「順調ね」


 クラリスは何も知らない。

 アルフレッドも気づかない。


 ソフィーナだけがクラリスを信じている。


 だが、一人の言葉より、何人もの証言。

 そして物証。

 人は、積み重ねられた「証拠」を信じる。


「あと少し」


 ミレイユはノートを閉じ、窓の外へ目を向けた。


 建国祭まで、あと三日。

 卒業生も在校生も集まる、一年で最も華やかな祭典。


 そしてゲームでは――婚約破棄が行われる日。


 ゆっくりと口角が上がる。


「これで、全部元通りになる」


 そう呟いた声は、静かな部屋へ溶けていった。


 建国祭当日。


 王都は朝から祝祭の空気に包まれていた。

 大通りには色鮮やかな旗が掲げられ、楽団の演奏が街中へ響き渡る。


 露店には多くの人が集まり、子どもたちの笑い声が絶えない。

 その賑わいとは対照的に、王宮では厳かな空気が流れていた。


 今夜開かれる舞踏会には、王族をはじめ、国内の有力貴族が一堂に会する。


 社交の場であると同時に、王国の未来を左右する重要な場でもあった。


     ◇


「お嬢様、お支度が整いました」


 侍女エマが最後にドレスの裾を整える。

 鏡の前に立つクラリスは、深い紺色のドレスに身を包んでいた。


 派手さはない。

 しかし、公爵令嬢にふさわしい気品が静かに漂っている。


「ありがとう、エマ」


「とてもお似合いです」


 エマは微笑みながらも、その表情にはどこか曇りがあった。


「……何かありましたか」


 クラリスが尋ねる。

 エマは一瞬だけ迷い、ゆっくりと首を横に振った。


「いいえ」


「本当に」


「はい」


 それ以上は何も言わない。


 ここ数日、屋敷の使用人たちの間でも妙な噂が流れていることを、エマは知っていた。


 だが、それを主人へ伝えることはできなかった。

 証拠もなく、不安だけを与えてしまう。


 そう思ったからだ。


     ◇


 馬車が王宮へ到着する。


 赤い絨毯の両脇には近衛騎士が並び、続々と貴族たちが入場していく。


「クラリス様」


 聞き慣れた声に振り返る。

 ソフィーナだった。


 淡い桃色のドレスを身にまとい、少し緊張した様子で立っている。


「お会いできて安心しました」


「私もです」


 二人は自然と笑みを交わす。


「今日は緊張しますね」


「ええ。でもクラリス様がいらっしゃるので心強いです」


 その言葉に、クラリスは穏やかに微笑んだ。


「私も一緒です」


 その時だった。


「ソフィーナ様」


 ミレイユが近づいてくる。


「ご挨拶したい方がお待ちですよ」


「私にですか」


「はい」


 ソフィーナはクラリスを見た。


「少し行ってまいります」


「ええ」


「すぐ戻りますね」


 そう言って歩いていく。

 クラリスはその背中を見送り、一人で会場へ入った。


 高い天井には無数のシャンデリア。

 煌びやかな音楽。

 華やかな笑い声。


 ゲームでも見た光景だった。


(今日で終わる)


 理由は分からない。

 けれど胸騒ぎがしていた。


 ここ数か月の噂。

 アルフレッドと話せなくなったこと。


 周囲の視線。

 すべてが少しずつ積み重なり、一つの結末へ向かっている気がした。


(もしかしたら)

(ゲームには勝てなかったのかもしれない)


 十年以上努力した。

 誰も傷つけないよう生きてきた。


 それでも、運命は変わらないのだろうか。


 クラリスは小さく息を吸い、静かに顔を上げる。

 会場の中央では、アルフレッドが国王エドモンドの隣に立っていた。


 その表情は、どこか苦しげだった。


 楽団の演奏が静かに止む。

 談笑していた貴族たちも次々と口を閉ざし、会場には張り詰めた空気が流れ始めた。


 王座の前へ進み出たアルフレッドは、一度ゆっくりと目を閉じる。


 拳を握り締め、決意するように息を吐いた。


 クラリスはその姿を静かに見つめる。


 幼い頃から知る婚約者。

 真面目で、不器用な人。

 だからこそ、胸騒ぎが消えなかった。


「皆に聞いてもらいたいことがある」


 アルフレッドの声が広間へ響く。


 会場が静まり返る。


「クラリス・フォン・エーデルシュタイン」


 名前を呼ばれ、クラリスは一歩前へ出た。


「はい」


 凛とした声。


 震えはない。


 周囲の視線が一斉に集まる。


 アルフレッドは苦しそうに視線を伏せたあと、真っ直ぐクラリスを見た。


「君との婚約を、本日をもって破棄する」


 静寂。

 次の瞬間、会場中がどよめいた。


「婚約破棄……?」


「なぜ公爵令嬢が」


「一体何があったのだ」


 ざわめきが広がる。

 クラリスだけは静かだった。


(来たのね)


