21 呪いの起源、緒川村
1975年(昭和50年)。
教壇に立つ緒川陽子教師の目に宿る光は、すでにこの世のものではなかった。彼女は自らの手で悍ましい儀式を執り行い、愛すべき生徒たちを一人残らず異界へと送り込み、その魂を永久に封じ込めた後、自らの喉を掻き切り、血塗れの床に絶命した。
それは、30年の時を経て、再び解き放たれた忌まわしい呪いの終着点であり、同時に、新たな悲劇の始まりでもあった。
その元凶は、今から遡ること30年前――1945年(昭和20年)。
第二次世界大戦の終わりを告げる玉音放送が、まだ人々の耳に届くか届かないかの、焼け爛れた焦土の時代。人々の血と怨嗟が大地に染み込み、現世と幽世の境界が曖まいに揺らぎ始めた頃、辺境の小さな集落、緒川村にて、禁忌の「異界送り」の儀式が執り行われた。
緒川家は代々、この世ならぬ「異界の扉の番人」を生業としてきた。それは、門番というよりもむしろ、その悍ましい扉が不用意に開かぬよう、絶えずその存在に怯え、呪術をもって鎮め続けてきた宿命的な役割だった。
「ばあば、祠から、あの、変な瘴気が溢れてきてるよ……」
庭の奥、苔むした古い祠を指差し、緒川陽子、わずか5歳の少女が、その幼い瞳に不安を湛えながら、緒川家の最年長にして、陽子の曾祖母である和子に告げた。その言葉は、純粋な子供の報告でありながら、和子の老いた顔に深い影を落とした。祠の隙間から、まるで粘つく靄のように、黒ずんだ、青白い瘴気がじわりと滲み出し、あたりに生暖かい、生臭い匂いを漂わせていた。それは、死と腐敗、そして異質な存在の息吹が混じり合ったような、背筋を凍らせる臭気だった。
「人が死に過ぎた……。戦によって、あまりに多くの魂が、恨みを抱いたままこの世を去った。このままでは、異界の扉が、私たちの制御を離れて開いてしまいかねないね……」
和子の声は、老齢と疲弊に加え、絶望の色を帯びていた。その言葉が示すのは、計り知れない厄災の予兆だった。
その時、突然、陽子の父、大助が土間に飛び込んできた。彼の顔もまた、疲れと焦燥で歪んでいた。
「ばあちゃん!これは、どこかに封印するしかないよ!このままでは、村が、いや、この国全体が飲み込まれてしまう!」
彼の目には、焦りだけでなく、ある種の狂気じみた決意が宿っていた。
「学校に異界を丸ごと封印するのはどうかな?あの場所なら、村から少し離れているし、結界を張りやすいはずだ……」
大助の提案は、村の守護者としての緒川家の役割を逸脱し、禁忌へと踏み込むものだった。
和子は、深く、重い溜息を吐いた。
「大助よ……封印するには、贄が必要だよ。それも、おぞましいほど大量の生命エネルギーが必要になる。それだけの人を贄に出来るのかい……」
彼女の視線が、陽子の小さな背中へと向けられる。それは、贄となる可能性のある「人」への、微かな、しかし確かに存在する罪悪感だった。
「たとえ、この村から人がいなくなろうとも……!」
大助の声には、一切の躊躇がなかった。彼の目は、すでに目の前の人命ではなく、来るべき破滅への恐怖に囚われていた。
「贄を気にして異界の扉を開いてしまっては、それ以上の被害が、この世全体に及ぶ。私たちは、この役目を負っているんだ……!」
父の言葉に、幼い陽子はただ震えるしかなかった。その場にいるすべての大人たちの顔が、苦渋と諦め、そして抗いようのない狂気を帯びていく。
「……やるしかないようだね。贄には、何も言わずに送ってしまおう……それが、この世を守る、緒川家の宿命なのだから……」
和子の声は、もはや感情を失っていた。それは、未来への諦念と、避けられぬ業を受け入れた者の響きだった。
村一番の、代々緒川家が使用してきた古い家屋の、奥まった一室に祭壇が築かれた。そこは、普段はひっそりとした、ただの物置だった場所が、今や異界との接点となる神聖にして冒涜的な空間へと変貌していた。煤けた壁には、緒川家代々の呪符が貼り巡らされ、部屋の中央には、奇妙な文様が刻まれた黒い石が置かれ、その上には干からびた獣の骨と、不気味な光を放つ水晶が祀られていた。空気は重く澱み、生ぬるい風がどこからともなく吹き込み、祭壇に供えられた枯れた花弁を揺らしていた。
外の祠から溢れ続ける瘴気は、空間そのものを腐食させるかのように、部屋の隅に歪みを生み出し始めた。それは、陽炎のように揺らめく黒い靄が、次第に濃密な塊となり、やがて、見る者の精神を蝕むような、漆黒の“扉”として形を成していく。扉の中心は、まるで深淵を覗き込むかのような虚無感で満たされており、その奥からは、乾いた風と、凍りつくような冷気、そして微かな、しかし確実に存在する「声」が漏れ出していた。それは、この世の言語では決して表現できない、魂を抉るような、不穏なささやきだった。
この瘴気の濁流を、村の学校へと呪術によって集め、その中に異界を閉じ込めて封印する。それが、緒川家の選んだ、あまりにも残酷な道だった。
祭壇の周りには、緒川家の面々が、顔に奇怪な文様を施し、古びた狩衣をまとい、静かに並んだ。彼らの瞳は、血走っており、疲労と狂気の狭間で揺れていた。彼らは、全身全霊を込めて、この世の理に反する禁断の儀式を行うべく、その場に跪いた。
