4 異界送り第二夜後編
咆哮が鳴り止んだ次の瞬間、私たちの隠れていたロッカーの鉄板が、まるで紙のように、外側から引き裂かれた。
「――ッ!?」
耳を劈く金属の軋む音と、全身を揺るがす強烈な衝撃。私は悲鳴を飲み込み、反射的に遥の腕を掴んで、抉り取られたロッカーの穴から、埃と破片が舞う廊下へと飛び出した。
隣のロッカーでは、結衣がまだ固まっていた。恐怖に囚われ、その場から一歩も動けない。
「結衣、早くっ!!」
私の叫びは、虚しく響くだけだった。結衣の瞳はすでに焦点を失い、白目を剥きかけている。口は半開きになり、まるで声を置き去りにした、魂のない人形のように、微動だにしない。
「結衣……!?」
ドクン、と鈍く、しかし確実に、肉が脈打つような音が響いた。その直後、彼女の胸元から、何かがにゅるりと、粘液を伴って這い出してきた。それは指のようだが、明らかに人間のそれではない。鉛色に淀んだ、何かの表皮のような質感を持つ“それ”は、ぐにゃりと不自然に曲がりながら、結衣の開いた口元に、ゆっくりと、しかし確実に触れる。
その感触が、彼女の意識の最後の砦を打ち砕いたかのように。
直後、結衣の体が、内側から、まるで膨らみすぎた風船のように、破裂した。
生温かい液体と、赤い肉片、そして白い骨の破片が、霧状に飛び散り、廊下の壁を、天井を、私たちを、赤黒く、粘着質に染め上げた。頭蓋の内側に響くような、濁った、鈍い破裂音が、耳の奥で反響し、私の中枢神経を直接揺さぶる。脳が、目の前の光景を処理しきれない。
「う、うそ……」
私は絶叫したつもりだったが、声は掠れ、喉の奥で引き裂かれたように、かすれた呻きにしかならなかった。私の頬に、まだ生暖かい、ねっとりとした肉片が張り付いている。血生臭い、鉄のような匂いが、私の鼻腔を焼いた。
“それ”がまた一つ、命を喰らったのだ。
遥が私の手を、血まみれの指で掴み、力任せに引きずるように走り出した。彼女の顔は、すでに恐怖と絶望に歪んでいる。
「階段はダメ、上は袋小路! 地下に、地下に逃げる!」
この校舎に地下なんて、そう思ったが、異界に常識は通用しない。ここは、人間が作り出した世界ではないのだ。
私たちは、結衣の飛散した肉片が散らばる割れた廊下を駆け抜け、朽ちた階段を駆け下りる。その途中、後ろから、か細く、しかし切迫した「杏」の声が聞こえた。
「待ってぇえええ!!置いてかないでえええ!!!」
振り返ると、杏が、血の気が引いた顔で、よろめきながら廊下を必死に走っていた。その背後では、“それ”が異様に長い腕を伸ばし、すでに触れる寸前まで、その指先が迫っていた。
「手を伸ばして! こっち!」
私は、もはや無意識に、杏に向けて手を差し出した。杏も、地獄から這い上がるように、必死に走る。あと少し……あと、たった一歩で、彼女の指先が私の手に届く、そう思った瞬間だった。
バキィンッ!
耳を劈く轟音と共に、老朽化した天井が、私たちを嘲笑うかのように、一気に崩れ落ちた。
大量の瓦礫と、朽ちた木材の破片が、土煙を上げながら、杏の小さな体を容赦なく巻き込んだ。彼女の身体は、瞬く間に瓦礫の下に埋もれ、その一部だけが、奇妙な角度に折れ曲がった腕と脚が、剥き出しになった。白目を剥き、恐怖と苦痛に歪んだ顔が、こちらを、私を、恨めしそうに見ていた。血まみれの唇が、何かを言おうと、ひくひくと痙攣している。
やっと……助かったと思ったのに。
瞬間、頭上から、冷たく、重いものが、ドサリと落ちてきた。
それは、腕の一本だった。
杏のものだった。ぶら下がっていた制服の袖には、見慣れたはずの学校名が刺繍されていた。なのに、その腕は、まるでどこか知らない記号のように、私には全く現実感がなかった。それは、ただの肉塊と化していた。
私は、震える脚で後ずさり、吐き気をこらえながら、遥とともに目の前の朽ちた扉を蹴り破って、一段飛ばしで階段を降りた。後ろからは、瓦礫の下敷きになった杏の、潰された肉がじわじわと潰れていくような、嫌な音が聞こえる気がした。
地上階と違い、地下は一層湿っていた。
空気が重い。肺の奥まで入り込む匂いは、まるで何百年も閉ざされた、腐敗した洞窟に迷い込んだような、生暖かい、粘りつくような死臭だった。その匂いは、地下全体の、見えない何かを暗示しているようだった。
「ここに、……沙織がいた」
遥が、ぼそりと、しかし確信を込めた声でつぶやいた。その声には、諦めと、微かな恐怖が混じり合っていた。
「生きてた?」
私は、僅かな希望を込めて尋ねた。
「……いた。でも、もう“人間”じゃなかった」