 ついに、この日が。

 ゲームで何度も見た破滅の始まり。


 アルフレッドは一枚の書類を取り出す。


「クラリス・フォン・エーデルシュタインは、男爵令嬢ソフィーナ・リーベルトに対し、長期間にわたり侮辱、嫌がらせ、精神的苦痛を与え続けた」


 その言葉に、クラリスはゆっくりと目を閉じた。


(違う)


 そう言えば済む話だった。


 そんなことはしていない。

 証明もできるかもしれない。


 けれど。


 ここ数か月で思い知っていた。

 誰も私の言葉を信じない。


 噂は証拠になり。

 証拠は積み重なり。


 気づけば私は、悪役令嬢になっていた。


(結局……)

(ゲームには勝てなかった)


 十年以上の努力。


 優しく生きると誓った日々。

 そのすべてが、静かに崩れていく。


 アルフレッドは続ける。


「複数の証言、および書簡などの証拠を確認した結果、私は婚約者として、これ以上この婚約を継続することはできないと判断した」


 その声は、どこか震えていた。

 それでも言葉を止めることはない。


 クラリスは静かに一礼する。


「……承知いたしました」


 その一言に、会場は再びざわついた。


 言い返さないのか。

 否定しないのか。

 誰もがそう思った。


 しかしクラリスは顔を上げない。

 ただ静かに、その決定を受け入れていた。


 その姿を見ていたソフィーナは、青ざめた表情で人垣をかき分ける。


「違います!」


 会場中へ、澄んだ声が響き渡る。


「クラリス様はそんな方ではありません!」


 誰もがソフィーナを見る。

 ソフィーナは涙を浮かべながら続けた。


「私を助けてくださったのはクラリス様です!」


「作法を教えてくださったのも!」


「困っている時、いつも手を差し伸べてくださったのも!」


「全部、クラリス様なんです!」


 息を切らしながら必死に訴える。


「嫌がらせなんて、一度も受けていません!」


 しかし、その声はざわめきに飲まれていく。


「脅されているのでは」


「庇っているだけだ」


「優しい子だから言えないのだろう」


 そんな囁きがあちこちから聞こえた。


 ソフィーナは首を横に振る。


「違います!」


「お願いです!」


「信じてください!」


 けれど、その言葉は誰にも届かなかった。


 クラリスはゆっくりとソフィーナへ歩み寄る。


「ソフィーナ様」


 優しい声だった。


「ありがとうございます」


「でも、もう十分です」


「嫌です!」


 ソフィーナは涙をこぼす。


「私は知っています!」


「クラリス様は悪い方じゃありません!」


 クラリスは悲しそうに微笑んだ。


「そう言っていただけただけで、救われました」


 そしてもう一度、アルフレッドへ一礼する。


「失礼いたします」


 静かに踵を返す。


 誰も引き止めなかった。

 広間を出ていくその背中を、アルフレッドはただ見つめることしかできなかった。


 婚約破棄から三日。


 公爵邸は静まり返っていた。


 使用人たちは主人の前では普段通りに振る舞おうとしていたが、屋敷全体を覆う重苦しい空気までは隠せない。


 クラリスは自室の窓辺で庭を眺めていた。

 冬を前にした庭園はどこか寂しく、風に揺れる木々の音だけが静かに響いている。


 扉が控えめに叩かれた。


「お嬢様」


「どうぞ」


 エマが一礼して入室する。


 銀の盆には温かな紅茶が載せられていた。


「ありがとうございます」


 カップを受け取ったクラリスは、小さく微笑む。


 その笑顔は以前と変わらない。

 だからこそ、エマの胸は締めつけられた。


 もっと泣いてくだされば。

 もっと怒ってくだされば。

 そうすれば少しは支えられるのに。


 主人は誰も責めようとしない。


「お嬢様……」


「何ですか」


 エマは意を決したように口を開いた。


「ソフィーナ様から、お手紙は届いておりますか」


 クラリスはゆっくり首を横に振る。


「いいえ」


「婚約破棄の日以来、一通も」


 エマは違和感を覚えた。


 あの日のソフィーナの様子を思い出す。


 あれほど必死にクラリスを庇っていた少女が、何も連絡しないはずがない。


「……そうですか」


 その返事だけ残し、一礼して部屋を出る。


 廊下へ出た瞬間、エマは足を止めた。


(おかしい)


