プロローグ
太陽の光はカーテンで遮られていて、部屋の中は薄暗かった。
カーテンを開ける余裕もなかったし、開けたいとも思わなかった。
こんな痴態を白昼から晒しているのだから、誰かに見られるわけでなくとも、外界とは遮断したかったのだ。
まるで身体が溶けてしまいそうだった。
むず痒いような、けれども痛みに似た疼きが身体を押そう。
久しぶりに感じるヒートの症状に、小山悠人は熱い息を漏らして耐えていた。
これほどに強烈なものだっただろうか。
記憶をたぐり寄せながら、実際には手元のシャツを強く握りしめて顔を埋めて息を吸う。
ソファに身を沈めながら思わず小さな声が漏れた。
それはたった一言だけなのに、濡れ、媚びたもので思わず苦笑いを浮かべる。
たった少しの残り香に身体は反応し、じくじくと熱を生み出す。
今までと同じように、欲に抗おうと必死に耐える。
だが本当の意味で襲ってくる欲望に抗える術はない。
今までの欲望は抑え込まれていた。
だからこそ、今、耐えることは出来ない。
気を紛らわすように、再びシャツに残る匂いを嗅いでソファに体を横たえた。
ローテーブルに置かれたスマホへと視線を向けた。
スリープ画面になっていたが、少し震える手を伸ばして掴み、タップする。
すると先ほどまで表示されていたメッセージアプリの画面が表示される。
最後にメッセージを送ったのは悠人だった。
それに対して、既読の文字は表示されているが返信はきていない。
今、彼は何をしているのか。これを読んでどうしたのか。
何か一言ぐらいくれた方がよかった。その方がまだ、この熱に浮かされる時間をやり過ごすのになんとか気力が持ちそうな気がした。
でもそんな一言よりも、声が聞きたかった。
だがそうすると、多分、自分は我慢ができなくなる。
「あー……くそぉ」
スマホを床に落とした。拾う気力もなくて、そのままにする。
ラグマットによって音は吸収されて、スマホは画面を黒く塗りつぶし、沈んだ。
早く帰ってきてほしい。
元々、その想いを伝えられるほど悠人は素直でもない。
それに今、余裕というものが一切なかった。
ラグマットに落ちたスマホを拾い上げ、メッセージを送ることもできやしないでいる。
音がした。
その音は近くでして、その時。初めて人の気配があることに気がついた。
「悠人」
声がした。
聞き慣れた低い声は、情欲に濡れた声だと気づき身体が疼く。
顔を上げるには体制的にキツくて、悠人は少しだけ横を向くようにしてローテーブルを見つめた。それでもまだ声の主の姿は見えない。
もう少しだけ顔を後ろに向ける。すると、そこには待ちわびていた人が立っていた。
「おせぇよ……ばか」
いつものように減らず口を叩く。
だが声は甘く蕩けていて、ねだるように語彙は消えていく。
ごくりと唾液を飲み込んで、悠人は名前を口にした。
「純一、なぁ、はやく……」
見下ろす双眸が薄暗い昼下がりの部屋で怪しく光るのが見えた。
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、じっと悠人を見つめている。その様子は知らぬ人が目にすれば理性的な姿に見えるかもしれない。
だが全く正反対で、己の中で猛り狂う情欲を必死に抑えていることを悠人は知っていた。
瞳はその片鱗を覗かせている。
雄であり、αであるが故に、目の前にいるヒートのΩを自分の所有するモノとして理性的に見ていられるハズがない。
小さく笑った。
精一杯の笑みを浮かべる。
「はやく……噛んでよ」
「本当に、いいの?」
「今さら……聞く? もう、決めたし。それに……、俺は良いって、言った」
そうやって言葉を紡ぐのも悠人は辛かった。
「なぁ、もう無理……」
無理矢理、身体を起こして悠人はソファに座り直した。ずっと匂いを嗅いでいたシャツが落ちて、思わず名残惜しげにそちらを向いた。
気だるげにシャツを掴んで匂いを嗅ぐ。
目を閉じ、そして開けた時には純一を見上げてた。
「それ、俺のシャツ。ずっと匂い嗅いでたの?」
「うん」
「なんで?」
純一は口の端を上げて言うと悠人の頬に触れた。
短く切りそろえられ整えられた爪は細く長い指にぴったりだ。
悠人はその指が好きだった。
自分よりもすこし大きな手と長い指が肌に触れ、撫でられるのが好きだった。まるで子どものようだと思うので、素直に口にしたことはない。
それでもヒートである今の悠人は、その気持ちを無意識に示してしまう。
縋るように頬を自ら寄せて純一の手に自分の手を合せる。
「わかれよ……ばか」
理性は殆どとけていた。
だが、自分の意志で、自分が決めた願いを、悠人は口にする。
「はやく……噛んで」
純一は息を飲んだ。
そして、言葉に応えるよう、ゆっくりと悠人に口づけた。
「長かった、ここまで……」
吐息混じりの純一の言葉に悠人は目を蕩けさせてじっと見つめていた。
「だから、覚悟して」