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短編

勇者の剣を抜かないでください

作者: 月食ぱんな
掲載日:2026/03/21

 魔物がはびこるこの世界において、「勇者の剣」は一種の伝説となりかけていた。


 王都の広場、石畳の中央にどっしりと鎮座する岩から突き出た一振りの剣。純銀の刀身に、柄には深紅の宝石。数千年前、神が「真の勇者のみがこれを抜くことができる」と宣言したとされる剣は、ここ百年の間、誰にも引き抜かれることなく、今日も朝の光を受けてきらりと輝いていた。


 腰にフライパンをぶら下げたリイナは、物陰から、その剣に手をかけた青年を見つめている。


(やばい)


 心の中で呟く。


(朝日を浴びて、さらにステキ度が増して見えるんだけど)


 リイナの見つめる先にいる青年の名はテオ。

 王立騎士団所属の若き騎士だ。


 切れ長の目に、すっと通った鼻筋。なにかを決意したときにきゅっと結ばれる唇。そして、鎧の下からもわかる、鍛え上げられた肩と腕。剣を握る手が大きくて、リイナの父が丹精こめて作った料理が入った弁当箱を、まるで小箱のように包んでしまう、あの手が。


(ほんとに好きだなぁ)


 リイナはうっとりしながら、テオを眺める。


 リイナは年季の入った鉄のフライパンの柄を撫でた。柄に革を巻いた、直径三十センチほどの代物。底は黒光りして、長年の使用でなめらかに磨き上げられている。

 リイナが物心ついたときからずっと腰に下げている、もはや相棒のような道具だ。


 渡したのは父でリイナが六歳のときのこと。


「ないよりマシだ」


 それだけ言って、父は古いフライパンをリイナの小さな手に握らせた。魔物はびこる世界で、か弱い娘が一人で外を出歩くには、何か持っていたほうがいいという、父なりの精一杯の愛情だった。


 以来リイナはずっとフライパンを持ち歩いている。料理にも使うし、いざというときは振り回す。実際、何度かそういう場面もあった。魔物というのは、意外なところに出てくるものだから。


 腰にフライパンをぶら下げたリイナは定食屋「クジラの胃袋亭」の娘だ。提携する騎士団に昼食を届けるのが毎日の日課で、それがきっかけでテオと知り合った。


 最初に声をかけてくれたのはテオのほうだった。


「ありがとうございます。毎日重いのに、大変ですね」


 そう言って、弁当の入った大きな籠を食堂まで運んでくれた。


 かれこれ二年ほど、ほぼ毎日顔を合わせている。

 ただ、交わされる会話は弁当や天気にまつわることだけ。深い話に発展したことはない。それなのに、気づけばリイナはテオのことを一日に、ざっと三十七回は考えるようになっている。


 そう、リイナは、はじめて話しかけられた日から、テオ様推しの道を爆走中だった。


 そのテオが今、勇者の剣を抜こうとしている。


「……うぬぬ!」


 腰を落とした彼は、勇者の剣の柄に力を込めている。

 腕の筋肉が浮き上がり、岩がミシリと鳴った。


(抜いちゃダメ! 絶対に抜いちゃダメだからね、テオ様!)


 リイナは物陰で、祈るように両手を組む。普通、町の人々は「誰かが剣を抜いて平和をもたらしてくれること」を願うものだが、リイナだけは違った。


 もしテオがこの剣を抜いてしまったら。

 彼は真の勇者として認定され、神託に従って魔王討伐の旅に出なければならない。どう考えても危険な旅だ。


「だいたい、魔王なんて今どき流行らないし」


 小声で毒づく。

 実際、この数百年、魔物は確かにいるものの、世界はそれなりに均衡を保っていた。勇者がいなくても、騎士団が頑張ればなんとかなるレベルなのだ。それなのに、変に勇者の剣なんて抜いてしまったら、眠っている魔王をわざわざ叩き起こすようなもの。


「っ……うぉぉぉぉぉ!」


 テオの気合が広場に響き渡る。

 すると、どうしたことか。数百年、微動だにしなかった勇者の剣が、カタカタと震え始めた。


「えっ、ちょっと待って。嘘でしょ」


 リイナの顔から血の気が引いた。

 岩と剣の隙間から、黄金の光が漏れ出している。これは、古文書に記された「選ばれし者が現れた予兆」そのものだった。


「だめえええええええ!」


 考えるより先に、物陰から飛び出していた。

 テオが振り向く。


「え、リイナさん!?」


 驚いた顔が、朝の光の中でいっそう整って見えて、リイナの心臓は止まりかける。


(しかも、名前覚えてくれてるし!)