 ソフィーナなら、必ず手紙を書く。


 主人を一人にしておくような人ではない。

 それなのに一通も届かない。


 偶然とは思えなかった。


     ◇


 一方その頃。


 男爵邸でも、ソフィーナは机へ向かっていた。

 便箋へ丁寧に言葉を綴る。


クラリス様


あの日は何もできず申し訳ありませんでした。


私は絶対に諦めません。


必ず真実を明らかにします。


 書き終えると封筒へ入れ、封をする。


「お願いします」


 使用人へ手紙を託した。


 しかし、その手紙もまたクラリスへ届くことはなかった。


     ◇


 三日後。


 四通目の手紙を書き終えたソフィーナは、不安そうに首を傾げる。


「返事が来ない……」


 一通目なら分かる。

 心の整理がつかないのかもしれない。


 二通目も理解できる。

 だが四通。


 すべて返事がない。


「まさか……」


 嫌な予感が胸をよぎる。


 翌日、ソフィーナは自ら郵便局へ向かった。


「すみません」


「クラリス・フォン・エーデルシュタイン様宛てのお手紙が届いているか確認したいのですが」


 窓口の男性は帳簿をめくり、少し驚いたような顔をした。


「え……?」


「どうかしましたか」


「いえ」


 男性は困ったように頭を掻く。


「そのお手紙でしたら……」


「はい」


「ミレイユ・カーター様から、公爵家へ届ける必要はないと伺っておりますので」


 ソフィーナは息を呑んだ。


「……今、何とおっしゃいましたか」


 男性は事情を知らない様子で答える。


「ミレイユ様が、公爵家とは直接やり取りされるから預かるようにと」


 ソフィーナの顔から血の気が引いていく。


(どうして)

(どうしてミレイユさんが)


 胸の奥で、今まで点だった違和感が少しずつ線になり始めていた。


 ソフィーナは男爵邸へ戻るなり、真っ直ぐ自室へ向かった。


 扉を閉め、椅子へ腰を下ろす。

 鼓動が早い。


 落ち着いて考えようとしても、頭の中は混乱していた。


(ミレイユさんが、私の手紙を……)


