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異界送り  作者: MKT
18/24

18 選ばれなかった者前編

 中嶋凛があの忌まわしい異界送りを終わらせてから、わずか1年の時が過ぎていた。

 元私立聖リリアーナ女学園のクラスヒエラルキートップに君臨していた桜庭麗華は、桜庭グループの持つ絶大な権力と財力を最大限に利用し、難なく有名大学へと進学した。そしてここでも、彼女は瞬く間に女王の座につき、我が物顔で大学内を掌握していた。

 その傍らには、いつものように取り巻きの四人が控えている。赤坂美月、黒坂葵、白石優香、そして緑川紗良。麗華の一声で、全員が同じ大学へ進学したのだ。

 あの頃の惨劇は、まるで初めから存在しなかったかのように、五人の記憶からはきれいに洗い流されていた。クラスヒエラルキーの頂点に立つ彼女たちは、一度たりとも異界に送られることはなかった。恐怖を味わうことも、トラウマを植え付けられることもなく、何の痛痒も感じずに生きてきた。

 そんな五人が、すべてを忘れ去り、傲慢な日常を謳歌していた、まさにその時、"アレ"は静かに、そして残酷に始まった。

 

 その夜、五人は意識を取り戻した。体が震えるほどの冷気を感じ、ゆっくりと目を開ける。

「……は? なにこれ」

 最初に乾いた声を漏らしたのは、赤坂美月だった。

 視界に飛び込んできたのは、どこかで聞いたことがあるような、古びた板張りの床。使い込まれた木製の机と椅子が、不規則に並んでいる。教室だ。だが、そこには、あの忌まわしい白い仮面をつけた教師の姿も、他の生徒たちの気配も、一切なかった。

 割れた窓ガラスから吹き込む風は、夜の湿気と、言い知れぬ鉄錆のような、生臭い匂いをまとっていた。天井には辛うじて蛍光灯がぶら下がっているものの、その多くは割れ、残されたものも微かに明滅しているだけで、かえって不気味さを増していた。

「これ、……夢じゃないの?」

 緑川紗良が、冗談めかして笑おうとしたが、その声は恐怖に震え、ひどく上ずっていた。

 彼女の足元では、床板の隙間から、じわりと黒い液体がにじみ出している。それは、まるで古びた血が凝り固まったようにも見え、鼻腔を刺激する鉄錆の匂いは、ここから来ているようだった。

「やめてよ、紗良。こういう冗談、ほんっと無理」

 白石優香が露骨に不機嫌な声を上げた。その顔は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいる。だが、その場にいる誰もが、うすうす感じていた。

 ここは、普通じゃない。

 これは、再び“始まって”しまったのだ。

「麗華、なんとかしてよ!」

 黒坂葵が焦燥に駆られたように桜庭麗華へと振り向く。その言葉に、全員の視線が、絶対的な“女王”へと向けられた。

 桜庭麗華は、黙っていた。その表情は、普段の傲慢な笑みとはかけ離れ、眉ひとつ動かさず、ただ教室の出入り口を凝視していた。

 扉は固く閉じられ、その取っ手には、まるで生きているかのように、黒い“根”のようなものが、びっしりと絡みついている。それは、逃がさないとでも言わんばかりに、扉全体を貪るように覆っていた。

「ねぇ……中嶋凛は?」

 誰かが、震える声で呟いた。

 その名前に、薄く記憶の底がざわついた。

 “生き残った唯一の女”。

 “あの時、ただ一人だけ異界に送り込まれ、そして戻ってきた、呪われた存在”。

 けれど……彼女の姿は、この凍てつくような教室にはなかった。

 その代わりに、何か、別のものがいた。確実に。

 ギイィ……。

 廊下の向こう、どこかの扉が、ゆっくりと、しかし確実に、軋む音が響いた。錆びた蝶番が泣いているかのような、不快な響き。

「いま、聞こえたよね……?」

 優香の震える呟きとともに、五人全員が硬直した。

 廊下に続くガラス窓の奥、遠くにぼんやりと人影のようなものが浮かんでいた。だがそれは、妙だった。人間とはかけ離れた、長すぎる腕。見るからに歪んだ骨格。そして、肩から不自然に生えたような、複数の関節が、闇の中で蠢いているのがわかる。

