16 血の宿命、そして決別
夜。私はまた、縁側に座っていた。肌を撫でる風が、やけに冷たく感じる。掌にのせた仮面の破片が、私の手のひらで微かに震えている。その震えは、まるで、私の心臓の鼓動と同期しているかのようだった。月明かりに透かすと、破片の奥に、あの朽ちた校舎の幻影が、ぼんやりと浮かび上がった。
(……あの少女は誰だったんだろう)
昨日、広場で見た、白いワンピースの少女。あの手の感触。そして、胸に直接流れ込んできた、悲痛な助けを求める感情。それは、まやかしなどではない。確かに、現実だった。
「眠れない?」
背後から、声がした。振り向くと、やはり澪が立っていた。彼女はいつものように、静かに、柔らかく微笑んでいる。その笑顔は、あまりにも純粋で、同時に、あまりにも不気味だった。
私は小さく頷いた。澪は、私の隣に、音もなく座った。月明かりに照らされた彼女の横顔は、どこか幼く、そして、どこか、途方もない孤独を秘めているように見えた。
「ねえ、凛」
「……何?」
私の声は、ひどく掠れていた。
「君、自分の血のこと、知ってる?」
唐突な問いだった。私は、仮面の破片を握りしめたまま、澪を見た。その瞳は、深淵の闇を湛えているようにも見え、しかし、どこか、私を誘う光も宿しているように見えた。
「……少しは。私にも緒川家の血が流れてるって、聞いた」
その言葉を口にするたびに、私の心臓が、ドクン、と重く脈打った。
「うん。そうだよ。君も、私と同じ」
澪は、微笑んだまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その言葉は、私の中に、新たな真実を、しかし、途方もない重みを持つ真実を突きつけた。
「異界送りはね、誰かを呪うための儀式じゃないんだ」
私は、思わず息を呑んだ。全身の血液が、一瞬にして凍りついたかのような感覚。
「じゃあ……何なの?」
「“守るため”だよ」
澪の声は、どこまでも静かだった。その声には、一切の感情が感じられない。まるで、古くからの言い伝えを語るかのように。
「異界は、世界を守る“檻”なんだ。人間が持つ、憎しみも、悲しみも、怒りも、絶望も、全部、異界に閉じ込める。そうしないと、現実世界は、とっくに壊れてしまっている。だから、現実世界は、平和を保てているの」
彼女はそう言いながら、淡々と続けた。
「たまに、溢れた分だけ、 “贄”(にえ)を捧げる。異界に、彼らの魂を、静かに送り届けるんだ」
私は、言葉を失った。贄……犠牲。この少女は、生徒たちが無残に消えていくことを、世界を守るための“犠牲”だと、正しいことだと、信じている。彼女の瞳には、一切の迷いも、悲しみもなかった。
「緒川家はね、その役目をずっと果たしてきたんだよ」
淡々と。まるで、日常の一部を説明するように、彼女は続けた。その言葉は、私の中に、氷のような現実を突きつけた。緒川家は、この呪いを代々引き継ぎ、管理してきた存在。そして、私も、その血を引く者として、この役割を継がされる運命にある、と。
「凛も、いずれはきっとわかるよ。これは、悲しいことじゃない。必要なことなの」
澪の瞳は、月明かりに照らされて、どこか無機質に光っていた。その奥に、無限の諦めと、途方もない虚無が潜んでいるように見えた。
私は、何も言えなかった。ただ、彼女の言葉が、私の心の中で、重く、不気味に響き渡っていた。
夜は更けていった。布団に潜り込んでも、私は眠ることができなかった。澪の言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
異界は、世界を守る檻。緒川家は、その檻を管理する者。
ならば、私は……何のためにここに呼ばれた?何を、しなければならない?私は、この“贄”を捧げる役割を、受け入れなければならないのか?
