17 虚ろな教室の真実
夜の帳が降りた緒川村。私は、仮面の破片を手に、祠の奥へと進んでいた。足元に広がるのは、草に埋もれた石段、苔むした崩れた石畳。月明かりさえも届かぬほど深い闇が、私を飲み込もうとしていた。世界は、少しずつ、その輪郭を失っていく。現実と異界の境界線が、曖昧に溶け合っていた。
風が止まった。虫の声も、木々のざわめきも、すべてが、まるで吸い込まれたかのように消え失せた。私の足音だけが、乾いた音を立てて、この死んだような村に、不気味に響いていた。
祠の裏手には、かつて井戸だったものの跡があった。崩れた縁。黒く、底の見えない穴。そこから、微かに、しかし確かに、風とは違う空気が吹き上げていた。冷たく、重く、腐った花のような、甘いような、嫌な匂い。それは、死の匂いであり、同時に、途方もない時間の匂いでもあった。
私は、仮面の破片を強く握りしめた。その感触だけが、私を現実世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。そして、井戸の縁に立ち、覗き込んだ。そのとき……掌の破片が、脈打つように、微かに光った。
ぐらり、と、視界のすべてが歪んだ。地面が、空が、空気が、ぐにゃりと曲がり、ひっくり返る。まるで、世界そのものが、大きな手のひらの中で揉みくちゃにされているかのようだ。
私は咄嗟に目を閉じた。耳をつんざくような、嵐のような風の音。遠くで、誰かの悲痛な泣き声が聞こえる。教室でチョークを走らせる、乾いた音。生徒たちの囁き声。無数の音が、私の耳の奥で、激しい渦を巻いていた。
ゆっくりと目を開けると、私は、そこに立っていた。あの夜の教室に。あの時と同じ、薄暗く、しかし異様なほどに鮮明な教室。見覚えのある教壇。整然と並ぶ机と椅子。黒板に、白いチョークで、あの言葉が書かれている。
『五人、選びなさい』
だが、それだけではなかった。教室の隅に、子供たちが立っていた。制服姿の少年少女たち。彼らの顔はぼやけ、表情は読み取れない。まるで、モザイクがかかった写真のように、曖昧な存在だった。
彼らは一斉に、私を見た。その瞳には、憎しみも悲しみも、絶望も、恐怖も、すべてが入り混じっていた。それは、かつて私が異界送りを経験したとき、生徒たちが私に向けた、あの視線そのものだった。
私は、必死に口を開いた。声が震える。
「私は、違う。私は、もうあの仮面の教師じゃない。誰も選ばない。誰も、異界に送りたくない!」
しかし、子供たちは、私の言葉を理解しているのかいないのか、一歩、また一歩と、私に近づいてきた。彼らの足音が、虚ろな教室に、冷たい響きを立てる。
(違う、違う……!)
