5 第三夜への序曲
もう夢ではないことは明らかだった。昨夜の悪夢が、紛れもない現実として、私の全身に刻み込まれている。身体の芯に残る疲労感と、脳裏に焼き付いた血と肉の惨状が、それを強く主張していた。教室が今、どうなっているのか。その答えを知ることに、私は言いようのない恐怖と、しかし抗いがたい衝動に駆られた。重い体を無理やり起こし、冷たい制服に袖を通す。
階下を降りると、いつものように朝食の匂いが漂っていた。
「お母さんおはよう、今日はもう出るね」
私の声は、ひどく掠れて、まるで他人事のように聞こえた。
「ちょっと待ちなさい、はい、お弁当。気をつけてね」
優しい母の笑顔は、いつもと変わらない。その温かい眼差しは、私の心の奥底に広がる闇を、ほんの少しだけ溶かしてくれるような気がした。しかし、同時に、この平穏な日常が、いつまで続くのかという、底知れぬ不安もまた、胸に募っていった。
学校に到着し、教室の扉を開けた瞬間、生暖かい、湿った空気が私の頬を撫でた。そして、目の前の光景に、私の心臓は凍りついた。
九つの机に、真新しい花瓶が置かれていたからだ。純白の百合が、まるで墓標のように、その場に佇んでいる。昨日、五つだった花瓶が、さらに四つ増えていた。それはもう、偶然の欠席や、風邪で休んでいるなどと、誰も言い訳できない数だった。
教室には、沈痛な空気が満ちている。生徒たちは互いに顔を見合わせることもせず、ただ、花瓶が置かれた机を、怯えたような視線で、しかし避けるように見つめていた。
その異様な事態は、当然のように学校中でも噂になり始めていた。
「2年A組の欠席、ちょっと多くない?」
廊下を歩く生徒たちの囁きが、嫌でも耳に届く。
「なんか、異界送りに選ばれたらしいよ」
噂は既に、核心を突き始めていた。
「でも先生は何も言わないよな……」
「保護者にも連絡取れないとか、電話も繋がらないらしいよ。家も留守だってさ」
誰ともなく、低く、しかし確実に広がっていく囁き。その声のトーンは、まるで葬式の列にいるかのように沈痛で、学校中に、言い知れぬ不穏と恐怖が満たされていた。私はその空気の真ん中にいた。
前日の異界送りから生還した私。あの地獄のような夜を、どうにか朝まで耐え抜き、この現実に戻ってきた。全身の筋肉が軋み、記憶は鮮明すぎるほどに残酷に脳裏に焼き付いている。
そんな私を、クラスのみんなが遠くから、まるで穢れたものを見るかのように、訝しげな視線で見ていた。彼らの瞳には、恐怖と、羨望と、そして、私への不信感が入り混じっている。
やがて、麗華を中心とした上位層が、私を囲んだ。彼らの表情は、不安と苛立ちに満ちている。
「それでどうやって生還できた?方法は?」
麗華が、有無を言わさぬ口調で問い詰めてくる。その声には、彼女自身の焦りがにじみ出ていた。
「異界ってどうなってんだ?」
「異界で何が起こってるんだ?」
質問の嵐だった。彼らは、私から生き残るための情報を引き出そうと必死だった。しかし、私自身、あの異界の全てを理解しているわけではない。
「あっちは真っ暗闇で、化け物が徘徊していた。捕まると殺される。生還するには朝まで逃げ切る事」
私は、自分が経験し、理解できた範囲だけを、淡々と話した。私の声は、不思議と冷静だった。
「化け物って何だよ、幽霊とかなのか?」
「あれは幽霊とかじゃないと思う。殺した対象を体内に取り込んでいた。とにかく気持ちが悪い何かとしか言いようがない」
私が沙織の変わり果てた姿を思い出して言葉を選んだが、その具体的な描写が、麗華たちの顔をさらに青ざめさせる。彼らは、想像を絶する恐怖に直面しているのだ。
クラスメイト25人中9人が異界に飲み込まれた。残りは16人。クラス全員がいなくなるまで、この異界送りをあと3、4回程度、繰り返さなければならない。
今夜、誰が選ばれるのか。第三階層の“一般生徒”たちは、今夜自分たちが送られることを、最早、覚悟していた。前日も一般生徒から選ばれていたからだ。その絶望が、教室全体を重く覆っていた。
放課後、私は、いてもたってもいられず、職員室に足を運んだ。瀬戸山先生に、この異様な状況について、問い詰めたかった。彼は、何かを知っているはずだ。
「失礼します、2年A組中嶋です。瀬戸山先生に……」
受付の教師に声をかけると、彼女は困ったような顔で答えた。
「瀬戸山先生はお休みですよ」
「……え?」
私の声が、虚しく響いた。
「体調不良とのことで、何か様でしたか?」
「いえ、……失礼しました」
私は、深々と頭を下げ、職員室を後にした。姿を消しているのは、異界に送られた生徒たちだけではなかったのだ。担任である、あの仮面の教師も、いまは、この現実世界にはいない……。
瀬戸山先生までいなくなったという事実は、この異界送りが、学校全体、いや、世界全体を巻き込む、もっと大きな何かの始まりなのではないかという、新たな恐怖を私に突きつけた。
そして私も、再び、あの闇に包まれた教室に送られることを予感しながら、重い足取りで帰宅の途についた。
夕暮れの空が、血のように赤く染まっている。アスファルトに伸びる自分の影が、まるでこの世に残された最後の人間であるかのように、長く、孤独に見えた。
もしかしたら、家族と夕食を共にするのが今夜が最後になるかもしれない。そう思うと、自然と、熱いものが込み上げてきて、涙がとめどなく溢れてきた。
食卓には、いつもの温かい料理が並んでいた。両親は、私の異変に気づいていたのだろう。
「どうしたの?何か辛いのあった?」
夕食を食べながら涙を流している私を、母が優しく気遣ってくれる。その優しい声が、私の心を締め付ける。
「あまりにも美味しくて感動しちゃった」
私は、震える声で、精一杯の笑顔を作って答えた。
「いつもと同じよ、でも美味しいなら良かった」
母は、ふわりと微笑んだ。
「お父さんも激辛なんて良いからこっち食べなよ、美味しいよ」
私は、話題を変えるかのように、父に話しかけた。
「それじゃ、コレにタバスコを、たっぷりと……」
父は、いつものように、いたずらっぽく笑いながら、明太子にタバスコをかけようとする。
「何してんの、ほんとお父さんは味音痴じゃないの?」
家族の、他愛ない、しかし温かい会話。そのひとときの笑いの間に、私は恐怖を、ほんの少しだけ忘れることができた。この時間が、永遠に続けばいいのに。
「ごちそうさま、お父さん、お母さん、ありがとね。おやすみなさい」
私は、精一杯の感謝を込めて、そう告げた。不思議そうにしている両親を階下に残し、自室のベッドに横になった。明日、目が覚める保証など、どこにもない。闇が私を飲み込むのを、ただ待つしかなかった。窓の外は、すでに漆黒の闇に包まれている。
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