 何かの間違いかもしれない。

 郵便係の勘違いという可能性もある。


 そう思いたかった。

 しかし、胸の奥の違和感は消えない。


 婚約破棄の日。


 ミレイユは何度も自分をクラリスから引き離そうとしていた。


 あの日だけではない。

 学院でも、気づけばいつも絶妙なタイミングで現れていた。


 今まで気にも留めなかった出来事が、一つ、また一つと思い出される。


「……確かめなくちゃ」


 そう呟き、ソフィーナは立ち上がった。


     ◇


 翌日。


 ソフィーナは公爵邸を訪れた。


 応対に出たエマは、その姿を見るなり深く頭を下げる。


「ソフィーナ様」


「エマさん」


 ソフィーナは真剣な表情で口を開く。


「私、お手紙を四通送りました」


 エマは目を見開く。


「四通……ですか」


「はい」


「クラリス様から、お返事は一通もありませんでした」


 エマは静かに首を横へ振る。


「お嬢様は、一通も受け取っておりません」


 二人は顔を見合わせた。


 これで確信へ近づく。

 誰かが、手紙を止めている。


「エマさん」


「はい」


「郵便局で、こんな話を聞きました」


 ソフィーナは郵便係とのやり取りを包み隠さず話した。

 聞き終えたエマの表情が険しくなる。


「……そのようなことが」


「私、確かめたいんです」


「私もです」


 エマは迷わず頷いた。


「お嬢様の名誉を取り戻すためなら、どこへでも参ります」


     ◇


 二人は再び郵便局を訪れた。


 応対したのは、前日と同じ郵便係だった。


「昨日はありがとうございました」


 ソフィーナが頭を下げる。


「今日は少し詳しくお話を伺いたくて」


「もちろんです」


 郵便係は素直に頷いた。


「ミレイユ様は、いつ頃から手紙を預かっていたのですか」


「学院祭の少し前でしょうか」


「公爵家とは親しくしているので、自分が届けると」


「そうおっしゃっていました」


「他にも手紙はありましたか」


「ええ」


「何通も」


 ソフィーナとエマは息を呑む。


「私からの手紙以外にもですか」


「はい」


「何名かの生徒から公爵令嬢様宛てのお手紙をお預かりしておりました」


 エマは拳を握り締めた。

 これでは完全に情報を遮断されていたことになる。


「その手紙は今もありますか」


「申し訳ありません」


「すべてミレイユ様がお持ちになりました」


 決定的な証拠は、まだ見つからない。

 しかし、疑う理由は十分すぎるほどあった。


     ◇


 郵便局を出た二人は、しばらく無言で歩いていた。


 やがてエマが静かに口を開く。


「ソフィーナ様」


「はい」


「もし、本当にミレイユ様が黒幕でしたら」


「……はい」


「証拠は、まだどこかに残っているはずです」


 ソフィーナは足を止める。


「証拠」


「これほど計画的に動いていた方です」


「何も残していないとは思えません」


 その言葉を聞いた瞬間、ソフィーナの脳裏にある光景が蘇る。


 放課後の教室。

 誰もいない時間。

 ミレイユが、一冊の革張りのノートへ何かを書き込んでいた姿。


 何度か見かけたことがあった。

 その時は日記だと思っていた。


 だが、もし違うとしたら。


「エマさん」


 ソフィーナは顔を上げる。


「私、思い出したことがあります」


「ミレイユさん、いつも何かを書いているノートを持っていました」


 エマの瞳が鋭く細められる。


「そのノートが残っていれば……」


 二人は同時に頷いた。

 ようやく、真実へ繋がる一本の糸が見え始めていた。


     ◇


 数日後。


 王宮では婚約破棄に関する書類の整理が進められていた。

 王太子の婚約破棄は王国全体に関わる問題であり、証拠書類もすべて保管されている。


 ソフィーナとエマは、国王エドモンドへの謁見を願い出ていた。


「ソフィーナ・リーベルト、入ります」


 緊張した面持ちで頭を下げる。

 エマも続いて一礼した。


 玉座に座るエドモンドは二人を見下ろし、静かに口を開く。


「婚約破棄の件であるな」


「はい」


 ソフィーナは真っ直ぐ顔を上げた。


「どうしても、お伝えしたいことがございます」


「申してみよ」


「私は、クラリス様から嫌がらせを受けたことは一度もありません」


 広間に沈黙が落ちる。


「殿下がお読みになった証拠も、すべて偽りです」


 エドモンドは表情を変えない。


「その根拠は」


「私が送った手紙が、一通もクラリス様へ届いていませんでした」


 郵便係の証言。