 リィナは嬉しさのあまり、その場で華麗なステップを踊りたくなった。けれど、浮かれる気持ちをぐっと飲み込み、素早く真剣な表情を貼り付ける。


「だめです。それを抜いてはいけません」


「……え」


「その剣を抜いたとして。果たしてテオ様にとって『いいこと』って、あるんですか?」


 テオはきょとんとした顔で、それからゆっくりと口を開いた。


「そりゃ、真の勇者として認められるし。あと……危険手当とか時間外手当とか、そういう諸々の手当がかなり出るって話ですし」


「危険手当というのは」


 リイナは一息吸い込んだ。


「危険な任務に出向くから支給されるものです。つまり危険な目に遭うことが前提です。そんなに手当が欲しかったら、休日出勤手当を狙って、土日祝日に積極的にシフトに入られてはいかがでしょうか」


「……まぁ、そうかも」


 テオがあっさり頷いた。


(一難去った。これでもう、テオ様は剣を抜こうだなんて恐ろしいことを考えない)


 リイナが小さくほっとして、ふぅと肩を下ろしかけた、その時。


「でも」


 テオが続ける。


「剣を抜くのが出世への一番の近道なんですよ。俺、平民ですし。実力はあるつもりなんですけど、どうしても出世に限界があって」


「なっ!?」


 リイナは一瞬言葉に詰まった。


(まさかの出世欲からの、挑戦だったなんて……!)


 清廉潔白で、正義感だけで動いていると思っていた彼の口から飛び出したのは、あまりにも現実的で生々しい理由だ。


(けど、それなら説得できる)


 持ち前の町娘としての生活の知恵をフル回転させ、即座に返す。


「出世したいなら、剣を抜く必要はありません。地道に功績を積んでいけば、平民出身でも出世できる時代です。現に騎士団副長のフェリクス様は平民のご出身でしょう?」


「それは……そうですけど」


「時間はかかりますが、確実です。何より安全です」


 テオはしばらく考える顔をして、また口を開いた。


「でも、世界が魔物に荒らされてるのを、放っておけないじゃないですか。俺が強いのに、何もしないのは……」


「テオ様がいなくても、世界はなんとかなります」


「そんな身もふたもないことを」


「だって、歴史は繰り返すと言うじゃないですか」


 リイナは畳みかける。


「きっとテオ様が剣を抜いて旅に出て、大変な思いをして魔王を倒したとしても、数年もすれば必ず出てきます。『もしわしの味方になれば、世界の半分を……』などと言って勇者を誘惑しようとする魔王の後継者が」


「それは、まぁ……」


「剣を抜いた勇者によって世界は光を取り戻すかも知れません。でも百年後。『王様、た、た、大変です!』というパターンで、よゆーでまた魔物に侵略されます。そう、これが歴史というものなのです」


「……否定できないかも」


「ですから、テオ様一人が命をかけて旅に出たところで、世界の魔物問題は根本的には解決しません。それよりも騎士団の中で長く働き続けて、後進を育て、組織を強化するほうが、長い目で見れば世界のためになります」


 テオはしばし黙り込んだ。


「リイナさんって」


「はい」


「すごくよく喋る人だったんですね」


「……」


「いや、褒めてます。それに俺、ちゃんと君の話を聞いてますから」


 テオが苦笑した。リイナは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、咳払いをした。




 *




 翌日も、テオは剣の前に立っていた。

 リイナも物陰に立っていた。もちろん、腰にフライパンを携えて。


「待ってください!」


「また来た」


「テオ様は、真の勇者として認められた後、どうされるおつもりですか?」


 テオは少し考える素振りを見せてから答えた。


「魔王を倒して、平和を取り戻して……あと、名を残したいというのもあって」


「名を残したいなら、他にも方法があります」


 すかさず告げる。


「例えば、後輩の騎士に尊敬される先輩になって語り継がれるとか。あ、日記を書いて、それが百年後に発見されれば、当時の生活を知る、貴重な一次史料として歴史に名を刻めます」


「日記で……歴史に?」


「そうです! 『〇月×日、クジラの胃袋亭のハンバーグ、肉汁がすごかった。リイナさんが可愛かった。完食』。これです! これこそが、未来の歴史学者たちが泣いて喜ぶ『百年前における、王都庶民食文化と騎士の私生活に関する考察』の決定版になるんです!」


「そうなると俺、ただの食いしん坊な騎士として記録されません?」


 テオが引き気味に呟くが、リイナは止まらない。


「いいですか、テオ様。勇者の戦いの記録なんて、どうせ派手に脚色されます。でも、テオ様が書く『今日の定食の付け合わせが最高だった』という真実の一行は、百年後の子供たちの自由研究のテーマになるんです。魔王を倒すより、未来の子供たちの学習に貢献する。これこそが真の『名声』ではありませんか!」


「……リイナさん、たまにものすごく強引な理論を展開しますよね」


 テオは苦笑する。


「いいですか。大事なのは、剣を抜かなくても、名を残すことはできるということです」


「でも、なんと言うか、そういう地味な感じの名の残し方じゃなくて……」


「派手に死んで名を残すより、地味に生きて名を残すほうがずっと良いことです」


「死ぬとは言ってないけど」


「でも可能性はあるでしょう」


「……否定はできませんね」


 テオの視線が、ふとリイナの腰に落ちた。


「リイナさん、ずっと気になっていたのですが。そのフライパン、いつも持ち歩いていますよね?」


「ああ、これは」


 リイナは腰に下げたフライパンを少し持ち上げる。


「父に昔から持たされてまして。魔物よけに、ないよりマシだって」


「なるほど」


 テオは何か言いたそうな顔をしたが、結局「そうですか」とだけ言った。




 *




 三日目の朝。

 またもやテオは勇者の剣を抜こうと広場に現れた。

 もちろん、フライパンを腰に下げたリイナも彼を説得中だ。


「そもそも勇者パーティーというのは人数が限られています。だいたい四人か五人でしょう。旅の途中で仲間割れが起きた事例もあります。『パーティーを追放されたけど、実は俺だけが強かった』みたいな事は、昔からよくあります」