うとうととしかけたとき、ふと、耳元で囁き声が聞こえた。
『たすけて』
私は目を開けた。部屋の隅。月明かりの届かない、濃い闇の中に、小さな、白いワンピースの少女が、ぼんやりと立っていた。その顔は闇に溶け込み、はっきりとは見えない。だが、その姿は、昨日広場で見た少女と寸分違わない。
彼女はまた、助けを求めていた。
私は胸の奥で、何かが音を立てて、ガラガラと崩れた気がした。それは、私の信じていた「正しい」世界の基盤だった。
朝。私は、重たい身体を引きずるようにして布団から起き上がった。
昨夜見た少女の幻影。助けを求める声。あれが夢だったのか現実だったのか、もう私には、区別がつかなかった。現実も、幻想も、すべてが混ざり合い、私を蝕んでいく。
縁側に出ると、すでに澪が外で待っていた。彼女はいつも通り、穏やかに微笑んでいた。その笑顔は、私を不安にさせる。
だが、その笑顔の奥に、私はどうしても拭いきれない、深淵のような影を見る。それは、彼女が背負う、途方もない「役割」の重さなのだろうか。
「今日は……どこへ行くの?」
私は、努めて平静を装って聞いた。
澪は、少しだけ首をかしげた。
「今日は、案内しないよ」
「え?」
「君は、もう十分に知ったから」
澪の言葉は、穏やかだった。だが、その奥には、明確な「別れ」の響きがあった。もう、これ以上、私に教えることはない、と。
広場の祠の前。私たちは、向かい合って立った。朝日が、祠の傾いた鳥居を、赤く染めている。
「凛」
澪が言った。その声は、どこまでも澄んでいた。
「ここから先は、君が選ぶんだ」
彼女の声は、静かだった。けれど、その言葉には、私たちの運命を分かつ、明確な線引きがあった。
「君が異界を壊したいなら、止めはしない。でも、私は、君とは違う道を選ぶ」
私は、黙って澪を見つめた。彼女の瞳は、一点の曇りもなく、揺らぎがなかった。彼女は、この「贄を捧げる」という行為を、本当に世界の秩序を保つための「必要なこと」だと信じていたのだ。その信念は、私とは相容れない。
私は、胸の奥に、深く、鋭い痛みを感じながら、口を開いた。
「私は、そんな世界、いらない」
私の声は、震えていなかった。犠牲の上に成り立つ平穏なんて、信じたくなかった。多くの生徒たちが、理由も分からず消えていく地獄を、私は決して許容できない。
「私は、異界を壊す。もう誰も、こんな目に遭わせたくない」
澪は、ふっと微笑んだ。それは、寂しそうな、でもどこか誇らしげな微笑みだった。私の選択を、彼女なりに受け入れた証なのだろうか。
「そっか」
それだけ言って、彼女はくるりと背を向けた。その背中は、あまりにも小さく、しかし、同時に、あまりにも重い宿命を背負っているように見えた。
「じゃあ……」
小さく、でもはっきりと、彼女は言った。
「また、異界で会おうね」
その言葉は、決別の挨拶であると同時に、新たな戦いの予兆でもあった。彼女の背中は、静かに夕暮れの中へ、ゆっくりと溶けるように消えていった。
私は、一人、祠の前に残された。風が草を揺らす音だけが、耳に響く。遠くで、鳥の影が飛び立つ気配。
異界は、もう、すぐそこにある。私を呼んでいる。
私は、ポケットから仮面の破片を取り出した。血に染まった破片。冷たく、しかし、確かな重みがあった。
これが、扉を開く鍵。私は、深く息を吸い、覚悟を決めた。これから先、何が待ち受けているかはわからない。生きて帰れる保証もない。
でも、進むしかなかった。さようなら、異界。そして、さようなら、かつての澪。
私は、破片を強く握り締め、祠の奥へと、一歩、歩み出した。その足は、もう、震えていなかった。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
いいね、ハート、応援、コメント、ブックマーク等貰えると凄く嬉しいです。




