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異界送り  作者: MKT
20/24

20 木下遥

 重力の感覚が、まるで腹の底から内臓を引きずり出されるように消え失せたかと思うと、次の瞬間、足の裏に不意に、ぞっとするほど冷たい床の感触が張り付いた。

 気づけば私は、見知らぬ廃校の教室に立っていた。古びた木製の床板は、長年の埃と腐敗したカビの匂いをまとい、その湿った冷気が裸足の足元からじわりと這い上がってくるようだった。

 外は、ただの夜ではない。窓の外には、すべてを飲み込む漆黒の闇が広がっていた。それは光を拒絶するだけでなく、音も、空間さえも希薄にするような、虚無の“空間”だった。その深淵が、わずかな窓ガラスの反射に、こちらの存在を嘲笑うかのように映り込んでいる。

 教室には本来の灯りはなく、天井からぶら下がる古びた蛍光灯が、死にかけの虫のように弱々しく明滅を繰り返している。その短い閃光が、埃の舞う空気と、壁にこびりつくシミを不気味に浮かび上がらせ、一瞬ごとに影を伸ばしたり縮めたりしていた。その不安定な光の下、天井裏から微かに聞こえるのは、何かが湿った肉体を這わせるような、ぞっとする音だった。まるで巨大なナメクジか、それとも無数の蟲が蠢いているかのようだ。

 

 その場に、絶対女王麗華に選ばれた、クラスヒエラルキー第四層の“日陰者”たちがいた。私、木下遥。そして、井上咲良、金子奈々、高橋里奈、野口芽衣。誰もが、目の前の現実を理解できないまま、蒼白な顔で互いを見つめ合った。その瞳には、恐怖と混乱が入り混じっていた。

 互いの顔を確認するや否や、井上咲良が、張り詰めた沈黙を破るようにヒステリックな悲鳴を上げて駆け出した。

「出してよっ、お願い出してえぇッ!!」

 彼女は、教室の唯一の出入口である扉に、その身をぶつけるように縋りついた。だが、扉は開かない。その古めかしい木製の扉には、本来の取っ手すら見る影もなく、まるで生き物の皮膚のように錆がびっしりと張り付いている。そして、その錆の隙間から、ぞっとするような黒い“歯”のようなものが、ギザギザと不規則に生え出していた。まるで、扉そのものが、巨大な顎のようにも見える。

「いや……やだ……っ……なんでこんな、なんで……!」

 咲良は、その異様な扉から逃れるように壁を叩き始めた。何度も、何度も、狂ったように。乾いた衝撃音が、静かな教室に響き渡る。その度に彼女の細い掌は真っ赤に擦り切れ、やがて皮膚が裂け、生々しい血が床にぽたり、ぽたりと音もなく滴り落ちる。その血が床板の溝に滲み込み、黒いシミとなって広がっていく。

 だが、その血が床に吸い込まれる間もなく、次の瞬間、彼女の頭が、音もなく“抜き取られた”。

 それはまるで、存在そのものが否定されたかのような光景だった。首から上、そのすべてが、透明な刃で切り裂かれたように、あるいは、巨大な吸引力によって一瞬で吸い込まれたかのように、残らず消えていたのだ。絶叫の途中だった口、恐怖に歪んだ瞳、それらすべてが、跡形もなく。

 残された胴体は、まるで糸の切れた操り人形のように、数秒間そのまま立ち尽くしていたが、やがて平衡を失い、ぐらりと前方に崩れ落ちた。鈍い音を立てて床に叩きつけられた胴体は、けいれんを繰り返し、その首の断面は……まるで最初から何もなかったかのように、ぞっとするほど“平坦”だった。そこには、肉の断片も、骨の破片も、血液すらも、何一つ残っていなかった。まるで、この世に咲良の頭が存在しなかったかのように、そこにはただ、異常なまでの空白だけがあった。

 

 次に悲鳴を上げたのは金子奈々だった。彼女の視線は、まだ床に横たわる咲良の胴体に釘付けになっている。

「なんで!なんで咲良が!やだっ、こんなの無理――!」

 その悲鳴がまだ喉元で震えている間に、彼女の背後で“それ”が蠢いていた。それは、扉の隙間から、まるで生きているかのように滑り出てきた。教室の扉がわずかに、ギギ、と錆びた音を立てて開き、そこから生えた異形の舌……いや、それはおぞましい“脊椎の束のような触手”だった。無数の椎骨が節々で連結され、まるで生き物の背骨がそのまま蠢いているかのように、ねっとりと湿った光沢を放ちながら、金子の背骨をなぞるように這い上がっていた。

 その冷たく、粘つくような感触に金子がようやく気づき、全身を震わせて振り向こうとするよりも早く、触手は彼女の首元に猛然と食いついた。その先端は、まるで鋭い顎のように広がり、金子の喉仏を鷲掴みにする。そして、信じられないことに、まるで蛇が卵を丸呑みするかのように、骨ごと、肉ごと、彼女の頭部をゆっくりと、しかし確実に吸い込んでいったのだ。ミシミシ、ズルリ、と不快な音が重なり、皮膚が引き伸ばされ、骨が砕ける感覚が、まるでこちらにまで伝わってくるようだった。金子の体は激しく痙攣し、手足が虚しく宙を掻く。その肉体がばたりと床に倒れる頃には、もう彼女の顔は残っていなかった。ただ、首から下が残された肉塊が、ぴくぴくと小刻みに震え、やがて動きを止めた。その首の断面からは、血の代わりに、黒い粘液がじわりと滲み出していた。

 