「えっ、そんな話があるんですか」


「伝説として残っています。剣を抜いた後の人間関係のもつれに耐える。その辺のあれこれをテオ様は、解決できる自信がありますか?」


「そ、それは……あんまり得意じゃないというか……」


「では剣は抜かないほうがよろしいかと」


「何でそういう結論になるんですか」


 テオが苦笑した。


「そもそもリイナさん、なんでそんなに必死なんですか? もしかしてだけど」


 テオが、少し悪戯っぽく、けれど期待に満ちた眼差しでリイナを見つめた。


「俺のこと、心配してくれてるんですか?」


 その瞬間、リイナの脳内では推しからの直球という名の爆弾が炸裂した。


「そ、そそそそ、そんなわけないじゃないですか!!」


 リイナは、持っていたフライパンを盾のように構えて叫んだ。


「……クジラの胃袋亭の大切なお得意様が危険な旅に出てしまっては、経営に支障が出ますから」


「そんな」


 テオが笑った。


「お客一人のために、こんなに朝早くから来るんですか」


「朝の空気は一番綺麗だし、もともと早起きだし。ここはたまたま散歩コースなので」


 テオはしばらくリイナの顔を見つめてから、柔らかく笑った。


「ありがとうございます」


 その笑顔がずるすぎて、リイナはまた頬が熱くなった。


 *


 帰り道、リイナは一人で市場の近くを歩いていた。


「確か今日は茄子がお得な日よね」


 今日のお弁当は茄子と豚肉の炒め物をお父さんに勧めようかな、などと呑気に考えていたそのとき。


 路地の奥から、ずるり、という音がした。


 リイナは振り向かず、腰に下げたフライパンの柄を、ゆっくりと握る。


 ずるずるずる。


(粘液系の魔物だ)


 即座に判断する。

 スライム種で、王都の下水に最近増えていると噂されていた。馴染みの客が洗濯物がベトベトになったと顔を顰めていたのを思い出す。


 どうやら地上に出てきているというのは、本当らしい。

 スライムの危険度は低い。ただし複数で行動する習性がある。


「よし」


 振り向きざまに、リイナはフライパンを横一文字に薙いだ。


 次の瞬間、ぱぁん、という小気味よい音が路地に響いた。


 三匹ほどいたであろうスライムは、みごと壁に叩きつけられ、ぐにゃりと形を変えてから、静かに動かなくなった。


「うへえ。どろっどろじゃん」


 リイナはフライパンをさっと布巾で拭いて、また歩き出す。


「茄子、三十本で足りるかな」


 呟きながら、市場に足を進めるリイナだった。




 *




 四日目。


 テオは、懲りずに勇者の剣を抜こうとしていた。

 リイナは、今日も「ちょっと待った!」と物陰から飛び出して阻止した。


「おはようございます。リイナさん」


「ええ、おはようございます、テオ様。で、まだ、諦めきれない感じですか?」


「ええ。連日に渡るリイナさんの話を聞いて、すごく納得はできたんですけど」


 テオは片手で頭を掻きながら、それでも剣の柄に添えた手は離さない。

 朝の柔らかな光が、純銀の刀身と彼の真っ直ぐな瞳を等しく照らしている。


(今日も朝からテオ様に会えて、いい一日になりそう)


 顔が緩みかけて、リイナは慌てて唇を結ぶ。

 未だ余談は許されない状況だからだ。


「もし俺が勇者になって、魔王を討伐して帰還できたら」


 テオがリイナを見つめる。

 その視線に熱が込められている気がして、リイナはどきりと心臓が脈を打つ。


「もっと大きな家に住めるかもしれないし、今より良い生活ができると思うんですよね」


「財政的な動機ですか」


 拍子抜けしたリイナは目を細める。


「駄目ですか」


「駄目ではないですが、いまいちその剣を抜く動機としては弱いですね」


「まだ、駄目ってことですね」


 テオは苦笑いをしながら、ようやく剣の柄から手を離してくれた。

 内心ほっとしながら、リイナは説明する。


「ええ。勇者の報酬は見かけほど良くありませんよ。王都の記録を調べたことがあるのですが、歴代の勇者への報償というのは一時的なものが多くて、定期的な収入という観点では、騎士団に勤め続けるほうが安定しています。だって、年金もしっかり出ますし」


「リイナさん、そんなものまで調べてるんですか」


「……まぁ、いろいろと業務の一環で」


「定食屋の看板娘が、勇者の報酬を調べる。ちょっと繋がりが見えません」


「……統計が好きなので」


 テオは笑いをこらえているような顔になった。


「怪しいな」


「怪しくありません」


「でも、リイナさんが俺のことを心配してくれてるのはわかります」


「お得意様ですから」


「お得意様の財産状況まで心配してくれるんですか? クジラの胃袋亭は」


「サービスの一環です」


「すごいサービスだ」


 テオはまた笑った。リイナも少し笑った。


 結局その日も、剣は抜かれることはなかった。

 ただ。帰り際、テオがふと立ち止まって言った。


「リイナさん」


「はい」


「昨日、市場近くの路地でスライムを仕留めたのって……」


 リイナは一瞬固まった。


(やだ、恥ずかしい)