その言葉が、私の背筋を凍らせた。人間ではなかった、とはどういう意味だ。
その時、どこか暗闇の奥から、濡れたような、粘りつくような音が聞こえてきた。
べちゃ、べちゃ。何かを舐めるような、肉を咀嚼するような、悍ましい水音が、ゆっくりと近づいてくる。
暗闇の奥、錆び付いた鉄製の棚の影から、ぞろりと、何かが這いずってくるのが見えた。
それは、人の形をしていたが、その姿はあまりに異様だった。髪は、血と泥でべっとりと濡れ、まるで不気味な海藻のように顔に張り付いている。
顔は……顔だったものは、もはや判別できない。その眼窩は虚ろに窪み、口の端は耳元まで裂け、そこからは黒く変色した舌がだらりと垂れ下がっている。瞳は、何かに焼かれたように白濁し、焦点が定まらない。ただ、口元だけが、何かを求めて、ゆっくりと、しかし執拗に動いている。その異様な動きが、生理的な嫌悪感を呼び起こす。
「……みんな、どこ、いったの……」
それは、沙織だった“モノ”だった。その声は、人間のそれとは異なる、掠れた、獣のような呻きだった。
手の先には、白い骨が覗く、裕子の足首が、まるで肉の塊のようにぶら下がっていた。その生々しい光景が、私の思考を完全に停止させる。
「……っ……うああああああああああっっっ!!」
私は、理性などどこかに吹き飛んで、喉が張り裂けんばかりに叫びながら、足元に転がっていた錆び付いた鉄パイプを、迷うことなく掴み、咄嗟にその“モノ”の頭部に振り下ろした。
ぐしゃっ、という嫌な音と共に、沙織の頭部がぐにゃりと凹み、そのまま奇妙な角度で、ぐるりと180度回転した。脳漿と血が飛び散り、悪臭が鼻腔を襲う。
それでも、“それ”は、動き続けていた。その異常な生命力が、私たちを絶望の淵に突き落とす。
遥が私の腕を掴み、背後にあった鉄扉を、まるでこの状況から逃れようと必死に、力任せにこじ開けた。
「もう無理、ここはだめ、戻るしかない!」
再び階段を駆け上がる。その足音は、私たちの恐怖をそのまま現しているかのように、やけに大きく響いた。気づけば、後ろにはもう誰もいなかった。私は、遥の存在だけを頼りに、必死で駆け上がった。
遥も、さっきから一言も発していない。ただ、私の手を掴む力だけが、異常に強かった。
ふと、振り返ると、彼女は階段の途中で立ち止まっていた。その腕を押さえ、肩を小刻みに震わせている。その顔には、既に諦めと、深い悲しみが刻まれていた。
「ごめん……わたし、やっぱり、戻れないんだと思う」
遥の声は、かすれて、今にも消え入りそうだった。
「なに言ってるの、行こう、まだ……!」
私の言葉は、途中で詰まった。遥の胸元。制服の隙間から、黒く変色した、異様な「手」が、すでに生えていたのだ。その指先が、彼女の皮膚を突き破り、ヌルリと蠢いている。……もう、取り憑かれている。手遅れだ。
「お願い……わたしのことは、忘れて。あんたは、生きて」
遥が微笑んだ。その顔は、もうすぐ崩れ落ちる何かを必死に支えるような、限界の笑顔だった。その瞳に宿る、深い諦めと、私への最後の願いが、私の胸を締め付ける。
「行って」
遥の最後の言葉が、私の耳朶に残響する。
次の瞬間、階段全体が、昨日と同じ、あの漆黒の霧に、容赦なく包まれた。遥の姿は、まるで最初から存在しなかったかのように、あっという間に掻き消えた。彼女のいた場所には、冷たい、虚無だけが残された。
私は一人、その場に立ち尽くすこともできず、ただ、逃げるしかなかった。
一体どれくらい走り続けたのだろう。
薄い朝焼けのような、曖昧な光が、校舎の一角に差し込んでいた。それは、この悪夢に終わりを告げる光のようにも見えた。
開かれた鉄扉。その向こうには、まるで夢のように……光が溢れる、見慣れたはずの教室が広がっていた。
静まり返った教室。誰もいない。そこは、まるで何事もなかったかのように、平穏な空気に満たされていた。
私は、覚束ない足取りで、そこへ歩き出した。脚は震え、心臓は焼けつくように痛む。全身は血と体液と、泥と埃で汚れ、吐き気と疲労で意識が朦朧としている。それでも、わかっていた。
私は、中嶋凛は、生き残ったのだ。
皆を犠牲にして。
気がつくと、私は自宅のベッドの上で、再び、あの穏やかな朝日を迎えていた。まるで、全てが長い悪夢だったかのように。しかし、私の心に深く刻まれた恐怖と、あの血生臭い記憶だけは、決して消えることはなかった。そして、私の瞳には、あの夜、仲間たちを見捨てて逃げた、決して癒えることのない傷跡が、深く焼き付いていた。
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