私は後退りしながら、恐怖に震える手で破片を握り締めた。
そのとき。教室のドアが、音もなく、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは澪だった。彼女は、静かに、しかし確かな存在感を放ち、その手に、白い仮面を持っていた。
その仮面は、まるで血で染めたかのように、赤黒く滲んでいた。澪が昨日祠で見つけた、あの破片と同じ色合いだった。
澪は、何も言わなかった。ただ、まっすぐに私を見つめていた。その目は、冷たく、そしてどこまでも、深い悲しみに満ちていた。その瞳の奥には、すべてを受け入れた者の、諦めにも似た光が宿っていた。
私は、理解した。これが、澪の選んだ答えなのだと。彼女は、この呪いを断ち切ろうとしているのではない。この呪いを、世界を守るための「役割」として、受け入れようとしているのだ。
教室の中で、誰もが息を潜めて見守っていた。異界の空気が、ぎしぎしと軋みながら歪んでいく。それは、澪の選択と、私の選択が、この空間でぶつかり合っているかのようだった。
そして、澪は、静かに、ゆっくりと、その仮面を顔に当てた。白い仮面が、彼女の顔を覆った瞬間。澪の身体から、黒い煙のようなものが、ふわりと、しかし力強く立ち上った。それは、異界そのものの呼吸であり、この空間に満ちる怨念の塊だった。
私は、ぐっと破片を握り締めた。その冷たい感触が、私の決意を固める。
(私は、戦う。澪を、止める。)
どんなに悲しくても。どんなに辛くても。彼女を傷つけることになっても。
私は、この呪われた異界を、終わらせる。この連鎖を、ここで、私の手で断ち切るのだ。
教室の空気が、凍りついた。白い仮面をかぶった澪が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その歩みは、ためらいなく、迷いひとつなかった。彼女の背後から、黒い煙が渦を巻き、異界の瘴気が教室に満ちていく。
私は、破片を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
澪は、教壇の前に立ち止まった。そして、静かに仮面を外す。
露わになった顔は、あの頃のまま、穏やかで、優しい澪だった。ただ……その瞳には、狂おしいほどの悲しみが滲んでいた。それは、彼女が背負ってきた、途方もない重圧と、その中で見出した「答え」の証だった。
「凛」
彼女は、静かに、しかし明確に言った。
「君には、わからない。この世界を守るために、私が、そして緒川家が、どれだけのものを犠牲にしてきたか」
私は、唇を噛んだ。喉の奥に、言葉が詰まる。
「犠牲なんて、必要なかった。そんな平和、私は望まない」
「必要だった」
澪はきっぱりと断言した。その声には、一切の迷いがない。
「私たちがこうして生きていられるのは、異界があったからだ。人間が持つ、どうしようもない憎しみや、悲しみや、怒りを、誰かが、この異界に背負って、閉じ込めてくれたから。だから、現実世界は壊れずに済んでるんだ」
私は、首を振った。彼女の言葉は、私の倫理観とは相容れない。
「それは違う。誰かを犠牲にして成り立つ平和なんて、間違ってる。そんなもの、平和じゃない」
「……理想論だね」
澪は、悲しそうに、しかしどこか諦めたように、笑った。
「理想だけじゃ、生きていけないんだ、凛。私たちは、悲しみも、絶望も、どうしようもなく積み重ねながら、それでも世界を繋ぎ止めなきゃいけないんだよ」
その声は、痛いほどに切実だった。彼女の言葉の一つ一つに、彼女が歩んできた苦悩の道が刻まれているかのようだった。
教室の壁が、微かに軋み、歪みはじめる。床から、黒い靄が立ち上る。異界の構造そのものが、この二人の対決に反応し、現実の世界との境界が揺らいでいた。
澪は、手にした仮面を胸に抱きしめた。その仮面は、まるで彼女の心臓のように、脈動しているかのようだった。
「凛。君に、この仮面を継がせるよ」
「……何?」
私の声は、驚愕に震えた。
「君なら、できる。私よりも、もっと強く、異界を守れる。君の血は、この仮面と呼応するはずだ」
そう言って、澪は仮面を差し出してきた。白い仮面。それは、異界送りの象徴。犠牲の象徴。この、終わりのない呪いの象徴。