 フライパンでスライムを一撃したなんて、お嫁に行けないレベルの怪力だと思われたに違いない。リイナは頬を引き攣らせ、必死に冷静を装う。


「見てたんですか」


「通りかかったんです。たまたま」


 テオは穏やかな顔で言った。


「そのフライパン、すごいですね。いや、リイナさんのフライパン捌きが見事と言うべきかな」


「父に昔から持たされてるので、慣れただけです。フライパンが優秀だったと言いますか、たまたまスライムの方が自滅したんです」


「そうですか」


 テオはそれ以上何も言わなかったが、何か考えているような目をしていた。


 *


 その日の夜。

 リイナは一人、閉店後の厨房で愛用のフライパンを磨き上げていた。


「……ふぅ。スライムが自滅しただなんて、我ながらよくあんな苦しい言い訳を思いついたものだわ」


 使い込まれた黒い表面に、自分の情けない顔がぼんやりと映っている。


 正直に言えば、物心ついた時から厨房に立ち、巨大な寸胴を運び、硬いカボチャを毎日何十個も割っていれば、並の男手より力はつく。けれど、好きな人の前では、重い籠を持ってもらって恐縮する可憐な町娘でいたかった。


「テオ様、変なふうに思ってないかな。『こいつ、スライムを叩き伏せる時、すごくいい笑顔してたな』とか思われてたら、もう立ち直れないんだけど……」


 リイナはフライパンを壁のフックに掛けると、窓の外を見上げた。王都の夜空には美しい月が浮かんでいる。


 ふと、昼間のテオの目を思い出す。

 何かを深く思案するような、どこか遠くを見ているような、あの瞳。


「……まさか、私がああやって魔物を倒せるなら、自分が勇者になって守らなくても大丈夫だなんて思ってないよね?」


 不安が胸をよぎる。

 リイナが必死に剣を抜かせないようにしているのは、彼が危険な目に遭うのが嫌だから。けれど、もし彼が「その辺の街娘でもこれだけ強いなら、俺がいなくても王都は安泰だ」と考えて、心置きなく魔王討伐の旅に出る決意を固めてしまったら、完全に逆効果だ。


「……明日も絶対に抜かせない。物理的にでも止めてやるんだから」


 リイナは磨いたばかりのフライパンを見つめ、自分に言い聞かせるように呟いた。




 *




 五日目。


 今日のテオは昨日よりもさらに気合が入っているようで、その端正な横顔には悲壮な決意さえ漂っている。


「……ふっ、ぬんっ!」


 テオが再び剣に手をかけ、ぐっと腰を落とす。昨日よりも激しく、岩が「ミシリ、ミシリ」と悲鳴を上げ始めた。純銀の刀身がまばゆい光を放ち、周囲の石畳がカタカタと震える。


(ああもう、しつこい! 勇者の剣も、そんなにテオ様に抜かれたいわけ!?)


 リイナは再び、脱兎のごとく物陰から飛び出した。


「テオ様! ストーーーップ!!」


「わっ、 びっくりした……」


 勢いよく詰め寄ったリイナに、テオは剣から手を離した。黄金の光がスッと収まり、静寂が戻る。テオはバツが悪そうに、自分の大きな手を見つめた。


「すみません。毎日説得してもらってるのに」


「いえ、散歩コースなだけですからお構いなく。でも、そろそろ諦めてはいかがでしょう?」


「実は、もし俺がこれを抜けば……伝説の勇者になれば、その……」


 テオは少し視線を泳がせ、耳の端を赤くしながら続けた。


「……誰に気兼ねすることもなく、好きな女性にプロポーズできるんじゃないかって」


「……は?」


 思考が一瞬フリーズした。


(プロポーズ? 好きな女性?)


 心臓が嫌な音を立てて跳ねる。


「……テオ様。まさか、どこかの国の姫君とか、癒し系の聖女なんかと、お近づきになりたいんですか?」


 前のめりになってたずねた時、広場の空気が一変した。


 石畳の隙間からどろりとした黒い霧が噴き出し、咆哮とともに巨大なシャドウハウンドが姿を現した。王都の結界を潜り抜けてきた、はぐれ魔物だ。


「リイナさん、下がって!」


 テオが即座に動く。腰の剣を抜き、リイナを背中に庇う。

 しかし、テオがリイナに気を取られた一瞬の隙を突き、シャドウハウンドの鋭い爪がその肩を掠った。


「くっ……!」


「テオ様!」


 テオが体勢を崩した隙に、シャドウハウンドが大きく口を開き、再び彼に飛びかかろうとしていた。


 テオの白いシャツが少し破れているのを視界に入れたリイナの頭に、一気に血がのぼる。


(私の推しに、何してくれてんのよ!!)


 考えるより先に、腰の相棒を引き抜く。

 リイナはテオの脇をすり抜け、弾丸のような速さで踏み込んだ。


「どきなさいよ、この駄犬!!」


 渾身の力で振り抜かれたフライパンが、シャドウハウンドの眉間にクリーンヒットする。


 ガチィィィン!!


