6 第三夜、そして呪いの根源へ
その夜、三度私たちは、あの冷たく、不吉な教室に召喚された。
もはや、昨夜までのような絶叫や、狂乱の悲鳴は少ない。代わりに、教室には重苦しい静寂と、深淵な諦めが満ちている。皆、心の底から理解しているのだ。この“儀式”が、紛れもない現実として、否応なく繰り広げられていることを。
誰かが、掠れた声で「投票なんておかしい」と叫んだ。それは、正気を保とうとする最後の抵抗のようにも聞こえたが、そんな言葉は、麗華たち“選ぶ側”には何の関係もなかった。彼らの表情は、すでに人間的な感情を失い、ただ効率的に次の生け贄を選び出すことに集中しているかのようだった。
そして、現実世界では姿を消していたはずの担任、仮面の教師瀬戸山が、そこにいた。その姿は、昨日よりもさらに生気がなく、まるで古びた剥製のように、ただ教壇に立っている。
「五人選びなさい」
仮面教師の無機質な声が、凍てつく教室に、乾いた音を立てて響き渡る。その声は、私たちの精神を直接、蝕むかのようだった。
“選ばれる側”の一般生徒たちは、顔を蒼白にさせ、目に涙を浮かべながらも、自分が選ばれぬよう、震えるように祈っていた。彼女らの視線は、恐怖と絶望に満ち、そして、僅かな希望を、麗華たちの顔に探している。
“選ばれる側”と“選ぶ側”。その境界線は、もはや鉄の壁のようにハッキリと濃く、深く、クラスに決定的な亀裂を生んでいた。人間の尊厳が、こんなにも容易く踏みにじられる空間で、私たちは、互いを食い物にする獣と化していた。
今回、選ぶ側の麗華たちが決めたのは……。麗華の指が、タブレットの画面上を、まるで昆虫を潰すかのように、無感情に滑っていく。チェックが入るたびに、教室の空気が、さらに重くなる。仮面教師が、その無感情な声で、選ばれた者の名前を読み上げる。
「2番、石田綾乃」
「5番、岡本陽菜」
「12番、佐々木唯」
「20番、林真由美」
読み上げられたのは、クラスヒエラルキー第五層、すなわち“透明人間”と蔑まれてきた四人の名前だった。彼らは、普段から誰からも顧みられることのない存在だった。その顔には、驚きと、そして、まるで存在を認識されたことへの、奇妙な諦めが混じり合っていた。
そして、最後の一人。
「3番、伊藤梓」
第三層の“一般生徒”から、伊藤梓が選ばれた。その名は、私たち「一般生徒」に、最早、安全地帯などどこにもないことを、明確に告げていた。
「透明人間の事すっかり忘れてたよ、ほんとこんな時も透明人間だから全く気づかなかったよ。今回選んでやったから感謝しなよ」
麗華の右腕である黒崎葵が、冷笑を浮かべながら、透明人間の四人に向かって吐き捨てた。その言葉は、彼らの存在を嘲笑い、そして選ばれること自体を「恩恵」であるかのように歪曲させる、底知れぬ悪意に満ちていた。絶対女王によって決められたことは、最早、神託のように絶対であり、変えることなど不可能だった。
「伊藤はおまけだ、行ってきな。中嶋みたいに戻ってくればいいだけ」
白石優香や緑川紗良といった侍女たちが、伊藤に向かって囃し立てる。その声は、私に対するあからさまな皮肉と、そして、次に選ばれるのはお前かもしれない、という無言の脅迫だった。彼らの顔は、もはや人間的な良心を失い、ただ目の前の犠牲者を突き放すことしか考えていない。
そして、選ばれた五人――石田綾乃、岡本陽菜、佐々木唯、林真由美、そして伊藤梓――は、足元から、あの漆黒の、全てを飲み込む霧に包まれ始めた。彼らの身体が、粘液に塗れたかのようにゆらゆらと歪み、叫びも、苦痛の表情も、全てを飲み込まれながら、あっという間に教室から消え去った。その場には、彼らがいたことの、儚い残滓と、微かな腐敗臭だけが残された。
私は今回、選ばれなかった。その事実に、全身の緊張が一気に弛緩し、体全体に、まるで鉛のような疲労が押し寄せた。心臓が、痛いほど鼓動している。
そして、次に気がつくと、私は自宅のベッドの上で、柔らかな朝日を浴びていた。選ばれれば異界に送られ、想像を絶する長い長い一夜を過ごすことになる。だが、選ばれなかった時は、こうして、何事もなかったかのように、気がつくと次の日の朝になっているのだ。