私は、ゆっくりと首を振った。
「私は、受け取らない」
澪の手が、微かに震えた。彼女の瞳に、かすかな動揺が走った。
「……どうして。君も、血を引いているのに。君には、この役目があるのに」
「だからだよ」
私は、まっすぐに澪を見返した。私の瞳には、もう迷いはなかった。
「私は、この血に流れる呪いを、ここで、終わらせる。もう、誰も犠牲にはしない」
澪は、ふっと、息を吐いた。その吐息は、諦めか、あるいは、私への最後の願いか。
「そうか」
そして、顔に、その血染めの仮面をかぶった。
教室の空気が、一気に黒く、濁った。瘴気が渦を巻き、異界そのものが、澪の存在を中心に、蠢きはじめる。彼女の肉体は、仮面と一体化し、人としての輪郭が曖昧になっていく。
彼女は、もう澪ではなかった。異界そのもの。
異界教師……新たな仮面の支配者。
私は、震える手で、ポケットから取り出した仮面の破片を高く掲げた。それは、私に残された、唯一の希望。異界を終わらせるために。そして、私の大切な友、澪を、この呪いから解放するために。
私は、澪、いや、異界教師に向かって、一歩、歩き出した。
教室の空気は、黒く淀んでいた。
仮面をかぶった澪が、異界そのものを背負って立っている。
彼女の周囲には、かつて異界に消えた生徒たちの影が揺れていた。
彼らは皆、無言で、それでも苦しげに、手を伸ばしていた。
私は、震える手で仮面の破片を握りしめた。
(終わらせなきゃ)
どれだけ辛くても。どれだけ悲しくても。この異界を。この呪いを。
澪が、歩み寄ってくる。仮面の下から、微かな声が漏れた。
「どうして……どうしてわかってくれないの」
私は、答えた。
「わかってる。だから、終わらせるんだよ」
私は破片を高く掲げ、まっすぐに澪に向かって走った。
澪も、仮面の手を伸ばした。
二人の間に、異界の風が巻き起こる。
黒い霧が渦巻き、悲鳴とも、笑い声ともつかない音が響く。
その瞬間、澪の身体が歪み始めた。仮面が砕け散ると同時に、彼女の肉体は膨張し、鋭い爪や棘が皮膚を突き破って現れる。目は赤く燃え盛り、口からはおぞましい咆哮が響いた。澪は、異形のものへと変貌したのだ。
恐ろしさに足がすくみそうになるのを堪え、私は破片を構えた。これが、最後の戦いだ。異形となった澪が、巨大な腕を振り上げて襲いかかってくる。私は身をかわし、迫り来る影の間を縫うように走り抜けた。生徒たちの影が、異形の澪にまとわりつき、その動きを鈍らせようとするが、焼け付くような黒いオーラが彼らを弾き飛ばす。
チャンスを窺い、私は跳躍した。異形の澪の巨大な顔面に向かって、仮面の破片を突き出す! 破片が触れた瞬間、異形の身体に亀裂が走り始めた。黒いオーラが悲鳴のような音を上げ、澪の身体を蝕んでいく。しかし、異形もまた、最後の力を振り絞り、鋭い爪で私を薙ぎ払おうとする。間一髪でそれを避け、私はさらに破片を押し込んだ。
激しい光が放たれ、異形の身体が内側から崩壊していく。悲鳴が止み、黒い霧が晴れていくと、そこに立っていたのは、息を切らせた、元の姿の澪だった。全身は傷つき、力なく膝をついている。
「……ごめんね」
澪が、かすれた声で呟いた。
「本当は、私も、君と同じだった」
崩れていく教室の中で、澪は顔を上げた。その顔は、あの頃と変わらぬ、静かな微笑みだった。澪は、そっと手を伸ばしてきた。私は、震える手を伸ばし、その手を、握り返した。
異界が、消えていく。黒い霧も、悲しみも、絶望も。すべてが、風に溶けていく。
気がつくと、私は、廃村の祠の前に立っていた。朝日が、差し込んでいた。ポケットに入れていたはずの仮面の破片は、跡形もなく消えていた。私は、静かに目を閉じた。
「……さようなら、澪」
風が、優しく頬を撫でた。
***
数ヶ月後。
大学院の研究室で、私は新しい論文に取り組んでいた。
都市伝説、異界、儀式。すべてを、静かに記録していく。
それが、ここで失われた存在たちへの、せめてもの祈りだから。
窓の外では、春の風が吹いていた。
ポケットには、何もない。
ただ、心の中にだけ、澪の微笑みが残っていた。
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