 およそ調理器具から出てはいけない金属音が響き渡る。

 聖なる銀が含まれているわけでもない、ただの使い込まれた鉄の塊。だが、リイナが毎日「美味しくなれ」と振るい、数多の魔物を叩き伏せてきたその一撃には、勇者の剣にも負けない執念が宿っていた。


 シャドウハウンドは、鳴き声を上げる暇もなく霧散し、跡形もなく消え去った。


「…………え?」


 剣を構えたまま固まるテオ。

 リイナはハッと我に返り、手に持ったフライパンを背中に隠す。


「あ……今の、その、フライパンがたまたま、磁場的な何かで、こう、反発し合ったと言いますか……」


 リイナは引きつった笑顔を浮かべながら、じりじりと後ずさった。

 テオの瞳には、明らかに「とんでもないものを見てしまった」という驚愕と、妙に熱を帯びた光が混ざり合っている。


(やばいやばいやばい! 引かれた! 確実に引かれた!!)


 町娘がフライパン一つで、騎士ですら手こずる魔物を粉砕したのだ。しかも、その時の口調は「どきなさいよ、この駄犬!!」。もはや、クジラの胃袋亭で愛される清楚で無垢な看板娘の面影など、微塵も存在しなかった。


「リイナさん、君って……」


 テオが一歩踏み出す。その目は、何かを確信したようにリイナを見据えている。


「ひいいいっ! 違います! 今のは残像です! 私、本当はもっとか弱くて、カボチャ一個割るのにも三日三晩かかるタイプなんです!」


「いや、どう見ても一瞬で――」


「お、お得意様の身の安全は確認しましたので、私はこれにて失礼します! 今日のお弁当のハンバーグはサービスで目玉焼きを乗せときますから! それではっ!!」


「あ、待って! リイナさ――」


 テオの制止も聞かず、リイナはフライパンを抱えたまま、騎士団の訓練にも負けない猛烈なダッシュで広場を駆け抜けた。


(終わった……。私の淡い初恋。フライパンと一緒に火花散らして、まさに散り去ったわ……)


 リイナの背後では、「勇者の剣」が、朝日に照らされてどこか呆れたようにキラキラと輝いていた。




 *




 六日目。


 昨日テオの前で華麗なフライパン捌きを披露してしまったリイナは、昼間、騎士団にお弁当を届ける時も、テオの顔をまともに見ることができなかった。


「でも、もし今日抜いちゃったら……」


 結局のところ、居ても立っても居られなくなったリイナは、愛用のフライパンを腰から下げ、王都の広場に向かった。


 *


 朝の光に包まれた広場には、やはり彼がいた。

 勇者の剣の前に立ち、その柄を握り、今まさに引き抜こうとしていた。


「ちょっと待った!!」


 手慣れた感じで、リイナは物陰から飛び出す。

 するとテオは剣の柄から手を離し、リイナの顔を真っ直ぐ見た。


「リイナさん」


「はい」


「正直に言います」


「……はい」


「勇者として認められたら、君に結婚を申し込むつもりでいたんです」


 広場の噴水がさらさらと水音を立て、鳥が鳴いている音が響く。

 遠くで荷馬車が通り過ぎた音がして、リイナは我に返る。


「……え」


「だから、剣を抜きたかったんです。平民の、一介の騎士のままじゃ、心もとなくて」


 リイナは固まる。


「で、でも」


 ようやく声が出た。


「私はただの定食屋の娘ですよ? 勇者になんてならなくても、ぜんぜん、その……」


「それは」


 テオは照れくさそうに頬をかいた。


「以前『ふくろうのいっぷく亭』で同僚と飲んでる時、たまたまリイナさんのお父上も飲みにいらしてて」


「あー、父はあの店の常連ですから」


「その時、偶然聞いてしまって。お父上の友人の方が、『君の娘にいい縁談がある』と勧めていたんです。なんでも眼鏡屋の息子さんとか」


「ロイドのこと……でも彼は、ただの幼馴染ですし、そもそも彼には別に好きな子がいます」


 リイナはしっかりと訂正しておく。

 ロイドとは、もはや家族のような付き合いで、恋愛感情など微塵もない。


「……あ、そうだったんですか」


 テオは拍子抜けしたように、けれどどこか心底安心したように肩の力を抜いた。


「でも……」


 彼は再び真面目な表情になると、石に刺さった剣に視線を戻しながら告げた。


「その時、君のお父さんが言ったんです。『勇者の剣を抜けるくらい強い奴じゃないと、リイナは任せられん』って」


 リイナは、天を仰ぐ。


(お父さんの、バカぁぁぁ!!)