 ミレイユが手紙を預かっていたこと。

 学院で起きていた出来事。


 ソフィーナは順を追って説明する。


 話を聞き終えたエドモンドは静かに目を閉じた。


「……それだけでは、まだ証拠にはならぬ」


「承知しております」


 ソフィーナは深く息を吸う。


「ですが、もう一つ気になることがあります」


「ほう」


「ミレイユさんは、いつも一冊のノートへ何かを書いていました」


 エドモンドは視線を上げる。


「ノート」


「はい」


「毎日のように」


「誰にも見せない、とても大切そうなものでした」


 その言葉を聞いたエマも続ける。


「私も、そのような記録が残されている可能性は高いと考えております」


 エドモンドはしばらく考え込み、やがて側近へ命じた。


「ミレイユ・カーターの所持品を確認せよ」


「ただし、本人へは悟られるな」


「はっ」


 騎士が一礼し、広間を後にする。


     ◇


 二日後。


 王宮の一室。

 エドモンドの前には、一冊の革張りのノートが置かれていた。


「見つかったか」


「はい」


 騎士は静かに頷く。


「本人不在の間、保管していた荷物の確認を行いました」


「こちらです」


 エドモンドはゆっくりとノートを開く。


 一ページ目。

 そこには整った文字で、こう書かれていた。


シナリオ修正記録


 エドモンドの眉がわずかに動く。

 ページをめくる。


第一イベント修正成功


侍女一名買収


「クラリスは陰でソフィーナを見下している」という噂の流布開始


 さらにページをめくる。


手紙偽造完了


殿下への印象操作成功


接触阻止継続


 そして、最後のページ近くには。


建国祭にて婚約破棄予定


これでゲームは元に戻る


 静かな部屋に、紙をめくる音だけが響く。

 エドモンドはゆっくりとノートを閉じた。


「……そういうことか」


 その声には怒りも驚きもなかった。

 ただ、深い失望だけが滲んでいた。


「アルフレッドを呼べ」


「それと、クラリス、ソフィーナ、ミレイユもだ」


「この件は、王家自ら真相を明らかにする」


     ◇


 王宮の応接室。


 重苦しい沈黙の中、アルフレッドは国王エドモンドの前に立っていた。


「父上、お呼びでしょうか」


「座る必要はない」


 短い一言に、部屋の空気がさらに張り詰める。

 アルフレッドは静かに姿勢を正した。


「これを見よ」


 エドモンドが机の上へ一冊の革張りのノートを置く。

 アルフレッドはそれを手に取り、ゆっくりとページを開いた。


『第一イベント修正成功』


『侍女一名買収』


『噂の流布開始』


 目が止まる。

 さらにページをめくる。


『手紙偽造完了』


『殿下への印象操作成功』


『接触阻止継続』


 アルフレッドの指先が震え始めた。


「……これは」


 最後のページへ視線を落とす。


『建国祭にて婚約破棄予定』


『これでゲームは元に戻る』


 言葉を失った。

 婚約破棄の日。


 ミレイユが絶妙なタイミングで現れたこと。

 クラリスと話そうとするたび、必ず遮られたこと。

 偽の手紙を渡された日のこと。


 今まで別々だった出来事が、一つの線で繋がっていく。


「私が……」


 乾いた声が漏れる。


「私は、何をした」


 エドモンドは静かに答えた。


「お前は、偽りを真実と信じた」


「だが、それだけでは済まされぬ」


 アルフレッドはノートを握り締める。

 脳裏に浮かぶのは、婚約破棄の日のクラリスだった。


 何一つ言い訳をせず。

 責めることもなく。

 ただ静かに頭を下げた婚約者。


 あの時、彼女はどんな思いで自分を見ていたのだろう。


「……確認させてください」


 震える声で呟く。


「クラリスは、本当に何もしていなかったのですか」


「ソフィーナ本人が証言している」


 エドモンドは淡々と告げる。


「嫌がらせは一度も受けていないと」


「郵便局員も証言した。手紙はミレイユが止めていた」


「加えて、この記録だ」


「これ以上、何を疑う」


 アルフレッドはゆっくりと目を閉じた。


 疑う余地などなかった。

 信じるべき人を信じず。

 疑うべき人を信じた。


 その結果、自らの手で婚約者を断罪した。


「……申し訳ありません」


 その言葉は父へ向けたものではない。

 届くはずのない、クラリスへの謝罪だった。


     ◇


 その日の午後。


 同じ部屋へクラリスとソフィーナ、そしてミレイユが呼び出された。


 クラリスは静かに一礼する。


