『知らない妻』
マサトは、独身だ。
学生時代に一目ぼれで好きになった女性がいた。マサトは、すべてをかけて愛せると誓い告白した。
「君の深いその瞳から目が離せないのです。必ず幸せにします、付き合ってください」
その俺の言葉を聞いた、彼女は・・・真由は、困ったような、悲しいような顔をした。
そして、俺は失恋をしてしまった。
その彼女のことをいまだに引きずっている。
情けないとい人も居るだろが、そのくらいマサトにとっては、本気の恋だったのだ。
それから15年もたったが、15年間彼女いない歴を延長し続けている。
今日も仕事が終わると、西日がいつもよりも強く差し込む帰り道を車で戻った。
誰もいないアパートの部屋、マサトはいつものように、玄関のドアにカギを差し、黙ったままドアをあけた。
部屋には誰もいないはずだが、明かりがついていた。そして、人の気配もある。
いや、独り暮らしの殺風景な部屋ではなかった、玄関には、女物の靴まである。
花まで飾ってある・・・
マサトは、アパートの部屋を間違えたのかと、玄関を出て、慌てて表札を見た。
203号室、小谷 間違いない。
部屋の中から声がする。
「あなた、帰ったの?なによ、黙って帰ってくるなんて、おかえりは?」
マサトは、何が起きているのか、理解できないでいた。
茫然と玄関に立ち尽くしている。
「俺の、部屋だよな・・・」
奥から、女性が玄関まで出てきた。
「あなた、どうしたの?ぼーっとしちゃって、おかしな人」
彼女は、やさしく微笑んだ。
いや、この顔、この笑顔は、見覚えがある。
15年前に振られた、彼女そのものだ。
マサトは、彼女を・・・真由を見つめた。間違いない、15年たっても、俺が、真由を見間違うわけがない。
「もう、どうしたの?お帰りのキスでもまってるの?」
彼女は、優しい微笑みを浮かべている。
「真由さん?どうして」
マサトは、思わずつぶやいてしまった。
「あら、さんずけ?最愛の奥様をわすれたのかしら?さぁ、あなたの大好物作ったわ」
真由は、マサトの茫然とした表情を意にも介さず、マサトの手を引くと中に連れていった。
促されるままに足を踏み入れたリビングは、マサトの記憶にある殺風景な男一人暮らしの部屋ではなかった。
温かみのあるカーテン、小洒落たローテーブル、そして何より、壁の棚には二人の結婚写真が飾られている。
そこには、タキシード姿で少し照れくさそうに笑うマサトと、純白のドレスをまとって幸せそうに寄り添う真由の姿が、鮮明に写し出されていた。
「いつまでたっても、私に告白してくれた、初々しいままの旦那様なのね」
真由は言った。
「本当に真由・・・」
それだけを言葉にするだけで、マサトには精一杯だった。
「もう、こっちにおいで」
真由は、マサトの体を優しく抱きしめた。
真由の体温が、やさしくマサトの体に流れ込んでくる。
「マサト、愛してるわ」
真由が、優しくささやきかける。
耳元で囁かれるその声と、背中に回された真由の腕の確かなぬくもり。
15年間、夢の中でさえ触れることができなかった、切望してやまなかった彼女の体温が、今、マサトの五感を容赦なく支配していく。
それは幻覚にしてはあまりにも生々しく、本物の愛に満ちていた。
「俺も……真由、俺も愛してる」
マサトは思わず、彼女の細い肩を抱きしめ返していた。喉の奥が熱くなり、15年分の孤独がその一瞬で溶けていくような錯覚に陥る。
客観的に見れば、この状況は狂気の沙汰だ。なぜ彼女がここにいるのか、なぜ自分たちは夫婦になっているのか、説明がつく道理など何一つない。
しかし、この腕の中の温もりを、真由から向けられる無条件の愛を、「俺の記憶にないから」という理由だけで拒絶することなど、マサトには到底できなかった。たとえ世界がバグを起こしていようと、自分が狂っていようと、この幸福の中に溺れてしまいたかった。
「私の旦那様、続きはあとでね。ほら、ご飯が冷めちゃうわ。お着替えしてきて?」
真由は嬉しそうに微笑み、マサトの胸を優しくポンと叩いて腕を解いた。
「ああ、そうだな。すぐ着替えてくるよ」
マサトは引き攣る顔をなんとか動かし、微笑みを返した。
リビングを後にし、寝室へと向かう廊下を歩きながら、自分の手のひらを見つめる。先ほど真由を抱きしめた時の、あの柔らかで確かな弾力、そして彼女の髪から香った甘い匂いが、まだ手のひらや鼻腔にべっとりと張り付いている。
これほど鮮明な幻覚が、この世にあるのだろうか。
寝室のドアを開けると、そこもまた、自分の知る殺風景な部屋ではなかった。
クローゼットを開けると、男物のスーツの隣に、真由のものらしきパステルカラーのワンピースや小物が、当然のような顔をして並んでいる。タンスの上には、二人で出かけたのだろう、どこかのテーマパークのペアキーホルダーが無造作に置かれていた。
マサトは震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、画面を立ち上げた。
待ち受け画面は、満開の桜の下で二人で自撮りした写真。着信履歴も、LINEのトーク画面も、一番上はすべて「真由」の名前で埋め尽くされている。