 リイナは心の中で、昨日シャドウハウンドを仕留めた時以上の勢いで叫んだ。


 妻を早くに亡くし男手一つで娘を育ててきたリイナの父は、娘をいつまでも自分の側に置くことを願うあまり、絶対に不可能な条件を突きつけていたらしい。

 なんせ、百年もの間、誰も抜くことができなかった剣である。それは実質的に「一生娘は嫁にはやらん」と宣言しているのと同じだった。


「テオ様、それは父の……その、たちの悪い冗談です! 本気にしちゃダメなやつです!」


 リイナは必死に手を振って否定した。だが、テオは真剣な眼差しを崩さない。


「いえ、俺は本気にしました。君を大切に育ててきたお父上の言葉ですから。……それに剣を抜けば、世界も救えるし、リイナさんのお父上にも認めてもらえるし、一石二鳥だと思って」


「テオ様」


「はい」


「確認ですが、もしかして私と結婚するために、世界を救おうとされていたんですか」


「……順番で言うと、そうなります」


 リイナはしばらく黙った。

 それから、小さな声で言った。


「たかだか定食屋の娘と結婚するために、大陸横断の旅に出ようとしないでください」


「たかだか、じゃないですよ」


 テオが静かに言った。


「俺がずっと好きだった人ですから」


 リイナの顔が、今日一番赤く染まる。


「……そのお話は、後でゆっくり伺います」


「後で?」


「今は剣を抜かないでください、という話をしています。話を逸らさないでください」


「逸らしてるのはリイナさんでは?」


「とにかく、抜かないでください!」


 嬉しさと恥ずかしさ。そして信じられない思いでいっぱいだったリイナは、二日連続でテオの前から逃げ去った。




 *




 七日目。


「昨日は、混乱して逃げちゃったけど、つまり私とテオ様は両想いだってことよね?」


 一晩寝てスッキリした頭で、フライパンを腰に携えたリイナは広場に向かう。

 約束したわけではない。けれど返事を待つテオがそこにいてくれる気がした。


「今日こそ、ちゃんと私も告白する。あぁ、今日の朝日はいつも以上に世界がキラキラしてる」


 浮かれた気分で、途中遭遇したスライムをフライパンで華麗に片付けて広場に向かうと、彼はいた。

 ただし、もう抜く必要がないはずなのに、テオは勇者の剣を引き抜こうとしている。


(なぜ!?)


 物陰に潜みつつ、リイナは手にしたフライパンを握りしめる。


 今日のテオは昨日よりもさらに気合が入っているようで、その端正な横顔には悲壮な決意さえ漂っている。


「……ふっ、ぬんっ!」


 テオが再び剣に手をかけ、ぐっと腰を落とす。昨日よりも激しく、岩が「ミシリ、ミシリ」と悲鳴を上げ始めた。


(ああもう! どうしてそこまで勇者になりたいのよ!!)


 リイナは再び、脱兎のごとく物陰から飛び出す。


「ちょっと待ったぁぁぁぁ!!」


「わっ、リイナさん!? 」


 勢いよく詰め寄ったリイナに、テオは驚きバランスを崩す。


「あっ、危ない!」


 前のめりに倒れそうになったテオを支えようと、リイナは反射的に手を伸ばした。しかし、勢いがつきすぎて自分までバランスを崩してしまう。


(やば、何か掴めるものを……)


 リイナは必死に右手を伸ばす。

 ガシリと掴んだのは、ちょうどそこにあったもの。


 岩に突き刺さった勇者の剣の柄だった。


 その瞬間。


 シュンッ、と、拍子抜けするほど軽い音がした。


「……え?」


 百年あまり、誰がどれほど力を込めても、一ミリたりとも動かなかった「勇者の剣」が、リイナの細い指先が触れた途端、まるでバターからナイフを引き抜くような滑らかさで、岩から抜け落ちた。


 リイナは剣を持ったまま、テオの胸に倒れ込むような形で飛び込む。


「うわっ……!?」


 テオがしっかりとリイナを受け止める。その腕の温かさを感じる余裕もないほど、リイナは自分の右手に伝わる奇妙な感触に戦慄していた。


 軽い。信じられないほどに。


(フライパンより、全然軽いんだけど!!)


 リイナの右手に収まった純銀の刀身から、広場全体を飲み込むほどのまばゆい黄金の光が溢れ出す。


「……リ、リイナさん?」


 テオの震える声。


「抜けた……? いや、抜いちゃった?」


 唖然とするリイナの右手には、抜けてはいけないはずの代物が、しっくりと収まっている。


「やっぱり……そんな気がしていたんです」


 テオが、どこか納得したような、慈しむような眼差しでリイナを見つめた。


「市場でスライムを一撃で仕留めた君のフライパン捌きを見た時、それからシャドウバウンドと対峙した時も。思ったんです。この国で一番強いのは、騎士団の誰でもなく、リイナさんなんじゃないかって。……君こそが、真の勇者だったんですね」


