貴女の砦はなかった
皇帝の隠し胤とも亡国の姫とも噂される、謎めいた高貴なる女性、タイスの離宮に、物語の登場人物が招かれた。
恋物語の、ヒロインが。
嫋やか、と言えば聞こえは良い。
青白い肌に入った桃の頬紅が何とも病的な美しさだった。貴族の娘としても、細く白い指先。ゆったりとしたドレスがかえって薄い身体を強調してしまっている。
傷心中であったが、健気に報われたと賞される娘。
クレマンス・ド・ロシュフォールは眉尻を下げた笑みを浮かべる。
「……わたくしはずっと、お会いしたくない、と。
弱っておりました。とても心が傷付いて、お会いして、また罵倒されたら、と怯えておりました」
クレマンスの眼前で扇をゆらりと揺らす貴族女性、タイスは、切れ長の瞳で続きを促す。
「毎日、お越しになるのです、彼の方は。雨の日も雪の日も。最初は家族も怒り、追い返しておりましたが、あまりに直向きにお越し続けて……わたくしに会ってみないか、と。世間では、恋物語が悲恋で終わってしまうのか、と囁かれているとか。」
タイスは小さく溜め息をつき、瞑目した。扇は彼女の口元に添えられている。
「平身低頭、謝罪されました。
中々受け入れることは出来ませんでしたが、ずっずっと、謝りに参られるので」
再婚約の運びとなりました、とクレマンスは結んだ。
――愚かな男が婚約者を捨て、真実に気付いて謝罪し続けた。
――女は謝罪を受け入れ、再び共に歩み出す。
それが帝都で流れる恋物語。
タイスは本人の口から語られた実情を受け、
――すぐさまクレマンスを保護下に置いた。
怒涛だった。
保護と家族その他からの隔離の指示が飛ぶ。
皇帝への報告、ロシュフォールへの命令、クレマンスを匿うための細々とした差配が飛び交い、伝令や女官、侍従が動く。
誰もがタイスの判断に従う。一切の乱れもなく。
置いていかれているのは、当の本人であるクレマンスのみ。
タイスは薄藤の目を鋭く細め、立ち上がる。クレマンスも慌てて立とうとして、制された。
「クレマンス、貴女は許していない。
傷付いた心が癒えてもいない。
貴女を守るべき家族は“敵”の侵入を許し、貴女を脅威に晒し続けた愚物だ」
クレマンスははっきりと困惑を露わに、いえ、その、と擁護の言葉を探している。
「いいか、クレマンス。
――貴女は脅威を受け入れざるを得ない、被害者だ。敵は日参し、貴女を怯えさせ続けた。そして家族は敵に同情して侵入させ、更に貴女を苦しめた。そうだろう?家族は態度でもって示した。
“敵に情が沸いたので、貴女を守らない”と。
酷い重圧だっただろう。受け入れてしまえば楽になるか、と思っても仕方がない。そうすれば日々の襲来はなくなるのだから。味方だった裏切り者達が、裏切り続ける様を見せつけられることはなくなるのだから。
貴女は諦めさせられた。
拒絶することを、許さないことを。
あぁ、ロシュフォールは間抜け極まる。愛の橋渡しをしたつもりでいるぞ。娘を蔑ろにして、悦に浸っているのだ、気持ち悪い」
自慰など一人でやるものだ、とタイスは凄まじい罵倒を吐いた。すーっとクレマンスの血の気が下がる程。
タイスはクレマンスにきっぱりと告げる。
「よく食べよく寝、よく考えろ。
――貴女に快適な籠城を提供する。
……今度こそな」
⁂⁂⁂
帰らなければならない、とそわついていたのは最初のうち。
「貴女は本当に帰りたいのか?」
貴族のしがらみや、離宮に厄介になることへの畏れなどを、クレマンスが訥々と訴えると、タイスから返ってきたのは命令でも許容でもなく、ただそれだけ。
――お前は、あの家に帰りたいのか?
