22 異界崩壊、緒川澪
白い、天井だった。……いいえ、違う。天井ではない。それは、まやかしの空。
雲ひとつない、虚無の青。光はあるのに、その光には温もりも、生命の息吹も感じられない。まるで、誰かが「空とはこういうものだ」と、かつての記憶をなぞって描いた、完璧なまでに偽りの模造品。その無機質な白が、澪の意識にじっとりと張り付いてくる。
緒川澪は、ゆっくりと目を開けた。視界はまだぼやけ、焦点が定まらない。耳には、しん、と遠くで鳴る、風とも水音ともつかない音が響いていた。それは、この空間の奥底から、永遠に湧き出でているかのような、途方もない寂寥感と、不気味な静けさだった。
(……私は、死んだはずじゃなかったの……?)
思考が霞んでいる。肉体の感覚も曖昧で、自身の存在が、まるで希薄な膜一枚で辛うじて保たれているかのようだ。だが、確かに感じる。まだ、終わっていない。崩壊したはずの異界が、自分の中に蠢いているような、おぞましい生の実感。
むしろ、ここからが始まりであるかのような、奇妙で、そして抗い難い予感が、深く深く、澪の魂の奥底に根を下ろしていく。
澪は、緩慢な動きで身を起こした。そこは、誰もいない教室だった。
否……教室の“ような”空間。
存在するはずのない、だが紛れもなく「教室」と認識できるその場所は、すべてが歪んでいた。机は脚が三本しかなかったり、椅子は座面が無限に広がるように見えたりする。窓の外には、ただ虚無が広がるばかりなのに、その窓枠は無限に連なり、どこまでも遠くへと続いていくようだった。
壁の古びた時計は、その針が止まっているにもかかわらず、秒針の音だけが、耳障りなほど正確に、カチ、カチ、と響き続けていた。その音は、まるでこの場所が、永遠の停滞の中にありながら、それでもなお、奇妙な法則に囚われていることを示唆しているかのようだった。
澪は静かに、しかし、その声には、もう人間のものとは言い切れない響きが混じり始めていた。
「ここは……“新しい異界”……?」
凛が、その身を賭して壊したあの異界……あの、緒川村の学校に封印されていた呪われた空間。それは確かに終わった。教室も、そこに宿っていたおぞましい仮面も、そして、あの時の澪の肉体も、すべてが眩い光の中に溶け、消滅したはずだった。
けれど今、彼女は目を開けている。生きている。
……そして、その存在は、かつての異界を内包し、自身が「異界の“核”」と成り果てていた。
かつて彼女を縛り付けた、あの禍々しい仮面は、もうない。
だが、彼女の右手の掌には、薄く、しかし明確に、黒いインクが滲んだかのような、複雑な文様が浮かび上がっていた。それは、この世界の法則から逸脱した力を示す「紋章」であり、同時に、新たな“境界”を開閉する、おぞましい「鍵」のようにも見えた。
ふと、耳に、誰かの声が届く。それは、遥か遠くから響くようで、しかし、自身の内側から湧き上がるようにも感じられた。
「君は、終わらせることを選ばなかったの?」
それは、確かに澪自身の声だったかもしれない。しかし、同時に、異界そのものが、彼女の意識と融合し、その口を通じて語りかけているかのような、二重の声だった。
(……いいえ)
澪は、その言葉に対し、心の中で明確に応えた。その瞳には、すでに人のものではない、しかし、抗い難い覚悟を宿した、深く、底知れない光が宿っていた。
(私は、“引き受けること”を選んだ。この世界が、再び混沌に呑み込まれぬよう。凛とは違う形で、世界を守るために)
彼女の脳裏には、凛の懸命な姿が浮かんでいた。しかし、同時に、緒川家に課せられた「器」としての宿命と、異界が持つ「必要悪」という側面が、彼女の倫理観を深く歪めていた。
その背中から、淡く、しかし確実に、漆黒の霧が立ち昇り始める。それは、かつて凛の前に立ちはだかり、無限の恐怖を植え付けた「異界教師」の、あの不気味で異質な面影が、再び彼女の輪郭を、その存在そのものを覆い始めていた。澪の表情は、どこか遠くを見つめるようで、その口元には、微かな、しかし歪んだ笑みが浮かんでいるようにも見えた。
その頃。現実世界。
異界が崩壊してから数日後の、肌寒い冬の午後。中嶋凛の自宅のポストに、封のない、ごく薄い便箋が一通、ひっそりと投函された。差出人の名前はなく、宛名もなければ、切手も貼られていない。まるで、どこからともなく現れたかのような不気味な存在だった。
凛は、その不穏な薄さの便箋を手に取り、かすかに震える指先で開いた。
そこには、達筆だが、どこか冷たい、薄い筆跡で、たった数行の言葉が記されていた。
> 「異界はまだ、終わっていない」
> 「君が終わらせたのは、“あの教室”だけだよ」
> 「また、会えるといいね――凛」
最後の「凛」という署名は、まるで、かつての親友からの、悪意に満ちた招待状のようだった。
便箋から、微かに、焦げたような、血腥いような、甘くねばつく異界の臭気が漂った気がした。それは、凛がかつて経験した、あの地獄の記憶を鮮明に蘇らせるには十分なほどだった。
彼女は、紙切れが焼き付くかのように熱くなった掌の中で、その便箋を握りしめた。外の陽光が、彼女の顔を照らしても、その瞳には、再び深淵を覗き込んだかのような、深い恐怖の色が宿っていた。
緒川澪。彼女は、異界の崩壊と共に消滅したと思っていた友が、今、自身の中に新たな異界を抱え、闇の中で覚醒したことを、この一枚の紙切れで知らされたのだ。
そして、その新たな存在が、今後、現世にどのような影響をもたらすのか、凛には想像もつかなかった。ただ一つ確かなのは、終わったはずの悪夢が、よりおぞましい形で、再び始まりを告げたということだけだった。
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