「ち、違います! これはただの事故で、私はただの看板娘です!」


 弾かれたように立ち上がる。


「何かの間違いだわ。まったく困っちゃう」


 リイナはそっと剣を岩に戻した。

 すると、岩の切れ目にきちんと剣が収まった。


 リイナは咳払いを一つして、振り返る。


「……見なかったことにしてください」


「できません」


 テオが被せぎみに即答した。


「私は、しがない定食屋の娘です」


「リイナさん」


 テオが一歩近づいた。その顔はいつになく真剣だった。


「君を危険な目に遭わせたくなくて、俺が勇者になろうと必死でしたが……剣は正直なようです」


 一拍置いて、テオが言った。


「あなたは勇者です」


「ちが――」


 リイナが拒もうとするよりも早く、テオの大きな手が彼女の右手を包み込み、再び銀色の柄へと導いた。


「いいですか、リイナさん。俺がどれだけ力を込めても動かなかったものが、君が触れた瞬間に抜けました」


「それは、その、たまたま岩の噛み合わせが緩んでただけで」


「百年あまり、一度も緩まなかった岩ですよ」


 テオが苦笑しながら、リイナの指を一本ずつ、吸い付くような柄の感触に馴染ませていく。

 その瞬間、岩の底から地鳴りのような低い振動が伝わり、再び目も眩むような黄金の光が溢れ出した。


 剣はリイナの手を待っていたと言わんばかりに、熱を帯びて輝いている。


「……あ」


 リイナが抵抗する間もなく、剣はシュルリと滑らかに岩を離れ、彼女の手で落ち着いた。その刀身には、リイナの困惑した顔と、彼女を見つめるテオの真っ直ぐな瞳が鮮明に映り込んでいる。


 広場に居合わせた人々がどよめき、拍手が沸き起こり、誰かが「勇者だ!」と叫んだ。


「なんだ、ほんとに抜いちゃったのかよ!!」


「毎日、寸劇の練習でもしてんのかと思ってたぜ」


「俺はてっきり、騎士様が新しい筋トレの限界に挑んでるんだとばかり……」


 野次馬たちの呑気な声が響く中、リイナは抜身の剣を抱えたまま、泣きそうになる。


「私が旅に出たら……」


 声が震えた。


「大陸を横断して、魔物と戦っている間に……」


 目の前が滲んだ。


「いやだ」


 ぽろぽろと涙が出てきた。


「やだやだやだ、なんで抜けちゃうのよ」


「リイナさん、落ち着いて」


 テオが困ったような、でも優しい顔でリイナを見つめる。


「泣かないでください」


「泣きます! 泣きますよ! だって私が呑気に魔王討伐している間に、テオ様が他の女性と結婚しちゃうかも知れないじゃないですか」


「しません」


「そんな保証ないじゃないですか!」


 テオは少し間を置いてから、静かに言った。


「リイナさん」


「なんですか」


「俺も一緒に行ってもいいですか?」


「……え、どこに?」


「旅に。君は勇者だけど、戦うのは俺が引き受けます」


「テオ様」


「君には食事係として付いてきて欲しい。パーティーには料理人枠が絶対に必要だと、昔の記録にも書いてあったはずです。リイナさん、調べてたでしょう」


「ええ。健康管理は、冒険の基本ですから」


 リイナは涙を拭いながら、震える声で答えた。


「旅の食事は、ただお腹を満たすだけじゃありません。過酷な環境で心を折らないための、唯一の癒やしだと。あとは食が満たされていないと勇者の帰還率も下がるって。そう書いてありました」


「だから、君がいないと魔王討伐の旅は成立しないんです」


 テオが優しく微笑む。


「君が勇者として選ばれたのは、もしかしたら力だけじゃないのかも知れない。君の作る料理のような温かさが討伐の旅には必要だという、神からのメッセージなのかもしれません。……でも、危険な前線に立つのは俺の仕事だ。君は俺のすぐ後ろで、美味しい献立のことだけ考えていてください」


「……テオ様」


「一緒に魔王を討伐しに行きませんか?」


 テオが手を差し伸べた。大きな手だった。弁当箱を小箱のように包んでしまう、リイナが憧れた手が今目の前に差し出されている。


 リイナはテオの手を見つめながら、剣をぎゅっと握り直す。


「私がこの剣を抜いたのは、世界を救うためじゃありません。テオ様を絶対に死なせないためです。だから行きます」


 きっぱり告げて、リイナはテオの手を取った。


 テオは驚いたように目を見開き、やがて、これ以上ないほど幸せそうに笑った。


「君の隣は、誰にも譲りません」


 二人の手が重なり、勇者の剣が祝福するように輝きを増す。


「……あの、帰ってきたら」


 リイナは俯きながら、小声で付け足した。


「昨日の『結婚』の話の続き、ちゃんとしてくださいね」


「もちろんです。その時は、王都中が嫉妬するくらい、大々的にお父上に真っ向から挑ませてもらいますよ」


 テオは少しだけ顎をきりっと引き、不敵な笑みを浮かべた。


「うちのお父さんは、手強いですよ?」


「はは、それは楽しみだ」


 テオの最高に幸せそうな笑い声が広場に響く。

 フライパンを腰に携え、勇者の剣を担いだ最強の看板娘と、彼女を命がけで守る決意をした騎士。


 広場の中央、主を失い空っぽになった岩の裂け目には、朝の光が穏やかに注いでいた。




 *




 旅は大変だった。


 道中、テオが聖女様に誘惑されるという事件があった。

「勇者様、私が癒やしてさしあげます」と、美しい聖女がテオにべったりするのを、リイナは鍋をかき混ぜながら「あらあら」と眺めた。

 眺めながら、その日の夕食のスープをうっかり二倍の量の塩で仕上げておいた。

 テオは「なんか今日のスープ、しょっぱい気がするけど」と苦笑いしていたけれど、聖女様は翌日から不思議とリイナに丁寧な態度をとるようになった。


 リイナ自身が魔物に攫われるという事件もあった。テオが血相を変えて単身で魔物の巣に乗り込み、リイナを救出した。帰り道、テオは「もう二度とこんな思いをしたくない」と言って、リイナの手をずっと離さなかった。