私はまだ、この平穏な日常を謳歌できる。その事実が、私の心を微かに慰めた。私は足早に階段を降りると、朝食の席についた。
「お母さん、おはよう!お腹ぺっこぺこだよ」
私は、努めて明るい声を出した。その声は、昨夜の惨劇を、必死に打ち消そうとしているかのようだった。
「はいはい、今日はやけに機嫌が良いのね」
母は、優しい笑顔で私の髪を撫でた。
「いつもと同じだよ。あ、ヨーグルトも出してね」
こんがりと焼けたトーストに、バターをたっぷりと塗って口に運ぶ。サクサクと軽い歯ごたえ、じゅわっと広がるバターの風味。うわ、サクサクふわふわで美味しい。このささやかな幸せが、私を現実へと引き戻す。
「お父さんのトーストにはタバスコでもかけとく?」
悪戯っぽく父に声をかける。
「お父さんでもトーストにタバスコはかけないでしょ」
母が呆れたように笑う。
「なになに、何の話してるの?」
ネクタイを絞めながら、いつものように陽気な父がリビングに入ってきた。
「お父さんならトーストにタバスコでも美味しく食べるんじゃないかなって話」
「うまそうじゃないか、タバスコはたっぷりかけてね」
父は、本当に嬉しそうにそう言った。
「お母さん、やっぱりお父さんは味音痴だよ……」
家族の、温かい、そして他愛もない会話。もう二度と来ないかもしれない、この平穏な朝を、私は噛みしめるようにたっぷりと過ごしてから、学校へ向かうことにした。この日常が、いつ崩壊してもおかしくないという、張り詰めた恐怖を抱えながら。
昨日送られた五人がどうなったのか。その答えは、教室に入ればすぐにわかる。助かる方法は、一応クラスのみんなには伝えている。あの闇の中で朝まで逃げ切る事。その為には、どんな状況でも冷静さを失わない事。パニックになれば、終わりだ。昨夜の、結衣と杏の末路が、私の脳裏に焼き付いている。
そして教室に入ると、私の予感は、残酷な現実として突きつけられた。
机に置かれた花瓶の数が、なんと14個に増えていたのだ。
すなわち、昨夜送られた五人もまた、全滅したという事。彼らは、誰も生きては戻れなかった。
クラスメイトの数は、25人から14人を失い、残った生徒の数は半分近くにまで減っていた。教室全体が、まるで、底なし沼に沈んでいくかのような、重苦しい空気に支配されている。
それでも学校側は、「学級閉鎖」や「感染症流行」など、ありきたりな理由でこの異様な事態を誤魔化そうとしていた。だが、もう隠しきれない。生徒たちの間では、明らかに異界送りの噂が、真実として広まっていた。教師たちも、以前の覇気はなく、ただ無言で私たちを見ているだけだった。
その日、私は、この不可解な現象の根源を調べようと、決意を固めた。
放課後、人目を避けるように図書館のパソコンルームへ向かい、震える指で検索窓に次々とワードを打ち込んでいく。
「異界送り 真相」「異界送り 実話」「廃校 事件 行方不明」
そして、いくつもの無関係な情報の中から、一つの投稿が、私の目に飛び込んできた。それは、私の心を凍りつかせ、全身から血の気が引くような内容だった。
《10年前、東北地方の某女子校でクラス全員行方不明事件。最初の行方不明者は、校内でいじめに遭っていた一人の生徒だった。「全員連れて行ってやる」そう書かれた遺書が、机の上に残されていた。》
ゾッとした。冷たい汗が、背筋を伝い落ちる。そして、その投稿に添付されていた、当時の学校の画像を見た瞬間、私は息を呑んだ。脳裏に焼き付いた、あの異界の風景と、完全に一致していたからだ。そこは、私たちが“送られている”異界の学校に、あまりにも酷似していたのだ。
つまり、これは、ただの都市伝説などではなかった。それは、過去に実在した、悍ましい事件が根源となり、呪いとして、今この瞬間に拡散し、そして今も、私たちを、誰かを、あの異界へと執拗に引き摺り込んでいるのだ。
そして、今夜もまた、異界送りという、死の“儀式”が行われる。
私たちは、ただ生き残るだけではダメだ。この終わりなき、地獄のような呪いの連鎖を、自らの手で、止めなければならない。私の胸に、恐怖と、そして新たな決意が、燃え上がっていた。
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