和子の手が、祭壇に供えられた和紙の束から、一枚、また一枚と、精巧に作られた人型の形代を五枚選び取る。それは、贄となる人間の魂を宿すための依代だった。その一枚一枚に、緒川家の人間が、村人から無作為に、まるで家畜を選ぶかのように選んだ五人の名前を、震える筆で丁寧に、しかし一切の慈悲なく書き込んでいく。その筆跡は、血を混ぜたかのように赤黒く、書かれた名前は、呪いの言葉として空気に溶け込んでいくかのようだった。
緒川家の者たちが、古から伝わる祈祷の言葉を、低く、喉を絞り出すような声で唱え始めた。その声は、重く、淀んだ空気を震わせ、呪詛となって部屋中に響き渡る。すると、祠から溢れていた瘴気が、まるで巨大な渦のようにうねり、祭壇の中心へと吸い込まれていく。そして、その瘴気は、目に見えぬ力に引かれるように、まっすぐに村の学校の方向へと向かい、次々と吸い込まれていくのが感じられた。
学校の中で「狭間」が開いているのか、時折、村中に響き渡る不気味な叫び声が、その光景の残酷さを物語っていた。それは、人間のものではない、何か異質な存在の咆哮と、それに引き裂かれる人間たちの断末魔の混じり合った、耳を塞ぎたくなるような絶叫だった。
「ばあちゃん、どうだ?まだ足りないのか……」
大助の声には、焦燥の色が濃い。彼の顔は、すでに生気を失っていた。
「まだ足りぬ……もっと学校の中に瘴気を溜めなければ、贄を出しても意味を為さぬ……完全な封印には、それだけの“圧力”が必要となる……」
和子の返答は、儀式を止めることを許さない。その声は、呪われた役目を全うしようとする、哀しいほどに冷徹な響きだった。
祈祷は、終わりなく続けられた。どれほどの時間が流れたのか、もはや誰も正確な時を測ることはできなかった。数時間、あるいは数日にも感じられるような、無限にも思える時間が、重く圧し掛かる。
やがて、村中に響き渡る叫び声は、もはや単なる人間の悲鳴ではなかった。それは、肉体が千切られ、魂が引き裂かれるような、この世ならぬ絶叫へと変貌していた。同時に、大地を揺らすような鈍い振動が、地底から這い上がってくるかのように村全体を震わせる。そして、空は、突如として月を覆い隠し、深淵の闇が、村全体を、まるで巨大な獣の顎のように飲み込んでいった。
その時、突然、何度も表現しがたい、おぞましい「咆哮」が、今までで一番大きく、村中に響き渡った。それは、この世のどんな生物も発することのない、音そのものが空間を歪ませ、耳の奥から脳髄を直接揺さぶるような、根源的な恐怖を喚起する響きだった。
「今だよ!」
和子の声が、その咆哮に打ち消されまいと、必死に響いた。
祭壇の護摩の炎が、ゆらめく黒い瘴気を反射し、不気味に燃え盛っている。その中に、和子は、一寸の躊躇もなく、五枚の形代を次々と放り込み、燃やし始めた。形代が炎に包まれ、黒い灰となって消えていく。
すると、その瞬間、村の中から、先ほど名前を書き込まれた五人の人間が、まるで透明な糸に引かれるかのように、意思とは無関係に宙に浮き上がり、学校の方向へと吸い込まれていくのが見えた。彼らの顔は、恐怖と混乱に引き攣り、無意味な絶叫が闇の中に吸い込まれていった。
……まずは、第一段階終了。
緒川家の者たちは、疲労困憊しながらも、その光景を虚ろな目で見つめていた。24時間、学校の様子を見て、異界の封印が完全に安定していなければ、追加の形代五枚をさらに投入する。これを数日間繰り返すことで、学校の中に、完全に異界を封印することができると信じられていた。それは、村人から選び取られた贄が、際限なく異界へと送り込まれることを意味していた。
元々人口の少ない辺境の集落である緒川村は、このおぞましい儀式を終える頃には、その村人のほとんどを失っていた。生き残ったのは、儀式に関わらなかった者や、たまたま村を離れていた者たち、そして儀式を執り行った緒川家の一部だけだった。
しかし、彼らが異界を封印し、儀式を終えたと安堵したのも束の間、さらなる悲劇が村を襲った。形代で送っているわけでもないのに、次々と村人たちが、まるで目に見えない手に掴まれるかのように、異界へと召喚されていったのだ。それは、残された者たちを、底なしの恐怖と絶望の淵に突き落とした。
これは、一種の呪い返し。
強大な呪術を使えば、必ずそれに対しての「返し」が訪れる。それは、この世の理であり、緒川家が代々恐れてきた代償だった。その時、村を離れていたごく一部の村民を除いて、村人全員が異界に送られ、緒川村から人が完全に消え去ってしまうまで、この呪いは続いた。その日を境に、村に人の気配は一切なくなり、呪われた静寂だけが支配する廃墟と化した。
人がいなくなった原因も理由も、外部の者には理解できるはずもなかった。政府は、この不気味な現象に困惑し、この村を地図から抹消し、「立ち入り禁止」の区域として、その存在そのものを闇に葬った。しかし、この地の深奥には、今もなお、封印された異界と、その代償として生み出された呪いが、静かに、そして確実に、次の獲物を待ち続けているのだった。
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