 実のところ、リイナは魔物を一人で討伐できた。けれどテオの前では、『くじらの胃袋亭』のか弱い看板娘でいたかったので、攫われたままでいたということは秘密だ。


 魔王は、倒せた。

 最後の戦いで、テオが魔王の剣を受けて倒れかけたとき、リイナがフライパンで魔王の杖を叩き折り、魔力の供給が断たれた魔王を、立ち上がったテオが仕留めた。


 案の定、魔王は土壇場で「もしわしの味方になれば、世界の半分を」と言ってきた。しかし、テオは全部を言わせず、「いりません」と即答して魔王にトドメを刺していた。

 リイナは「ほら言ったじゃないですか」と思ったが、感動的な場面なのでそこは黙っておいた。


 そして武器にもなるフライパンで、帰りの野営のスープを作ってみんなに振る舞った。




 *




 王都に鳴り響く凱旋の鐘の音は、あの朝、広場で聞いたものよりずっと晴れやかで、誇らしげだった。


 魔王討伐を果たした看板娘勇者と最強の騎士を筆頭に、この世界を守った勇者を一目見ようと、広場は足の踏み場もないほどの人だかりに包まれている。

 色とりどりの花びらが春の風に乗って舞い散る中、テオはゆっくりと歩みを止め、リイナの前に向き直る。


 喧騒が、潮が引くように静まり返った。


 テオは凛とした所作で、リイナの前に片膝をつく。

 背筋は真っ直ぐに伸び、かつて勇者の剣を前にして見せた決意は、今や一人の女性を一生守り抜くという揺るぎない確信に変わっている。


「リイナさん」


 テオが、彼女の右手をそっと取る。旅の途中でついた小さな傷跡や、フライパンを振り続けてきた逞しくも美しい指先を愛おしむように、彼は優しく微笑んだ。


「旅立つ前、約束しましたね。魔王を倒して帰還した暁には、真っ向から挨拶をさせていただくと」


 テオは視線を上げ、群衆の最前線で「抜かれないはずの剣を抜いた娘」と「それをそそのかした男」を、腕組みをして睨みつけているリイナの父親、クジラの胃袋亭の店主をしっかりと見据えた。


「お父上。 リイナさんは世界を救った勇者ですが、俺にとっては、この世で唯一、俺の胃袋と人生を預けられる女性です」


 広場にテオの堂々たる声が響き渡る。


「勇者の剣は彼女を選びましたが、彼女の隣に立つ騎士として、俺を選んでくれたのは彼女自身です。どうか、リイナさんと結婚させてください。生涯をかけて、彼女と……彼女の愛する『くじらの胃袋亭』のあるこの世界を守り抜くことを誓います」


 リイナは、フライパンの代わりに持っていた勇者の剣を思わず落としそうになりながら、真っ赤な顔で立ち尽くす。


「テ、テオ様! 王都中が嫉妬するくらい大々的にって、本当にやる人がありますか!?」


「言ったでしょう。俺は騎士ですから、約束は違えません」


 テオはリイナの手を握り直し、今度は彼女だけに向けて、自信に満ちた口元に、どこか子供じみた悪戯心を滲ませた。


「さあ、勇者様。お返事を聞かせていただけますか?」


 降り注ぐ花びらの中で、リイナは涙を堪えながら、満面の笑みで大きく頷く。


「……はい。 テオ様のお嫁さんになります。でも、今日の日記には、ちゃんと『世界で一番幸せな勇者と騎士になった』って書いてもらうことが条件です」


「ええ、必ず」


 テオが答え、リイナの手の甲に誓いのキスが落とされた。その瞬間、広場は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。


 人々の温かい祝福の雰囲気と声に、リイナの目はまたもやじわじわと潤んでしまう。


「まったく。テオ様が剣なんて抜こうとしたから、散々な目にあったじゃないですか。そんなことしなくても私は好きだったのに」


「知ってます」


「え、知ってたんですか」


「リイナさんは、広場に毎日来てくれてたから」


「……それは、剣を抜かせないためであって、好きとはまた違うって言うか」


「本当に?」


 リイナは黙って、テオが笑った。


「リイナさん、帰って来れましたね」


「ええ、無事に二人揃って」


 リイナもようやく笑う。


 腰に下げたフライパンが、春の日差しを受けてぴかりと光った。



 *



 後日、クジラの胃袋亭の主人は「勇者の剣を抜けるくらい強い奴じゃないと」と言った手前、渋々テオを婿に迎えることにした。

 ただし、「娘を死ぬまで悲しませないこと」「仕事に励むこと」「娘と俺の飯を一番うまいと言い続けること」という三つの条件が付いた。


 テオはすべての条件を承諾した。


 ちなみに、魔王を倒してから数年後、どこかの王国に「王様、た、た、大変です!」という報告が届いたという話もあるが、それはまた別の勇者の話である。




 ―おしまい―

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