昔の話、今の話。(3)
純一の一言をきっかけに、悠人は何も言えなくなっていた。
頭の中では様々な自問自答、言葉が湧いては消えていく。
目的階に着いたことを知らせる電子のベル音が鳴り、開いたドアから純一が一歩先に出た。
振り返り、まだ一歩を踏み出せない悠人の手を掴むと引っ張りドアから外へと連れ出した。
逃げる気はない。話を聞かなくていけない。
そう分かっていても、まだ、純一が口にした言葉の意味を理解できないでいる。
それは彼が話をすれば分かることだろうし、そうなれば自分の気持ちは成就されることを悠人は知っている。
だがしかし。
「こっち」
フロアを歩く。人のいない数戸のドアを通り過ぎ角部屋が純一の部屋だった。
一歩一歩、引っ張られる様にして歩きながら、悠人は何か言わなくてはと考える。
だがどうしても、匂いが思考を邪魔している。
ちゃぷちゃぷとペットボトルに残った水が音を立てる。
「なぁ……、ッ、むつ」
昔の呼び名を口にした。
しかし、歩みを止める事なく部屋の前までたどり着くと、鍵を開けて中へと入る。
「なぁ、むつ!」
部屋に入ったと同時。
ドアが閉まる音と同時に強く抱きしめられる。
甘い香りが心地よく、身体を突き放そうという発想は一切なかった。
「ずっと会いたかったし、ずっとこうしたかった」
「あ……」
「でも分かってる……悠人は何もかも簡単にイイとは言ってくれないことぐらい」
「なぁ……むつ、お前……その、α、なんだよな?」
「うん。そうだよ」
「いつ……わかった?」
「悠人が卒業して、上京するちょっと前」
立ち尽くしたまま、悠人は両手を下げたまま、為す術もなく抱きしめられていた。
純一は強く抱きしめ、その指先の力を強くしている。
「なぁ……話を、しよう。それで……多分、そう」
悠人は小さく囁く。
「お前の好きは違うって……証明するから」
「違う? 違うって、どういう意味?」
小さく低く耳元で声が響く。
悠人はピクリと身体を震わせ、息を止める。
身体にじくりと甘い痺れが広がる。
口の中に溜まった唾液を飲み込む。
目を閉じて、言葉を探す。
「俺は、お前があの時……俺が、始めて、意図せずヒートになったときにいただろ?」
勉強を教えて、その後遊ぶ約束をしていた夏休みのあの日。
「あれで、お前は多分勘違いをしたんだ」
どうしても欲しかった。
目の前にいる彼が欲しい。
「あの時俺は……お前を、お前として認識できてなくて」
目の前にいる人間はαだと直感で分かった。
匂いがした。
αの匂い。
まだそれは微かなものだったが、Ωの本能として分かった。
「ただ、目の前にいるαだろう人間が欲しかっただけなんだ」
驚愕の瞳。
己の甘ったるく卑しい声。
忘れたくて、消したくても消せない。自らの第二性を自覚した日の記憶。
それはキンモクセイの香りと共に、まだ幼かった純一の姿が焼き付いている。
「でも悠人は、俺だって分かったから、ああしたんだろ?」
「そう……ギリギリ、理解出来たから。でも、俺は別に……お前じゃなくても誰でも良かったんだ。あの時の匂いが、多分、お前にもただすり込まれたようなもので」
そう言いながらも言葉尻は消えていく。
純一は小さくため息を吐いて、身体を少し離した。
「中で話そう」
その言葉に少し迷いが生じたものの、この場を逃せば話をする機会は永遠に失われるかもしれない。
それに今しか彼の想いを変えることはできないと悠人は考えて頷いた。
確かに、自分は純一のことが好きだろう。
だがそれがどういう性質のものか、未だに正直分からないでいる。
だが自分が純一に相応しいとは到底思えなかった。
相手の性が何であろうと、もっと似合う見た目の、性格の、誰かがいるはずだ。
それは大人になった純一を見て、驚いた時に思ったことだ。
自分の想いは殺した方が、彼の為にもいいと。
似合わない。
相応しくない。
あの時、まだαであることも診断されていない彼に手を伸そうとした自分なんて、相応しくなんかない。