『今日、ちょっと帰りが遅くなりそう』
『了解!気をつけて帰ってきてね。ハンバーグ温めて待ってる』
昨日交わしたはずの、他愛のない夫婦の会話。
しかし、マサトの脳内には、そんな記憶は一秒たりとも存在しない。自分の記憶にあるのは、15年前に彼女に冷たく振られ、それからただの一度も恋人を迎えることなく、孤独に歳を重ねてきたという、灰色で、空っぽの現実だけだった。
「嘘だ……何が起きてるんだ……」
調べれば調べるほど、自分がこの15年間、彼女を妻として熱烈に愛し、共に生きてきたという『客観的な証拠』ばかりが、部屋の至る所から、スマホの中から、溢れんばかりに突きつけられる。
狂っているのは、世界なのか。それとも、俺の頭なのか。
マサトはベッドの端に腰掛け、頭を強く抱え込んだ。
冷たい汗が背中を伝う。
もし、これが何かの間違いや世界のバグだとしても、今ドアを一枚隔てた向こうには、自分が15年間、片時も忘れることができなかった、あの愛しい女性が「妻」として待っているのだ。
この奇跡のような幸福を、手放したくない。たとえ、自分が完全に壊れてしまっていたとしても。
「あなたー? 準備できたわよー」
リビングから、真由の弾んだ声が聞こえる。
マサトは深く息を吸い、鏡の前で必死に「いつもの夫」の顔を作ると、この幸福な日常を完璧に演じ続けなければならない。
彼女を二度と失わないために。
リビングには香ばしいデミグラスソースの匂いが満ちていた。
テーブルの上には、丁寧に形整えられた大ぶりのハンバーグと、みずみずしいサラダ、そして二つのワイングラス。
「はい、お疲れ様。今日も大変だったでしょう」
真由は嬉しそうに言いながら、ハンバーグをマサトの前に置いた。その手つきも、エプロンの揺れ方も、15年という歳月を当たり前に重ねてきた「ベテランの妻」そのものだ。
「ありがとう。……美味しそうだね」
マサトは椅子に腰掛け、箸を持つ。手がかすかに震えるのを、真由に見咎められないよう必死に抑え込んだ。
一口、口に運ぶ。肉汁がじゅわっと広がり、甘めのソースが舌を包んだ。完璧な味だった。幻覚にしては、あまりにも完成度が高すぎる。
「美味しい? よかった。ねえ、そういえば先週の旅行、本当に楽しかったわよね。またあの海、見に行きたいな」
真由はグラスに赤ワインを注ぎながら、愛おしそうに目を細めて語りかける。
先週の旅行。もちろんマサトの頭には、そんな思い出は1ミリも存在しない。先週の今頃、自分はただ一人、殺風景な部屋でコンビニの弁当を寂しく突っついていたはずなのだ。
「……そうだね。あの海は、本当に綺麗だった」
マサトは、スマホの履歴にあった『熱海温泉・海乃宿』という文字を必死に思い出しながら、生返事を合わせた。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
嘘を重ねている罪悪感と、それ以上に、「もし次の質問に答えられなかったら、この楽園から叩き出されるのではないか」という底なしの恐怖が、彼の喉を締め付ける。
「あなた、どうしたの? ずっと顔がこわばってる。……何か仕事で嫌なことでもあった?」
真由がふと、首を傾げてマサトの顔を覗き込んできた。
その澄んだ、深い瞳。15年前、放課後の教室でマサトのすべてを奪い去り、そして無情に彼を突き放した、あの時と全く変わらない美しい瞳が、真っ直ぐにマサトを射抜く。
その瞬間、マサトの心の中で、何かが限界を迎えて決壊した。
目の前にいるのは、紛れもなく自分が世界で一番愛した人。彼女がこうして自分を「あなた」と呼び、愛を注いでくれている。この客観的な現実のすべてが、自分たちの幸福を証明している。
なのに、自分の主観だけが、15年前のあの冷たい「失恋の過去」の闇に囚われたまま、一歩も前に進めていない。
この埋められないズレに、耐えきれなくなった。
もし、この世界が本物なら、俺のこの言葉を、彼女は笑って受け止めるはずだ。もし、これが偽物なら――。
マサトは箸を置き、真由のその深い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、15年前のあの日、すべてを懸けて彼女に伝えた、あの呪いのような告白の言葉を、一音一音、噛み締めるようにして口にした。
「君の深いその瞳から、目が離せないのです。必ず幸せにします、付き合ってください」
静まり返った部屋に、その言葉だけが重く響いた。
真由は一瞬、弾かれたように目を見開いた。
そして――彼女の顔から、先ほどまでの「優しい妻」の微笑みが、嘘のように消え去っていった。
みるみるうちに真由の表情は曇り、眉が切なげに下がる。
それは、困ったような、ひどく悲しいような・・・
15年前のあの放課後、すべてを懸けたマサトの恋を、綺麗に、冷たく振り切った時と、寸分違わぬ「あの時の真由」の表情だった。
「……マサトくん、ごめんなさい」
真由の口から、マサトが一度も呼ばれたことのないはずの「妻としての愛称」ではなく、15年前のあの冷たい他人行儀な響きが零れ落ちる。
マサトは、独りアパートの部屋にいた。
マサトは独身だ。
おしまい




