9 呪いの連鎖
朝。私が目覚めたのは、いつもの自宅のベッドではなかった。ひんやりとした硬い床の感触。薄暗い光の中に、見慣れたはずの、しかしどこか異質な教室が広がっていた。全身が、鉛のように重い。
周囲を見渡すと、クラスの全員がそこにいた。いや、全員ではない。“異界送り”に選ばれた生徒たちの席だけが、ぽっかりと空いていた。その空席が、彼らの存在が完全に消え去ったことを、冷酷に物語っていた。
だが、担任教師の瀬戸山は、戻っていた。彼の顔に、あの不気味な仮面はもうなかった。顔色は相変わらず土気色で、目の下の隈も深いままだったが、彼の瞳には、以前のような虚ろな光ではなく、微かな生気が宿っていた。
「みんな心配かけたね。少し体調を崩していて、今日からまた授業を再開します」
彼の声は、掠れてはいたが、紛れもなく、私たちが知る瀬戸山先生の声だった。
クラスの空気は、今までとはまったく違っていた。誰もが、口には出さないが、互いの目には、あの夜の記憶が確かに刻まれていた。共通の地獄を潜り抜けてきた者たちだけが持つ、特別な、しかし重苦しい絆が、そこにはあった。“何か”が終わり、“何か”が、決定的に私たちの中に残されたのだ。
私たちが経験した恐怖は、決して忘れられるものではない。それは、心の奥底に、深く、暗い影として、一生付きまとうだろう。
放課後、私は、無意識のうちに非常階段の手前で立ち止まっていた。
人影はどこにもない。ただ、窓の外から吹き込む柔らかな風が、私の頬を優しく撫でていく。
ふと、耳元で、誰かが囁くような声がした。
「ありがとう」
振り返っても、そこには誰もいない。しかし、私は確かに感じた。緒川美琴の、あの悲しい魂が、ようやく解放されたのだと。異界送りは、本当に終わったのだと……。
心に、温かい光が差し込むのを感じた。
***
やわらかな春風が、校庭の桜が散った木を、名残惜しそうに揺らしている。淡いピンクの花びらが、風に乗って舞い上がり、私の中嶋凛は、その光景を静かに見上げていた。
あの悪夢のような日々から、数年の月日が流れた。私は、県内でも小規模な、しかし歴史あるこの高校に、教師として赴任してきた。教育実習を経て、ようやく掴んだ、憧れの場所だった。
初めて受け持つクラスは1年C組。真新しい制服に身を包んだ生徒たちは、まだ幼さを残し、しかし、それぞれが漠然とした不安や、未来への期待を胸に、新しい高校生活を始めようとしていた。その希望に満ちた瞳を見つめ、私は教師として、彼らを導き、守り抜く。そう、心に深く誓った。
……たとえ、どんな過去が私に暗い影を落とそうとも。あの夜の記憶が、心の奥底で、決して癒えることのない傷として残っていようとも。
ある朝、ホームルームのため、慣れた足取りで教室へ向かうと、ふと、違和感に気づいた。空席がひとつ、ふたつ。
まだ4月。新学期が始まったばかりだ。欠席生徒が数人いるのは珍しいことではない。環境の変化に慣れず、体調を崩す生徒も多いだろう。
だが、その日は、4人も休んでいた。
出席簿を手に取り、生徒の名前を確認しながら、ふと背筋に、冷たい寒気が走った。
(1年C組……欠席4人……)
無意識のうちに、ある記憶が鮮明に蘇る。それは、私がかつて生徒だった頃の、あの地獄のような夜。あの“異界送り”の儀式。そして、黒い霧に包まれ、無残に消えていった、クラスメイトたちの姿。いや、考えすぎだ。ただの偶然だ。そう自分に必死に言い聞かせ、私は震える手でチョークを握り、無理やり平静を装いながら、授業を始めた。
だが、生徒たちの表情も、どこかぎこちなかった。囁き声が、教室内を微かに漂う。
「愛ちゃん、なんか変なこと言ってたんだよ」
私は耳を澄ませた。
「夜中に教室に集められたとか、誰かに投票されたとか」
その言葉が、私の脳髄を直接揺さぶった。私は、思わず手にしていたチョークを、ガシャン、と音を立てて床に落とした。白い粉が舞い上がり、私の心臓の鼓動が、激しく、不規則に打ち鳴らされる。
その夜、私は遅くまで職員室に残り、教材の資料をまとめるふりをしていた。実際には、私の思考は、生徒たちの囁きによって呼び覚まされた、あの悪夢で満たされていた。校内は静まり返り、廊下には人影一つない。電灯の灯りも心なしか弱々しく、廊下の奥は深い闇に沈んでいる。
時計が、カチカチと乾いた音を立てながら、午前1時を指した、その時。
……カツン。
廊下の奥から、明確な、誰かの足音が聞こえた。それは、革靴のヒールが床を打つような、乾いた音だった。私は思わず立ち上がり、職員室のドアをそっと開け、廊下を覗くが、そこには誰もいない。
ただ、どこからか……、まるで遠くから聞こえる反響音のように、「五人選びなさい」とかすれた声が、私の鼓膜を震わせた。
次の瞬間、振り返った私の目の前に、あの仮面の教師が立っていた。
いや、違う。その仮面は、あの瀬戸山教師がつけていたものと同じだ。しかし、その仮面の奥に映る顔は……私自身だった。
「やめて!」
私の叫ぶ声が、自分でも震えているのがわかる。心臓が、喉元までせり上がってくる。
仮面の凛は、私の絶望を嘲笑うかのように、ただ微笑んでいた。あの地獄の夜に、瀬戸山教師が見せていた、あの無感情で、しかし底知れぬ悪意に満ちた笑みで。
そして、仮面の凛は、私の魂に直接語りかけるかのように、囁いた。
「あなたは、もう、逃げられない」
その瞬間、私の意識は、抗う術もなく、漆黒の闇へと引き摺り込まれた。
気がつくと、私は見覚えのある、しかし冷え切った教室に立っていた。
制服姿の生徒たちが、恐怖に顔を引きつらせ、怯え、震えながらこちらを見ている。彼らの瞳は、絶望に染まっていた。
そして、私の手には、あの夜、瀬戸山教師が持っていたのと同じ、冷たいタブレットが握られていた。その画面には、私のクラスの生徒の名前がずらりと並び、「五人を選択してください」と、無機質なメッセージが、血のように赤く点滅している。
違う、私は教師だ。生徒を守る側だ。私が、こんなことをするはずがない。そう頭では理解しているのに、私の手は、意思に反して、震え始めている。思考は霞み、目の前の生徒たちの顔が、憎むべき敵のように、歪んで見えてくる。そして、心の奥底から、抗いがたい、選ばせろと命じる声が、私を支配しようとしていた。
(やめろ、私がこんなこと……)
脳が拒絶しているのに、喉は勝手に開いていた。そして、私の唇から、あの冷酷な、無機質な言葉が、響き渡った。
「五人選びなさい」
私が選び、そして選ばれた生徒たちは、絶叫し、涙を流し、黒い霧に包まれて、一人、また一人と、教室から消えていった。
私はただ、仮面の下で、その光景を、凍りついた感情で、見ているしかなかった。私は、もう、救う側ではなかった。
呪いは、終わっていなかった。それは形を変え、私自身を巻き込み、永遠に続いていくのだ。
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