2 出席番号17:中嶋凛
翌朝。私、中嶋凛は自宅のベッドの上で目を覚ました。薄手のカーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの日常を塗り替えるかのように眩しい。
夢、だったのだろうか……。
曖昧な記憶と寝起きで、あの悍ましい出来事が頭の中で混沌としていた。身体に刻まれた疲労感だけが、それが現実だったかのように訴えかけてくる。しかし、思考は深く沈んだ泥沼のようで、明確な結論にはたどり着けない。
「凛、起きてるなら早くご飯食べなさい」
階段下から、いつもの母の声が届いてきた。その声は、昨日までの平和な日々を呼び戻すような温かさで、私の心を僅かに落ち着かせた。
「はーい、今行くー」
やはり夢だったのだろう。凛はいつも通りの日常に戻っていく。朝食の食卓には、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、コーヒーの湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
「今日のお弁当は凛の好きな明太子入り卵焼き入れといたからね」
「明太子大丈夫?前回のは辛かったんだからね」
そう言いながら箸を伸ばしかけた指が、ピクリと止まる。脳裏に、あの夜の冷たい空気と、奇妙に歪んだ瀬戸山の仮面がよぎった。だが、母の朗らかな声が、その不穏な幻をかき消した。
「今回のはいつもの明太子だから大丈夫よ」
こんがりと焼けたトーストを齧りながら、前回、父が激辛と称して常備しているお父さん用の明太子を使ってしまい、昼食時に汗だくになった苦い記憶が蘇る。その思い出が、日常の小さな不平不満として、昨夜の悪夢を覆い隠していく。
「辛いの苦手なのに明太子が好きだなんて面倒な子ね」
呆れたように笑う母の言葉に、私は努めて明るい声で返した。
「ピリ辛が美味しいのよ」
そんな他愛ない明太子談義をしていると、スーツ姿の父が話に入ってきた。
「やっぱり明太子は激辛じゃないと食べた気がしないだろ」
父の顔は、いつもの気の良いサラリーマンのそれだ。あの夜、仮面の下に隠されていた、生気のない空虚な瞳とは全く違う。
「お父さんは味覚がおかしいんだよ。追いタバスコとかして絶対おかしいよ」
「凛にはまだ辛さの味がわからないんだよ」
「もう高二ですけど?」
「はいはい、お父さんはもう出ないと遅れるよ。お父さんのお弁当には激辛卵焼きにしてあるからね」
「それじゃ行ってきます」
「「いってらっしゃーい」」
いつもと寸分違わぬ朝。そのあまりの平和さに、私は昨夜の出来事を、まるで遠い記憶の彼方にある、ただの悪夢のように処理し始めていた。家を出るといつものバス停、いつものバスで学校へと向かう。揺れる車窓から見える景色も、昨日までと何も変わらない。世界は、何事もなかったかのように平穏に回転し続けている。
***
しかし、教室に入った瞬間、その平和な錯覚は、粉々に打ち砕かれた。
そこには、昨夜、黒い霧に飲み込まれて消えたはずの五人の席が、空っぽになっていた。そして、それぞれの机の上には、真新しい花瓶が置かれ、そこに活けられた純白の百合が、見る者の心を締め付けるように、ひっそりと佇んでいる。その白い花が、まるで彼らの不在を、彼らの死を、無言で告げているかのようだった。
ざわめく心を抱えたまま、私は教室の状況を確認する。クラスヒエラルキー第三階層(一般生徒)の私は、決して目立つことはしない。ただ、観察することに徹する。
教室の一角では、女王麗華を中心に、四人の侍女たちが集まっていた。彼らの顔にも、明らかに動揺と、しかしどこか冷めた好奇心のようなものが浮かんでいる。
「夢じゃなかったんだな」
黒崎葵の声が、震えながらも、教室の不穏な静寂を破った。
「五人の机に花って、死んだってこと?」
白石優香が、掠れた声で呟く。その言葉が、凍り付いた現実に、さらに冷たい刃を突き立てた。
「送られてどうなったの?」
緑川紗良の顔は、青ざめて、今にも吐き出しそうに歪んでいる。
「瀬戸山が何かしたんじゃ?」
赤坂美月の声には、わずかな怯えと、しかしそれ以上の詮索するような色が含まれていた。
ヒエラルキートップクラスの会話に、教室中の生徒が聞き耳を立てている。誰もが、何が起こったのか、これから何が起こるのかを知りたがっている。しかし、同時に、その真実を知ることを恐れていた。彼らの言葉が、教室に張り詰めた重い空気を、さらに凝固させていく。
やがて、冷たいチャイムが鳴り響き、担任の瀬戸山が教室に入ってきた。
彼は、いつもの見慣れたスーツを着ていた。しかし、その顔は、以前の生気を取り戻しているどころか、むしろ昨夜の仮面を剥ぎ取った後の、無残な残骸のようだった。目の奥は窪み、肌は土気色に淀み、唇は血の気を失い、ひび割れている。生きた人間の顔でありながら、まるで死体が歩いているかのようだ。
麗華たちが矢継ぎ早に質問を浴びせるが、瀬戸山はそれらには一切答えず、ただ「五人は欠席だ」と繰り返すばかり。その声は、まるで遠くから聞こえる反響音のように、力なく虚ろだった。どこか彼の精神そのものが、昨夜の出来事によって深く損傷したかのように見えた。
それだけ言い残すと、瀬戸山はよろめくように教室を出ていってしまった。
「なんだあいつ、マジでクビにしてやる」
麗華の怒りを含んだ声が、教室に響き渡る。理事長の姪である麗華の機嫌を失えばどうなるかくらい、教師達も重々承知している。彼女の言葉は、絶対的な権力を持っていた。
その日の授業は、表面的にはいつも通りに行われた。担任の瀬戸山が担当する国語だけが自習となり、他の教師たちは、五つの花瓶に目をやることなく、平然と教鞭を執った。だが、教室中に広がる底知れぬ不安、目に映る五つの純白の花。それらが、アレは夢じゃなかった、という現実を突きつける。そして、私たちの心に、今夜もアレが起こるのではないかという、悍ましい予感を植え付けた。
クラスヒエラルキー第四階層の“日陰者”は、あの夜、五人がいなくなった。残るは、たった一人。
送るのは五人。残りの四人が、クラスヒエラルキー第三階層の“一般生徒”か、第五階層の“透明人間”から選ばれるのは間違いない。
選ばれないようにするには、女王麗華と侍女たちの機嫌を損なわないこと。波風を立てず、空気のように存在すること。それが、生き残る唯一の方法だと、誰もが暗黙のうちに理解していた。
重く沈んだ空気を引きずりながら、クラスの誰もが静かに学校を後にした。校舎の壁が、私たちを見送るかのように、薄暗い影を長く伸ばしている。
***
その日の夜、再び私は、目を覚ました。
全身を縛り付けるような、冷たい恐怖。
暗い教室。
凍えるような空気の中に、恐怖に震えるクラスメイト達の、生々しい息遣いが響き渡る。
そして……教壇に立つ、あの無機質な仮面の教師、瀬戸山が、ゆらりと口を開いた。
「……五人選びなさい」
その言葉が、私の鼓膜を、そして魂を直接揺さぶる。逃れられない。この悪夢は、終わらない。私は、次に誰が選ばれるのかという、身を切るような不安と、自分が選ばれるかもしれないという、致命的な恐怖に打ち震えた。
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