「陛下、お呼びでしょうか」


「うむ」


 エドモンドは穏やかに頷く。

 一方、ミレイユはいつも通り落ち着いた笑みを浮かべていた。


「このような場にお呼びいただき、光栄です」


 その笑顔を見つめながら、エドモンドは机の上へ革張りのノートを置く。


「ミレイユ・カーター」


「これは、お前の物で間違いないな」


 その瞬間。

 ミレイユの笑みが、ほんのわずかに固まり一瞬だけ目を見開いた。

 しかし、その動揺はすぐに笑みの奥へ押し隠される。


「……何のお話でしょうか」


「そのノートを見ても、心当たりはございません」


 穏やかな声音だった。

 焦りを悟らせないよう努めているのが分かる。


 エドモンドは表情を変えない。


「そうか」


「では、こちらで確認しよう」


 ノートを開き、一頁ずつ読み上げる。


「『侍女一名買収』」


「『噂の流布開始』」


「『手紙偽造完了』」


 部屋の空気が重く沈む。


 アルフレッドは目を伏せ、クラリスは静かにノートを見つめていた。

 ソフィーナだけが、悲しげな表情でミレイユを見つめている。


「ミレイユ」


 エドモンドの低い声が響く。


「この筆跡に見覚えはないと言うのだな」


「……はい」


「私の字ではございません」


 迷いのない返答だった。


「承知した」


 エドモンドが視線を送る。

 控えていた騎士が一歩前へ出た。


「では、こちらもご覧ください」


 机の上へ数通の封筒が並べられる。

 どれも封が切られていない。


 宛名には、クラリス・フォン・エーデルシュタインの名が記されていた。


 差出人はソフィーナ。


 さらに別の封筒もある。

 学院の級友たちから送られた見舞いや励ましの手紙だった。


「これは……」


 ミレイユの顔色がわずかに変わる。


 エドモンドが続けた。


「お前の荷物から発見された」


「どう説明する」


「……」


 返事はない。


「郵便局員も証言している」


「公爵家への手紙は、自分が届けると申し出たそうだな」


 沈黙。

 ミレイユは唇を噛み締めた。


「さらに」


 エドモンドは机へもう一枚の紙を置く。


「偽造された手紙と、お前が学院へ提出していた課題」


「筆跡を確認した結果、一致すると報告を受けている」


 その一言で、部屋の空気が凍り付いた。

 もはや言い逃れは難しい。


 それでもミレイユは首を横へ振る。


「違います」


「私は何も――」


「まだ続けるか」


 エドモンドの声は静かだった。

 だが、その威厳は部屋中を圧していた。


「偽証を重ねれば、それだけ罪は重くなる」


 長い沈黙が流れる。

 ミレイユは俯き、震える拳を握り締めた。


 やがて、小さな笑い声が漏れる。


「……ふふ」


 誰も口を挟まない。


「ふふふ……」


 笑いは次第に大きくなり、やがて自嘲へ変わった。


「ここまで、ですか」


 ゆっくりと顔を上げる。

 先ほどまで浮かべていた穏やかな令嬢の笑みは、もうどこにもなかった。


 その瞳には、諦めと歪んだ執着だけが宿っている。


「ええ」


「全部、私がやりました」


 その告白に、部屋は静まり返った。


 アルフレッドは目を閉じ、ソフィーナは信じられないというように息を呑む。


 クラリスだけは、静かにミレイユを見つめていた。


「どうしてですか」


 責める口調ではなかった。

 純粋な問いだった。


 ミレイユはクラリスを見返し、乾いた笑みを浮かべる。


「……あなたが悪いのよ」


 その一言に、全員の視線がミレイユへ集まった。


「あなたが、悪役令嬢にならなかったから」


 その場にいた誰も、その言葉の意味を理解できなかった。


 部屋に沈黙が落ちる。


「……何を言っているのです」


 アルフレッドが低く問う。

 しかし、ミレイユは肩を震わせて笑った。


「分からないでしょうね」


「あなたたちには」


 その瞳はクラリスだけを見つめていた。


「私は知っていたの」


「この世界がどう進むのか」


「誰が誰を好きになって、誰が破滅するのか」


 ソフィーナは困惑した表情を浮かべる。


「どういう意味ですか」


「そのままの意味よ」


 ミレイユは静かに続けた。


「クラリス・フォン・エーデルシュタインは、悪役令嬢だった」


「アルフレッド殿下に婚約を破棄され、国外追放される」


「そして最後は、ソフィーナと殿下が結ばれる」


 誰も言葉を発しない。

 あまりにも荒唐無稽な話だった。


 ただ一人。

 クラリスだけが、わずかに息を止めた。


(……やっぱり)


