変わりゆく日常(10)
「六條さんは不感症、って言ってた」
「……香瑠のやつか」
舌打ちをした純一に悠人は笑った。
ペットボトルの水を飲み干すと、新しいのを冷蔵庫から純一は取って来てくれた。
そんな予備があっただろうかと聞けば、薬を飲んで眠りについた頃に、まるで見計らったように冬真が持って来てくれたのだと教えてくれた。
あの薬はかなり強力な分、水分補給は多すぎると思う程しろ、と言っていたとも教えられた。
「でもあの人が俺の匂いに気づいてくれたよ。早く帰った方が良いって、教えてくれたのもあの人。」
「それで帰って、俺の連絡したってことか」
「そう。でもこれは薬じゃ治まらないって言われて、その時言われたよ」
「何を? 何か変なこと吹き込んでたんなら、今度しばくけど」
軽く笑って悠人は違うと首を横に振った。
「俺に、αの匂いに気づいたことあるかって聞いたんだ。少しでもイイ匂いだとか、気になるとか、そういう匂い。でも考えたら俺、そういうのないんだよ。ずっと、匂いを感じたのって、あの時だけで……」
再び視線を純一に向ける。
心配そうに見つめていた純一の瞳は、ほんの僅かに熱が籠もっているようにみえる。
彼も無理をしている。我慢をしている。
それは薬で抑えられるようなものではない。だが、さっきまで言葉にしていたように、今はまだ我慢しようと必死に抗っている。
「お前が店に現われた時からは、またずっとその匂いはしてる。それで気づいたっていうか、気づかされたんだ。俺はお前の匂いしか知らない。俺にとってαは……お前しかいない。だから……」
そう言って悠人は純一の手を取り、自分の頬に宛がった。
手の平に唇を寄せて、もう一度小さく呟く。
「我慢しなくていいよ」
「……俺はさ、何度も何度も興味も無いΩに言い寄られて……その度に本当Ωっていう性を嫌いになった。同時にαっていうのも嫌いになった。そんなもんがなかったらって」
悠人の頬に触れた指先が、頬を撫でた。
「Ωに興味ないっていっても、強がりって笑われて、無駄に誘惑されて。信じてくれない人もいて。でもお陰で慎二とは仲良くなれたとも言える。香瑠を助けたとき……ホント、笑われたけど。でも、それだけただ一人だけが欲しいって思うのは、本当に運命ってやつなんだろうって言われて」
αだから、Ωだから、という第二性に振り回されるのは自分達だけではないだろう。
多くの第二性を持つものが、その性に振り回されて生きている。
でも受け入れて生きていくしかない。
それでも自分達は運命で結びついているのならば、幸福なことなのだろう。
「だから、今、超うれしい」
「うん」
「落ち着いたらやっぱなしとか、止めてよ? そういうこと言いそうだから悠人」
「言わないよ。もう、言えない」
「言えない?」
頷いて悠人は続けた。
「お前には俺なんかより、もっと良いヤツがいるって思ってたし、お前が努力してここまできて、俺を見つけるまでしてくれて……そこまでしてるのに、俺が自分の気持ち認めなかったら、お前の頑張りも認めてないみたいじゃない?」
純一の手に沿えていた手を、彼の頬へと伸ばして触れた。
輪郭を撫でる。その指に触れるのは、子どものころとは違う、大人になった姿形だ。
「お前の頑張りを認めるには、俺はお前を好きだって認めないといけない。それに……俺だって会えて嬉しかった。好きだって言って貰えて嬉しかった。それは嘘じゃないから……だから、もう逃げないよ、俺も」
「悠人」
色濃く揺らめく黒曜石が二つ、愛おしげに見つめていた。
その瞳は自分だけのものだと悠人は自惚れる。
自惚れても許されると、自分達を苦しめる第二性が証明する。
甘い季節外れのキンモクセイの香りに包まれながら、二人は口づけを交わした。