「……人?」

 美月がそう言いかけた、そのとき。それは、四つん這いの姿勢で、異常な速度で廊下を駆け寄ってきた。地面を叩くような、骨の軋むような音が、急速に近づいてくる。

 ドンッ!!

 凄まじい衝撃音とともに、ガラス窓一面に、何かがぶつかった。鈍く、重い、肉塊が叩きつけられたような音。

 その瞬間、美月が、喉を掻きむしるような悲鳴を上げた。

「来たっ、やば、なにあれ、やばいやばい、やばいっ!!」

 パニックに陥った美月は、我先にと教室を飛び出した。扉を無理やりこじ開け、暗い廊下へと、無我夢中で駆け出した。誰かが「待って!」と叫ぶが、もう彼女の耳には届かない。

 そして、教室の窓の外、視界の片隅で、“それ”が、天井を這っていくのが見えた。まるで、獲物を追いかける蜘蛛のように、逆さまのまま、異常な速さで。

「誰かっ、誰かいないの!? 助けてよ!!」

 廊下を走る美月の足音が、板張りの床に、恐怖を煽るように響き渡る。その反響が、廊下の奥へと吸い込まれていく。

 彼女の視界には、出口らしき非常口の緑色のマークが、闇の中にぼんやりと浮かんで見えた。希望の光に、美月の顔がかすかに輝く。ほっとした、まさにその瞬間……。

 ゴオォッ!

 頭上の天井が、不気味な音を立てて抜け落ちた。木屑と埃が舞い上がり、美月の細い体が震える。

 どさりと落ちてきた異形のそれは、まるで巨大な蜘蛛のような、おぞましい脚を、美月の四肢に、躊躇なく突き立てた。肉が裂ける、鈍い音。

「ぎゃああああああああっ!!!」

 突如、美月の腕と脚が、逆方向に、ありえない角度で引っ張られた。骨が軋む音。関節が外れる嫌な音。筋がブチブチと音を立ててちぎれていく感触が、美月の全身を襲った。

「やだやだやだやだやだやだやだやだっ!!!!!!」

 絶叫が、喉の奥から張り裂ける直前、異形のそれは、自身の、まるで蛇の舌のような、粘液質の触手を、美月の口に、無理やりねじ込んだ。

 触手は、美月の喉の奥深くまで達し、さらに奥へ、頭蓋の裏側にまで侵入していくのがわかる。ゴリッ、と、頭蓋内部で何かが砕けるような音がした。美月の両目が、ぐりんと裏返り、白濁したまま、宙を睨んで動かなくなった。

 バキッ。

 異形のモノは、美月の肉塊と化した上半身を、まるで獲物のように持ち上げたまま、天井裏の闇へと、ゆっくりと、しかし確実に、戻っていった。

 廊下の壁には、美月の爪で引っ掻いたような、血の痕が、まるで「たすけて」と、読めるように、無残に、しかし鮮やかに残されていた。そこには、彼女の絶望と、最後の懇願が、凝縮されているようだった。

 