帰りたい、とは言えなかった。
多分、もう答えは出ていた。
好きなだけ眠って、穏やかに静かに食事をとって。本を読んだり、刺繍をしたり。家にいた時には出来なくなってしまった、普通のことが出来た。それが少し、不思議で、懐かしい感覚だった。
小鳥の囀り。
紅茶の香り。
菓子の甘さ。
指先が紡いでいく刺繍。
陽の光が少し眩しい。
少しずつ、“当たり前”を取り戻していく。
嬉しかった。
そして、
“当たり前”を奪われ続けた怒りが、胸の奥に、熾火のように、胸を、焼いた。
⁂⁂⁂
タイスへロシュフォールからの問い合わせは当然あった。
一貫しての返答は、
『クレマンス・ド・ロシュフォールの保護のため』。
『貴家での心身の安全は確保されていないため』。
ロシュフォールからしてみればちんぷんかんぷんだ。預かり知らぬ政変や事件に巻き込まれてしまったのか?折角婚約者と寄りを戻せたのに。せめてクレマンスに面会を、との申し出は却下された。手紙を託すことだけは許可されたが、『クレマンスが望めば』との条件付きだ。
娘の婚約者であるアンリ・ド・シャトーヌフも気を揉んでいた。過去に愚かにも女の讒言に踊った彼は、今では一心に娘を想っている。
一体何が、と頭を抱える彼ら。
少しずつ取り巻く物語が変わっていっていると、気付きはしない。
⁂⁂⁂
新進気鋭の、粒揃い。
古参の確かな実力者。
複数の劇団を跨いだ、異例の舞台が話題だ。
――愚かな男がストーキングの末に、男に疲れ果てた女を手に入れる、風刺喜劇。
喜劇というには、ヒロインの憔悴の様が哀れ過ぎ、ヒーローの執着が恐ろしい。滑稽なのは、ヒーローに絆されるヒロインの家族だ。
恐ろしい、気持ち悪い、という率直な感想。
いや女の執着も恐ろしいという反駁。
善意の顔をした身近な敵は厄介だ、という同情。
そして、誰かが、少し前の“恋物語”を思い出した。
気持ちの悪いストーカーと、
愚かな家族の顔をした敵にも、
何処からか流行りの劇の招待券は送りつけられ――
⁂⁂⁂
「いや、本当に我が身を振り返らないものだな」
タイスは片端の唇を嘲笑に歪めた。
対面のクレマンスは血色の良い頬を苦笑する程度に緩める。
愚者達が風刺喜劇を鑑賞した報告は入っている。
しかしこれまで通りの対応しかしてこないのだ。潜り込ませた影からも、万事常通り、とある。
「誰かの“気付き”が奴等に届くまであと少しだ。
恐らく、流れの変化を初めに受けるのは、社交界にいる母親だ。今に、『私達は違うわよね?』などと訊いてくるぞ、馬鹿馬鹿しい」
「……タイス様」
クレマンスは席を立ち、最上級の礼をタイスに捧げ、面を伏せた。
「タイス様、誠に、誠に…細やかなお心遣いいただき、幾重にも御礼申し上げますとともに、深甚なる、感謝申し上げます」
「……道は決まったか」
「わたくしは、彼の方と添い遂げられません。家族の下にも戻りたくない。政略が絡む婚約でもなし、彼の方とはお別れできるでしょう。しかし、ロシュフォールの民が納めた血税にて、生かされた身。
……タイス様、以前のお話を、お受けしたく存じます」
ロシュフォールは砦だ。ロシュフォールは砦としての、家だった。
辺境伯家の下、城壁都市の一つを守る伯爵家。
先々代までは優秀だった。
常に備え、市民に外敵の脅威を教え込んで、不測の事態を堅実に収めていた。
当代になって、全てに贅肉と怠惰がついた。兵は衰え、市民は危機意識から遠ざかり、天災や外敵にあたふたと発作的に対処するばかり。
「あぁ、ロシュフォール家という砦はガラクタだ。辺境伯にも内情は伝わっている。
クレマンスは辺境伯令息へと婚約を結んでもらい、彼を当主として城壁都市を治めよ。……今度こそ、本当に政略結婚だ」
ロシュフォール当主とその周辺は、異動となる。
失われても栄えても、どうでも良い飛び地の紛争地へ。栄えるなら関与しないが、失われるのなら――諸共焦土に変えるだけ。ガラクタの砦には相応しい処遇だろう。
クレマンスは辺境伯家の令息を思い起こす。
厳しい人、公平を重んじる人、四角四面の堅物――などと噂があったと記憶している。
「令息は……潔癖な方。傷物のわたくしはご不満かもしれませんが、市民に“瑕疵のないロシュフォール当主交代”演出のために、堪えていただくことになります」
「あぁ、あの令息は不貞や不正は毛嫌いしているが、身持ちが堅い令嬢なら、婚約破棄やら解消の有無に頓着はないぞ。頭が固いが、人の意見を聞き、取り入れる度量はある。上手く転がせ」
ロシュフォールの娘が寄親の婿を迎えて、城壁都市を建て直す――それが、クレマンスの保護から書かれた図面だ。
落ち着いて生活できるようになったクレマンスも、自身が何らかの駒とされることに気付いていた。それでも――本当に安らげる場所をくれた感謝と恩義を思えば。
タイスがにかりと笑み、クレマンスに席を改めて勧める。
政治の話は、これまで。
クレマンスはふと、疑問が浮かんだ。
タイスであれば、あの男の不貞未遂から図面を書けたはず。さっさと辺境伯令息を捩じ込めば良かった。しかし動いたのは、クレマンスが憔悴しきってから。それも折り込み済みだったのかしら、と思いつつ、訊く。
「タイス様、わたくしを懐柔するために、遠回りをされたのですか?」
タイスは珍しく、心外とばかりに片眉を上げた。
「……私にとて多少の慈悲はあるぞ」
弱ったところを付け込む気はなかったらしい。
では、何故。
「私は物語が好きだが…現実を物語として読む風潮は嫌いでね」
紅茶をひと口。
「皆が宣う恋物語を、破り捨てて現実に貶めただけだ」
受け入れて、愛着を持ってしまった方が楽。
その病の名は、




