偶然とは、必然の上に成り立つ (4)
香りはあの一瞬だけ、だった。
だから仕事をこなしている内に悠人は先ほどの客について考えることを止めていて、気にする暇もなくなっていた。
店の閉店時間は23時半。そのあとに片付けなどをして悠人が上がるのは24時頃、日付の変わる頃になる。
いつも仕事が終わると食事をとる。大体はキッチンが作ってくれた賄いを持って帰るか、その場で食べて帰るようにしている。
今日はどうしようかと、明日が休みなこともあって考えながらグラスを拭いていた時だった。
「すみませーん」
「はい、伺います」
声がした方を見ると、そこには先ほどの二人客がいる席だった。
手を上げたのは、あの香りがした男ではなかった。
もう一人のよく通る声を上げた男は、悠人が近づいてくるまでこちらをじっと見ていた。
何かやらかしただろうか。
少しだけ不安に思いながら、一応伝票を手に歩いて行く。
しかし特に何があった、というわけでもないようで二人は追加のフードメニューを注文した。
「では、確認いたします」
上から言われた通りの順番で復唱している間、二人のじっとこちらを見る視線がむず痒くなる。
「で、よろしいですか?」
悠人は最後まで読み上げたところで視線を上げて言った。
あの香りがほのかに鼻孔をくすぐると同時に双眸が向けられていて、思わずドキリとする。
男と目があった。
ほんの一瞬、息を止めた。
その僅かに言葉が紡げなかった瞬間を待っていたかのように、男は口を開いた。
「俺のコト、覚えてない?」
「……は?」
思わず素で声を上げると、同席していた男の方が肩を震わせて笑い始める、同時に手を振りながら言った。
「まてって、それじゃ変なナンパにしか聞こえねーよ。ゴメンね、お兄さん」
「お兄さんじゃなくて、悠人な」
視線を悠人から逸らして男が言う。
「え、なんで俺の名前……」
思わず悠人が声にすると、再び視線が戻ってくる。
この店では名札のようなものはない。だからどうやって悠人という名を知ったのかさっぱり分からなかった。
大きな瞳。少し細められた瞳。
自分を見つめる時そうやって時折細める癖を、どこかで見たことがある気がする。
悠人はどうすればいいのか分からず動けないでいた。言葉を探すにも、どう言えば良いのか分からない。
だが先に助け船を出したのは、やはり連れの男の方だった。
「こいつ、純一ってーの。六條純一。覚えてない?」
「覚えて、ないっ……て」
そんな名を聞いたことがあるだろうか。
と、記憶を辿ろうとしたところで一気にその答えに行き着いて、悠人は大声を上げそうになったのを飲み込んで、手にしていたペンをぶんぶんと上下に振った。
「……あ! むつ?」
「そう!」
「むつって呼ばれてたの?」
「あ、っと……と、とりあえず、オーダー、通して、きます」
慌てて仕事のモードに切り換え直そうとして、悠人は片言で話して立ち去った。
無意識に止めていた息を再開して、驚きを飲み込んでカウンターへと戻る。
冬真は悠人を見ると、先ほどまで居たテーブルの方をチラリとみた。
「なんか言われたぁ?」
「いや……あの、昔の、知り合いで……」
「へぇ?」
食事のオーダーをキッチンに向かって伝えると、悠人はドリンクのオーダーに取りかかる。
首を左右に軽く振りながら、信じられないと小さく呟いた。