 あの日から感じていた違和感。


 ミレイユだけが、未来を知っているように動いていた理由。


 すべてが繋がった。


「でも」


 ミレイユはクラリスを指差す。


「あなたは全部変えた」


「ソフィーナをいじめない」


「使用人にも優しい」


「努力して、努力して、努力して」


「シナリオを壊した」


 その声には、怒りと焦りが入り混じっていた。


「私の知っている未来が、どんどん消えていった」


「だから私は元に戻そうとしただけ」


「悪役がいないなら、作ればいいと思った」


 ソフィーナは悲しそうに首を振る。


「そんな理由で……」


「そんな理由?」


 ミレイユが笑う。


「私には大事な理由だったのよ」


「私はこの世界で幸せになるはずだった」


「全部知っている私が、一番得をするはずだった」


「なのに」


 震える声が部屋に響く。


「全部、あなたが壊した」


 クラリスは静かにミレイユを見つめていた。


 怒りは湧かなかった。

 ただ、胸が痛んだ。


「ミレイユさん」


 穏やかな声だった。


「私は、あなたから何かを奪いたかったわけではありません」


「この世界で生きる人たちは、誰も物語のために生きているわけではないと思っただけです」


 ミレイユは唇を噛む。


「……きれいごとね」


「そうかもしれません」


 クラリスは静かに頷く。


「それでも私は、大切な人たちを傷つけたくありませんでした」


「だから選び続けただけです」


 その言葉を聞いたミレイユは、自嘲するように笑った。


「最後まで、あなたらしいわね」


 エドモンドが静かに口を開く。


「ミレイユ・カーター」


「お前は虚偽の証拠を作成し、王太子を欺き、公爵令嬢の名誉を著しく傷つけた」


「その罪は軽くない」


 騎士たちが一歩前へ出る。

 ミレイユは抵抗しなかった。


 ただクラリスを見つめ、小さく呟く。


「……結局、最後まで勝てなかった」


 騎士に促され、部屋を後にする。

 扉が閉まる音が響くと、応接室には重い静寂だけが残った。


 エドモンドはクラリスへ向き直る。


「クラリス・フォン・エーデルシュタイン」


「王家の名において、お前の名誉は回復される」


「婚約破棄についても、すべて王家の誤りとして公表しよう」


 クラリスはゆっくりと頭を下げた。


「ご配慮、感謝いたします」


 その表情は穏やかだった。

 けれど、その瞳にはもう以前のような光は戻っていなかった。


 一度失われた信頼は、真実が明らかになっただけでは元には戻らない。


 それを、この場にいる誰もが痛いほど理解していた。


 真実が公表されたのは、その翌日のことだった。

 王都中へ王家の布告が出される。


 婚約破棄の経緯。

 偽造された証拠。

 虚偽の噂。


 そして、クラリス・フォン・エーデルシュタインは一切の罪を犯していなかったこと。


 その知らせは瞬く間に王都を駆け巡った。


「そんな……」


「本当だったのか」


「クラリス様は冤罪だったのね」


 人々は口々に噂する。


 数日前までクラリスを非難していた者たちも、今度は手のひらを返すように同情を口にしていた。


 だが、その言葉はクラリスの耳には届かなかった。


     ◇


 公爵邸。


 窓から差し込む柔らかな陽射しの中、クラリスは静かに本を読んでいた。


 以前と変わらぬ日常。

 けれど、何かが決定的に違っていた。


 庭師が剪定する鋏の音。

 廊下を歩く使用人たちの足音。

 そんな穏やかな音だけが部屋を満たしている。


 そこへエマが訪れた。


「お嬢様」


「どうしましたか」


「王太子殿下がお見えになっております」


 ページをめくる指先が、ほんのわずかに止まる。

 それだけだった。


「……そうですか」


「お通ししますか」


 しばらく沈黙が流れる。


 やがてクラリスは本を閉じた。


「お会いします」


     ◇


 応接室。


 アルフレッドは立ったまま待っていた。

 婚約破棄の日よりもやつれた顔。


 目の下には薄く隈が浮かび、眠れていないことが一目で分かる。


 扉が開く。


「お待たせいたしました」


 クラリスはいつもと変わらぬ所作で一礼した。


 アルフレッドはその姿を見つめ、胸が締め付けられる。


「クラリス」


「本日はどのようなご用件でしょうか、殿下」


 その一言に、アルフレッドは息を呑んだ。


 以前なら。

 婚約者として向けられていた柔らかな距離感はない。


 目の前にいるのは、公爵令嬢と王太子。

 それだけだった。


「謝罪に来た」


 アルフレッドは深く頭を下げる。


「私が間違っていた」


「君を信じるべきだった」


「調べるべきだった」


「話を聞くべきだった」


 一つひとつ、後悔を噛み締めるように言葉を重ねる。


「本当に、申し訳なかった」


 長い沈黙が流れた。


 クラリスは静かにその姿を見つめる。


「……お顔をお上げください」


 アルフレッドはゆっくりと顔を上げた。


「殿下のお気持ちは、伝わりました」


 その言葉に、わずかな希望が灯る。


 だが、次の一言で、それは静かに消えた。


「私は、殿下をお許しいたします」


 アルフレッドは目を見開く。


「ですが」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「もう以前のようには戻れません」


「……」


「信頼とは、積み重ねるのに長い時間が必要で、失うのは一瞬なのだと学びました」


 責める口調ではない。

 事実を語るような静かな声だった。


「私は殿下を恨んではおりません」


「けれど、もう殿下の隣で笑う自分を想像することはできないのです」


 アルフレッドは何も言えなかった。

 その言葉が、当然の報いだと分かっていたから。


「……そうか」


 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「すまなかった」


 それ以上の言葉は続かなかった。

 アルフレッドは深く一礼すると、静かに公爵邸を後にした。


 閉じられた扉を見つめながら、クラリスは小さく息を吐く。


 涙は出なかった。

 ただ、胸の奥に残っていた十年以上の想いが、静かに終わりを迎えたのだった。


 アルフレッドが去ったあとも、応接室には静かな空気が流れていた。


 エマはそっと紅茶を下げながら、クラリスの横顔を窺う。


「お嬢様」


「はい」


「……ご無理はなさらないでください」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「心配をかけてしまいましたね」


