23 異界崩壊、中嶋凛
異界は、消えた。そう、私は信じていた。そう、思い込もうとしていた。
中嶋凛――私自身は、今や都会の喧騒から少し離れた大学院の研究棟に籍を置き、薄暗い書物と、埃っぽい文献の山に囲まれる日々を送っている。専門は民俗学。特に「民間伝承、都市伝説、そして未解決事件」について、私は血眼になって論文を進めていた。その執拗なまでの探求のきっかけは、まごうことなき、あの“事件”だった。
……かつて通っていた、あの学園で起きた、生徒たちの集団失踪。そこにまつわる呪い。そして、私がその目で見て、肌で感じた「異界」の存在。
その全ては、世間的には「集団ヒステリー」や「不可解な心霊騒動」として処理され、公の記録からは巧妙に抹消された。実際にあの地獄を目撃したのは限られた人間だけで、そしてそのほとんどが、二度と現世に戻ってこなかったのだ。
凛は、奇跡的に生き残った。しかし、その代償はあまりにも大きかった。手放したものも多かった。
平穏な日常は、脆くも崩れ去った。家族との距離は、あの事件以来、修復不可能なほどに開いてしまった。そして何よりも……緒川澪という名の、かけがえのない、そしてあまりにも残酷な運命を辿った、かつての親友。彼女は、私の心の中に、決して癒えぬ傷跡として刻み込まれていた。
研究室の片隅、誰も触れることのないように厳重に積み上げられた資料の中に、凛が私物として置いている、一冊の古いノートがある。それは、あの事件の、私だけの、私にとっての「真実」の記録だった。自分の歪んだ記憶と、断片的にしか残されていない緒川村の地元文献、そして事件当時の怪奇現象を報じる改ざんされる前の地方紙の切り抜きとを、狂ったように照合し、可能な限り真の情報を拾い集めた、血と汗の結晶。誰にも見せたことはない。見せるつもりもなかった。
今日もまた、論文の行き詰まりを感じながら、ふと、そのノートのページに目を落とす。そこには、あの時の異界での出来事が、乱雑な文字と、不気味なスケッチで書き記されていた。そして、脳裏にあの日の光景が鮮やかに蘇る。
「仮面のカケラは、全部、あのとき……光の中に、燃えて、消えたのに……」
仮面を砕いたとき、掌に残っていた、あのひんやりとした、異質な感触は、今や幻のように曖昧だ。あのとき確かに、異界は眩い光を放ちながら崩壊し、澪はその中心で……まるで存在そのものが分解されるかのように、光の中に溶けて、消え去ったはずだった。
だが……あの便箋がポストに入って以来、凛の日常は、再び不穏な影に包まれ始めていた。
ふとした瞬間、誰もいないはずの背後の影に、明確な、しかし実体のない誰かの「視線」を感じることがある。それは、肌を撫でるような冷たい風となって、私の首筋を這い上がってくる。
研究棟の、人気の少ない階段を上っているとき。足音が自分だけのものなのに、一段、また一段と、後ろから誰かがついてくるような、生々しい気配を感じることがある。
あるいは、廊下の掲示板。普段は目にも留めないような、古びた、色褪せた張り紙の束の中に、時折、場違いなほど鮮やかな、だが誰も見ていないような、奇妙な一枚が混じっていることがある。「開け放たれた扉」「繋がる世界」……その乱暴な筆跡は、まるで子供の落書きのようでありながら、私の心臓を鷲掴みにする。
そして、やはり、気にしているのが、自宅のポストに、何の変哲もない顔をして入っていた、あの薄い一枚の便箋だった。
差出人不明。宛名なし。封も、切手もない。まるで、この世の郵便システムとは無関係に、突然現れたかのような不気味さ。
>「異界はまだ、終わっていない」
>「君が終わらせたのは、“あの教室”だけだよ」
>「また、会えるといいね――凛」
差し出した者が、果たして人間なのか、それともこの世ならぬ存在なのか、知る術はなかった。
だがその筆跡。かすかに、凛の記憶の中に残る、あの丁寧な、しかしどこか歪んだ、几帳面な字に酷似していた。
緒川澪。
……そんなはずはない。彼女は、消えた。異界と共に。あの時、確かに私の目の前で、すべてが光に包まれ、塵となったはずだった。
けれど、その便箋から、微かに、焦げたような、煤けたような、そして土と、生臭い血が混じり合ったような、甘くねばつく異界の臭気が漂ってきた。それは、かつて私が嗅いだ、あの忌まわしい匂いそのものだった。
その嗅覚から直接脳髄に叩きつけられるような刺激は、凛の中に、決して消えることのない、根源的な恐怖を呼び起こすには、十分すぎるほどだった。
彼女は、震える手で便箋を封筒の中に戻し、まるで猛獣を閉じ込めるかのように、そっと引き出しの奥へ押し込んだ。鍵をかける手の動きは無意識で、だが確実だった。金属の冷たい感触が、震える指先に伝わる。
異界は終わった。そう思っていた。そう、心から、魂から、願っていた。
でも、今……澪の存在が、あるいは、彼女の中に封じられた異界そのものが、どこかで「まだ終わっていない」と告げている。
仮面は砕け散り、あの教室に縛られていた呪いは、確かに封じたはずだった。
だが、“澪の中に生まれた異界”は、まだ、消えていなかったのかもしれない。
それは、ただの呪われた仮面ではなく、彼女の存在そのものに、深々と、根を張るように宿っていたのだ。そして、それが再び、現世にその影を落とし始めている。凛は、冷たい引き出しの中で眠る便箋を、ただただ見つめることしかできなかった。
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