 赤坂美月の悲鳴が遠ざかってからも、教室に残された四人は、誰一人として動くことができなかった。

 教室の空気は凍りつき、ぴたりと時間さえ止まったようだった。耳の奥では、美月の最後の絶叫が、幻聴のように反響し続けている。

「……嘘、でしょ……?」

 震える声を絞り出したのは黒坂葵だった。その顔は、血の気を失い、まるで死人のように青白い。

 あの美月が、自分たちの中で、最も強く、最も傲慢だった美月が、こんなにあっけなく、文字通り肉塊と化して消え去った。

 信じられない。信じたくない。脳が、目の前の現実を拒絶する。

 けれど、廊下に点々と残った、どす黒い血の筋と、壁に爪で刻まれたような、赤い文字が、それを否応なく現実に引き戻した。鉄錆の匂いが、鼻腔の奥にまとわりつく。

「麗華……あたし、どうすればいいの……?」

 葵は、縋るように、桜庭麗華に目を向けた。その瞳には、かつての絶対的な女王への、最後の、しかし切実な願いが込められている。

 だが、女王の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。いや、違う。それは恐怖を認めまいとする、完璧なまでの無表情の仮面だった。彼女の顔は、あまりにも静かで、あまりにも冷たかった。

「くっ……ふざけんなよ……こんなのおかしいだろ……!」

 葵が突然、怒りに身を任せて、机を蹴り上げた。崩れかけた机が、ガラガラと乾いた音を立てて倒れる。その音は、この静寂の中で、あまりにも大きく響き渡った。

「私たちは関係ないじゃんか! 中嶋凛の話で終わったんじゃないの!? なんで今さら、私たちがこんな目に遭わなきゃいけないのよ!!」

 彼女の怒声は、無人の廊下へと反響し、虚しく吸い込まれていく。その声が、静寂を切り裂くように響き渡った、まさにそのとき……。

「……葵、静かに」

 白石優香が、死人のように青ざめた顔で、唇を震わせながら囁いた。その声は、恐怖に歪んでいた。

「音を立てると、来る……ッ」

 だが、もう葵の耳には届かない。彼女の理性のタガは、完全に外れていた。

「うるさいっ……っ、私は帰る、絶対に帰るから!!」

 怒りに身を任せ、葵は走り出した。廊下の奥、非常階段とは反対側、別館へ続く古びた渡り廊下へと。

 その瞬間、彼女の足元の床が、音もなく“溶けた”。

 葵の足元が、ぬるりと、嫌な音を立てて沈む。まるで液体の肉に踏み込んだような、異様な感触。肌にまとわりつくような、ねっとりとした感覚が、彼女の皮膚を粟立たせた。

「えっ……!? ちょっ、何これ、何これ何これ――!!」

 足首に、何かが絡みついた。まるで“へその緒”のような質感。血と脂の混じった、腸のような、異様な弾力を持つ、ぬめぬめとしたものが、彼女の足首を掴んで離さない。

 葵は叫びながら、必死に足を引き抜こうとする。その顔は恐怖と絶望に歪んでいる。

 だが、次の瞬間、彼女の膝が、ありえない方向に、逆方向に折れた。

 バキン――!

 骨が砕ける、甲高い、乾いた音が、渡り廊下に響き渡る。葵の両膝が、内側に、不自然にねじれ、肉が裂ける。足元の肉塊が、彼女の脚を、まるで咀嚼するように、ずるり、ずるりと引きずり込んでいく。

「いやああああああああああああああッッ!!!」

 悲鳴と共に、葵の体が、床の“内側”へと、ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく。口を開けたまま、眼球は血走り、首まで飲み込まれながらも、なおも彼女はもがいた。爪が床板を必死に引っ掻く。皮膚が剥け、血がにじむ。その血が、ずるりと床に吸い込まれていく。

「麗華っ!! 助けてよぉおおおおおお!!!」

 その声が、黒坂葵がこの世に残した最後の言葉だった。その怨嗟と懇願が混じり合った叫びは、虚しく空間に響き、そして、断ち切られた。

 次の瞬間、黒坂葵は“校舎に喰われた”。何も残らなかった。血も、肉片も、悲鳴も、記憶さえも。

 ただ、葵がいた場所に、どこか人間の顔に似た、しかし酷く歪んだ“床板の節”が一つ、まるで嘲笑うかのように、ぬめりと浮かび上がっていた。それは、この校舎が、生きている捕食者であることを、明確に示していた。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

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