 高橋里奈は、何も言わなかった。彼女はただ、全身を硬直させ、床にうずくまり、両手で固く耳を塞ぎ、小刻みに震えることしかできなかった。その瞳は虚ろで、焦点が定まらず、すでにこの世のものではないかのような光を宿していた。

 それでも“それら”は彼女を見逃さなかった。

 彼女の背後、教室の隅にある古びた用具入れの、わずかに開いたドアの隙間から、不気味な“手”のようなものが這い出てきた。それは、人間の手とは似ても似つかない、長く、不自然に歪んだ指を持つ異形の手だった。その指先には、黒く鋭い爪が光っている。

 その手が、里奈の頭部へと忍び寄り、恐怖に硬直した彼女の耳と口を、一瞬にして塞ぎ込んだ。里奈の微かな嗚咽が、手によって封じ込められる。そして、まるで紙風船を潰すかのように、その異形の手は、里奈の頭蓋をゆっくりと、しかし容赦なく握り潰し始めた。

 ミシミシ、という不快な音が、骨が砕ける音が生々しく響き渡る。まるで古い木材がきしむような、粘土を捏ねるような、ぞっとする感触が目に浮かぶ。里奈の体は、最後に一度だけ、大きく跳ね上がり、それきりぐったりと力を失った。頭部は紙粘土のように潰れ、顔面はもはや判別不能な、赤黒い肉片へと変わり果てていた。砕けた骨の破片と、脳漿が混じり合った液体が、床に飛び散る。その匂いは、鉄と、何か腐敗しかけた生肉が混じったような、吐き気を催す悪臭だった。

 

 野口芽衣は、絶望の叫びを上げた。

「どうして……なんで……私たちだけが……!」

 その悲鳴が虚しく響き渡る中、彼女の足元、まさにその真下の床が、まるで生き物のように“開いた”。古びた床板が、黒い舌のような形状にめくれ上がり、ぬめりとした光沢を放つその表面が、芽衣の細い脚に絡み付いた。

 悲鳴を上げながら、引きずり込まれまいと、彼女は教室の壁際に設置された手すりに必死にしがみつく。その爪が、錆びた金属を深く抉る。だが、床から伸びる粘液質の舌は、容赦なく彼女の体を下方へと引きずり込んでいく。指が一本、また一本と、まるで乾燥した小枝のように「パキッ」という鈍い音を立ててへし折られていく。激痛に顔を歪ませる芽衣の指先から、白い骨が覗き、赤い血が噴き出す。

 最後の指が力尽きた瞬間、芽衣の体は、そのまま抗う術もなく、床の中にぬるりと、音もなく飲み込まれていった。まるで深い泥沼に沈むかのように、あっという間に姿を消し、床は再び何事もなかったかのように閉ざされた。そこには、彼女がいた痕跡として、折れた指の血と、引きちぎられた制服の切れ端が、わずかに残るだけだった。

 

 気づけば、私だけが残っていた。

「……うそ……」

 私の周りには、数分前まで生きていた友人たちの、血まみれの残骸が散乱していた。教室は、内臓の生臭い匂いと、錆びた鉄のような血の匂いが混じり合い、粘つくほど濃密な悪臭で満たされている。床は、友人の血液と、得体の知れない黒い粘液でぬめり、その上に散らばった肉片が、蛍光灯の明滅に照らされ、不気味な光沢を放っていた。靴底に、べたりとまとわりつく血の感触が、吐き気を催す。舌の奥には、鉄のような、錆びたような味がこびりつき、唾を飲み込むたびに喉に絡みつく。

 泣いてはいけない。叫んでも無駄。そんなことは、本能が教えていた。

 今、ここで声を上げたら、私も“気づかれる”。それは死を意味する。

 私は、震える体で、震える足で、一歩、また一歩と、死体の間を縫うようにして、廊下に出た。冷たい血の池を避けながら、私は必死に、どこかに……どこかに、この悪夢から逃れる隠れる場所を探した。

 2階に駆け上がり、廊下のその奥に、黒々とした影を落とす掃除用具入れのロッカーが目に入った。それは、この世の常ならぬ恐怖から逃れる、唯一の希望のように思えた。

 私は、錆びた金属の扉を軋ませながら開け、中に滑り込んだ。狭い空間には、古びたモップやバケツが乱雑に詰め込まれており、モップの柄が喉元に当たり、鈍い痛みが走る。それでも、私は構わなかった。生きたい。その一心だけが、私を突き動かしていた。

 扉を、そっと、音を立てないようにゆっくりと閉じる。金属と金属が擦れる微かな音が、世界の終わりを告げるように耳に響く。

 ……ガタッ……。

 すぐそばを、何かが通った音がした。その音は、まるで巨大な肉塊が床を引きずるような、粘液質の、ぞっとする音だった。

 ずる、ずる、と引きずる音が、ロッカーのすぐ外から聞こえてくる。息を止める。肺が苦しさに軋む。心臓は、まるで体から飛び出してしまいそうなほど激しく、ドクン、ドクン、と耳の奥で脈打つ。鼓膜が破れるのではないかと思うほどの轟音だった。

 見つかるな。動くな。忘れられろ。

 頭の中で、何度も、何度も、呪文のように繰り返す。汗が全身から噴き出し、冷たい金属の中で体温を奪っていく。

 外の、ぞっとする引きずる音が、徐々に遠ざかっていく。そして、やがて完全に聞こえなくなった。

 私は、冷たい金属の檻の中で、身体を丸めたまま、小さく小さく、命の限界まで絞り出すように息を吐いた。

 ここには出口などない。生き残ったところで、もう、私は、二度と元の世界には帰れない。その確信だけが、暗闇の中で、私を深く深く、絶望の淵へと突き落とした。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

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