「いいえ」


 エマは首を横に振る。


「私は、お嬢様がご自分のお気持ちを押し殺してしまわれないか、それだけが心配なのです」


 クラリスは窓の外へ目を向けた。

 庭では冬支度のため、庭師たちが落ち葉を集めている。


「不思議ですね」


 ぽつりと呟く。


「婚約破棄を告げられた時は、何も感じませんでした」


「ですが今になって、ようやく終わったのだと実感しています」


 エマは何も言わず、その言葉を受け止めた。


 クラリスは少しだけ寂しそうに笑う。


「私は殿下をお慕いしていました」


「幼い頃から、ずっと」


「だからこそ、あの日は悲しかったのだと思います」


 それは初めて口にした本音だった。


 エマの目に涙が浮かぶ。


「ですが」


 クラリスは静かに首を横へ振る。


「終わった恋を抱えたままでは、前へ進めません」


「私は私の人生を歩きたいのです」


     ◇


 一方、王宮では。


 アルフレッドは執務室で机に向かったまま、書類を見つめていた。


 しかし、一文字も頭へ入ってこない。

 机の引き出しには、小さな木箱がしまわれている。


 幼い日の思い出が詰まった箱だった。


 箱を開く。


 中には、子どもの頃にクラリスから贈られた栞や、二人で摘んだ押し花、小さな刺繍入りのハンカチが丁寧に保管されていた。


 どれも他愛のない品ばかり。


 それでもアルフレッドにとっては、かけがえのない宝物だった。


「私は……」


 震える指で栞を手に取る。


「何を守ったつもりだったのだ」


 思い返せば、答えは最初から目の前にあった。

 誰よりも誠実だったクラリス。

 噂よりも、その十年以上を信じるべきだった。


 なのに自分は、一枚の偽の手紙と曖昧な証言を信じた。


「遅すぎた」


 小さく漏れた言葉は、誰にも届かない。


     ◇


 数日後。


 学院では、クラリスが久しぶりに登校していた。

 廊下を歩くだけで、生徒たちの視線が集まる。


「あの時はごめんなさい」


「私、噂を信じてしまって……」


「本当に申し訳ありませんでした」


 次々と謝罪の言葉が向けられる。


 クラリスは立ち止まり、一人ひとりへ穏やかに頭を下げた。


「お気になさらないでください」


 その返事に、生徒たちはさらに申し訳なさそうな表情を浮かべる。


 人は簡単に噂を信じる。

 そして真実が明らかになると、今度は簡単に謝る。

 それが悪い人だからではない。


 誰もが、そういう弱さを持っている。

 クラリスは責める気にはなれなかった。


 けれど。


 以前のように笑い合うことも、もうできなかった。


 その時だった。


「クラリス様」


 振り返ると、ソフィーナが駆け寄ってくる。


「今日もご一緒していただけますか」


 その笑顔だけは、何一つ変わっていなかった。

 クラリスの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「もちろんです」


 二人は並んで歩き出す。


 失ったものは戻らない。

 それでも、失わずに残ったものも確かにあった。


 その温もりだけは、これからも大切にしたいと、クラリスは静かに思うのだった。


     ◇


 卒業式の日。


 学院の庭には、春を告げる花々が咲き始めていた。

 あの日、建国祭で婚約破棄を告げられてから、一年が過ぎようとしている。


 空は、どこまでも青かった。


「クラリス様!」


 聞き慣れた声に振り返る。


 ソフィーナが卒業証書を抱え、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「ご卒業、おめでとうございます」


「ソフィーナ様も、おめでとうございます」


 二人は顔を見合わせ、自然と笑みを浮かべる。

 あの事件以来、二人の友情は変わることがなかった。


 むしろ以前よりも強く、互いを支え合う存在になっていた。


「この一年、本当にいろいろありましたね」


「ええ」


 クラリスは静かに頷く。


「ですが、無事に今日を迎えられて良かったです」


 風が吹き、花びらが舞う。

 穏やかな時間だった。


 少し離れた校舎の陰から、その様子を見つめる人物がいた。


 アルフレッドだった。


 卒業式の来賓として学院を訪れていた彼は、楽しそうに笑うクラリスを静かに見つめている。


 以前なら、その隣に立っていたのは自分だった。

 しかし今、その場所に戻る資格はない。


 自ら失ったのだから。


「殿下」


 側近が静かに声をかける。


「お時間です」


「ああ」


 アルフレッドは一度だけクラリスへ視線を向ける。


 そして踵を返した。

 もう彼女を呼び止めることはしない。


 謝罪は済ませた。

 許しも得た。


 だからこそ、それ以上を望んではならないと知っていた。


     ◇


「クラリス様?」


 ソフィーナが不思議そうに尋ねる。


「どうかなさいましたか」


「いいえ」


 クラリスは優しく微笑む。


「風が気持ちいいと思っただけです」


 その視線の先には、どこまでも続く青空が広がっていた。


 前世では、ゲームの結末だけを恐れていた。

 悪役令嬢にならないように。

 破滅しないように。


 ただ、それだけを願って生きてきた。


 けれど今は違う。

 未来は誰かが決めた物語ではない。


 自分が選び、歩いていくものだ。


 遠回りをしても。

 傷ついても。

 信じた道を進んでいけばいい。


 その先にある景色は、きっと誰にも決められないのだから。


「帰りましょうか」


「はい!」


 二人は肩を並べ、学院の門へ向かって歩き出す。

 春風が優しく二人の背を押していく。

 その後ろ姿は、もう誰かが決めた悪役令嬢のものではない。


 一人の少女が、自らの人生を歩き始めた姿だった。


       ◇


 悪役にならなかった私を、誰かが悪役にした。

 それでも私は、最後まで悪役にはならなかった。


 だからこそ失ったものもある。

 だからこそ守れたものもある。


 誰かを憎めば、きっと楽だった。

 誰かを恨めば、もっと簡単だった。

 けれど私は、それを選ばなかった。


 私の人生は、物語の筋書きではない。

 私自身が選び続けた、一つだけの人生だから。

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― 新着の感想 ―
たった一度でもいいから当事者の二人に話をしていれば良かったですね。 と言うか当事者の二人に話をしていないのに断罪するなどアルフレッドがあり得ない。
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